2024年03月01日号
次回3月18日更新予定

artscapeレビュー

2016年01月15日号のレビュー/プレビュー

国宝 一遍聖繪

会期:2015/10/10~2015/12/14

遊行寺宝物館[神奈川県]

《一遍聖繪》とは、時宗の宗祖、一遍上人(1239-1289)の行状を描いた鎌倉時代の絵巻。国内最古の絹本著色絵巻で、国宝に指定された名品である。今回の展覧会は、これを所蔵する時宗総本山清浄光寺の遊行寺宝物館が、その全十二巻を一般公開したもの。一巻の全長がおよそ10メートルだから、全巻を合わせると、およそ130メートル。それらが決して広いとは言えない会場に一挙に展示された。
「南無阿弥陀仏」。一遍上人は、この六文字による念仏を唱えるだけで誰もが往生を遂げることができると説きながら全国を行脚した。《一遍聖繪》には、その旅の道程が四季それぞれで移り変わる風景とともに描かれている。詞書は高弟の聖戒が、絵は法眼円伊が、そして外題は藤原経尹が、それぞれ手がけたとされている。
注目したいのは、十二巻にも及ぶ長大な構成のなかで、俯瞰的な視点による広がりと奥行きのある空間表現を一貫させている一方で、人物表現の密度によって一遍上人の遊行の盛衰を巧みに表わしているように見える点である。旅の始まりは孤独だったが、徐々に同行者が増えてゆき、やがて一遍上人を先頭に列を成すほどの一団となる。
その人物表現の沸点は、おそらく踊り念仏を描いた場面だろう。その始まりは第四巻第五段。そこには、信州は小田切の里に入った一遍上人が、とある武士の館の縁側に立ちながら、朱塗の鉢を叩いて踊る様子が描かれている。一遍上人が視線を向ける庭には3人の僧が同じように鉢を叩きながら踊り、その周囲を取り巻いた民衆も身体を大きく揺らしているのがわかる。通説では盆おどりの起源は踊り念仏にあるとされているが、一遍上人の念仏が「踊り」によって人々を魅了しながら広まっていったことは、ほぼ間違いないのだろう。
その踊り念仏の熱気が最高潮を迎えるのが第六巻第一段である。一遍上人とその高弟たちは、舞台に上がり、胸元に下げた鉦を打ち鳴らしながら激しく身体を動かしている。舞台の下では、群衆がその踊りを見上げているから、この時期、踊り念仏は早くもある種の見世物と化していたのである。
屋外でゲリラ的に実行される身体表現から舞台上で期待されて催されるパフォーマンスへ。一遍上人の踊り念仏のなかに、近代社会における芸術表現が宿命的に陥る隘路を見出すことは難しくない。けれども、その一方で注目したいのは、その群衆のなかに両手を合わせて拝んでいるようにも見える者が少なくないという事実である。踊り念仏がたんに身体表現の高揚感を醸し出す見世物だけでなく、ある種の礼拝の対象にもなっていたとすれば、そこにはベンヤミンが言うところの「展示的価値」と「礼拝的価値」が同居していたことになる。
だが、これを「同居」とみなす見方こそ、近代的なバイアスがかかっているかもしれない。そもそも前近代社会においては、双方は分かちがたいものとして一体化していたと考えられるからだ。物事を明確に峻別する近代的思考法によれば、近代の展示的価値を自立させるために前近代の礼拝的な価値は切り離された。しかし《一遍聖繪》が視覚化しているように、そもそも双方は表裏一体の関係にあったはずだ。しかも、そのような価値のありようは現代美術にも確かに及んでいる。
よく知られているように、1970年の大阪万博では、多くの来場者が岡本太郎による《太陽の塔》に両手を合わせて拝んでいた。また、菊畑茂久馬の《奴隷系図(貨幣)》(1961)にも、来場者が次々と賽銭を投げ入れたため、制作に使用した五円玉の総数が、展示が終わった後、増えていたという逸話もある。つまり、私たちは美術を純然たる展示的価値として受容することが甚だしく苦手であり、それゆえ、いかなる造形であれ、そこにおのずと礼拝的価値を見出してしまうという癖があるのだ。これを、例えば切腹のような前近代的な悪習として退けることは、私たちの身体感覚からすると、あまりにも不自然である。優れた現代美術の作品が展示的価値と礼拝的価値をともに内蔵しているように、戦後美術史は礼拝性によって再編成されうるのではないか。《一遍聖繪》は、みごとなまでに、その契機を示している。

2015/11/13(金)(福住廉)

第5回  陶画塾展/陶画塾展─うつわ─

会期:2015/11/24~2015/11/29

ギャラリーマロニエ/ギャラリーにしかわ 地域:京都府[京都府]

四君子、山水、花鳥、小紋など、やきものの絵付けを勉強するために若手陶芸家が集った陶画塾。メンバーは京都市立芸術大学と京都精華大学の卒業生が中心で、講師は両校に縁のある佐藤敏が務めている。ギャラリーでの展覧会は今回で5度目だが、18作家の作品が展示室の壁面を埋め尽くす様は壮観そのもの。特定の画題を描いていても各人の個性が滲み出るので、絵画展として十分成立している。しかも今回は塾生たちが実際に絵付けした陶磁器の展覧会も同時開催された。年々レベルアップしていく陶画塾に、今後も目が離せない。

2015/11/24(火)(小吹隆文)

中村協子展「孤独なフェティッシュ(Dear Henry)」

会期:2015/11/24~2015/11/29

アートスペース虹[京都府]

自分のアンテナに引っかかった対象物を事細かに観察し、ドローイングや絵画(文章や記号を含む)に仕立て上げる中村協子。彼女の作品の特徴は、独特の着眼点を持つこと、不器用さを残した線を引くこと、大量の作品を制作することだ。本人はいつも冷静で落ち着いたパーソナリティ─の持ち主だが、作品はとてもエキセントリックで、そのギャップが際立つ。2010年以来の個展となる今回は、絵ではなく約80点のドール服を出品。それらはいずれも、アウトサイダー・アートの著名作家ヘンリー・ダーガーの作品に登場する少女たちの服装を再現したものだ。ダーガーは孤独な人生を過ごし、亡くなる直前まで誰にも知られず長大な物語と挿絵を作り続けた。中村はドール服を作ることで、ダーガーの孤独に寄り添おうとしたようだ。また本作のテーマには、制作中のアーティストが抱える孤独、幼子を持つ母(中村もその一人)が感じる孤独も含まれているように思う。一見可愛らしいドール服の裏には、孤独を巡る考察が幾重にも張り巡らされているのだ。

2015/11/24(火)(小吹隆文)

戦後のボーダレス 前衛陶芸の貌

会期:2015/11/28~2016/02/07

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

戦後の京都で誕生し、「オブジェ陶」と呼ばれた前衛陶芸。四耕会や走泥社などに代表されるそれらの動きを、八木一夫、辻晉堂、宇野三吾、山田光、鈴木治、林康夫といった代表的な作家を通して紹介するのが本展だ。ここまで読むと過去に幾度もあった同系の企画展と変わらないが、本展がユニークなのは、彼らと同時代に活躍した美術家の絵画・彫刻が共に紹介されていることである。絵画は、吉原治良をはじめとする具体美術協会の作家や、須田剋太、須田国太郎など、彫刻は堀内正和と植木茂が前衛陶芸と一緒に並んでいるのだ。これにより、単一ジャンルだけの展示では伝わらない時代の熱気や、ジャンル間の影響関係が具体的に伝わり、たいそう面白い展覧会に仕上がっていた。欲を言えば、同時代のもっと多くのジャンルをカバーしてほしかったが、そこまでやると肝心の陶芸が薄れてしまうかも。決して大規模ではないが、秀逸な企画展として評価したい。

2015/11/27(金)(小吹隆文)

川田淳 個展「終わらない過去」

会期:2015/11/13~2015/11/30

東京都中央区日本橋浜町3-31-4[東京都]

辺野古が怒りに震えている。日本政府が沖縄の民意を蔑ろにしながら米軍基地の移設工事を強行しているからだ。このような「本土」と「沖縄」のあいだの非対称性は、確かな事実であるにもかかわらず、本土の人間の無意識に封印されているように、じつに根深い。
本展で発表された川田淳の作品は、「本土」の人間であれ、「沖縄」の人間であれ、見る者にとっての「沖縄」との距離を計測させる映像である。主題は、戦没者の遺留品。沖縄で50年以上ものあいだ、それらを発掘して収集している男と川田は出会い、その作業を手伝い始める。あるとき男は川田に名前が記された「ものさし」を見せ、これを遺族に返還してほしいと依頼する。映像は、川田が主に電話によって遺族を探し出す経緯を映し出しているが、映像と音声が直接的に照応していないため、おのずと鑑賞者は聞き耳を立てながら川田と彼らとのやりとりを想像することになる。
その「ものさし」は、結局のところ遺族に返還されることはなかった。遺族と面会して直接手渡すことを望んだ川田の希望が遺族には聞き入られなかったからだ。川田がそのように強く希望したのは、遺留品に残された無念を汲みながら日々発掘に勤しむ男の気持ちを重視したからである。着払いの郵送を望む遺族に対して、川田はその「気持ち」を粘り強く伝えたが、ついにその試みは実らなかった。「面会」に期待された魂の交流と、「着払い」に隠された慇懃な敬遠。「沖縄」と「本土」、あるいは「戦争」と「平和」のあいだの絶望的なまでに大きな隔たりが、私たちの眼前にイメージとして立ちはだかるのである。
むろん重要なのは、その隔たりを埋め合わせ、できるかぎり双方を近接させることであることは疑いない。しかし、その距離感が現在の沖縄をめぐる現実的な診断結果であることもまた否定できない事実である。川田淳の映像作品は、まさしく「ものさし」の行方を想像させることによって、沖縄との距離感を見る者に内省させるのだ。それは、沖縄の問題というより、むしろ私たち自身の問題と言うべきである。

2015/11/28(土)(福住廉)

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