artscapeレビュー
2012年02月01日号のレビュー/プレビュー
感じる服 考える服:東京ファッションの現在形
会期:2012/01/14~2012/04/01
神戸ファッション美術館[兵庫県]
アンリアレイジ(森永邦彦)、ミナ ペルホネン(皆川明)、シアタープロダクツ(武内昭、中西妙佳、金森香)など、活躍中の10組のデザイナーの仕事を通じて日本のファッションを可能性を探る展覧会。マネキンに服を着せたり吊るしたりというファッション展にありがちな演出を控え、エッセンスを抽出することに重きを置いた展示が光っていた。建築家の中村竜治が展示空間を担当したことも影響しているのであろう。こういう攻めの姿勢が伝わる展覧会はおおいに歓迎。ファッション美術館の存在意義が伝わる展覧会だった。
2012/01/15(日)(小吹隆文)
桂川寛 追悼展
会期:2012/01/11~2012/01/18
三愚舎ギャラリー[東京都]
昨年10月に亡くなった桂川寛の追悼展。晩年に描かれた水彩画をはじめ、シュルレアリスム絵画、モノクロによる風刺画などが発表された。昨年の2月に熊谷守一美術館で催された回顧展では、よく知られている50年代のルポルタージュ絵画を中心に展示が構成されていたが、今回は上京直後に描かれた絵画など、これまであまり知られることが少なかった作品が数多く発表されていた。小規模な会場だとはいえ、資料を細かく配置するなど、充実した展示である。それらの絵を見ていると、擬人化された魚が頻繁に登場していることに気づくが、これは桂川自身を魚に見立てたものだという。他者を動物に見立てたうえで批判的に風刺する画家は少なくないが、自己を動物として描写する画家は珍しいのではないだろうか。ひとを笑うことはたやすい。だが、自分を笑い飛ばすことはなかなか難しい。桂川寛の絵には、その困難な芽が隠されていると思う。
2012/01/18(水)(福住廉)
DOMANI・明日展
会期:2012/01/14~2012/02/12
国立新美術館[東京都]
ここ数年で恒例となった文化庁による芸術家在外研修制度を利用したアーティストたちの成果発表展。比較的近年に外国に渡ったアーティストたち8名による作品を中心に、過去に制度を活用した美術家たちによる作品50点あまりもあわせて展示された。あらゆる都市を廃墟にしてしまう元田久治が圧巻だったが、今回とくに注目したのが、児嶋サコ。近年熱心に取り組んでいるネズミをモチーフとした絵画や立体、そして映像を発表した。児嶋が描き出すネズミは、たとえばChim↑Pomにとってのスーパーラットとは対照的に、捕獲するものではない。むしろ、ネズミは児嶋自身であり、それを見るそれぞれの鑑賞者自身である。デジタル写真を編集したスライドショーの映像は、自然のなかを逃走するネズミの視線が投影されているから、鑑賞者は地を這って走り抜けるネズミの高揚感とスリルを味わえるし、女性の下半身にネズミが融合した立体作品はネズミに「なる」欲望の忠実な反映にほかならない。Chim↑Pomにとってのスーパーラットが同類とはいえ捕捉する他者だとすれば、児嶋にとってのネズミは自己の欲望を一方的に投影するイメージであると言ってもいい。その欲望とは、動物をモチーフとしたキャラクターに自己を埋没させることだけではなく、ちょうどネズミが檻から逃散するように、人間という存在そのものから抜け出すことを表わしているように思われた。人間を覆い隠すための動物化ではなく、脱人間のための動物化。もちろんアニメやマンガといった20世紀のサブカルチャーを顧みれば、そうした傾向は随所に見出すことができる。ただし、それらはあくまでも人間という基盤のうえで動物化の物語を繰り広げているのであって、どれほど動物へ飛躍したとしても、最終的には人間に帰着していた。ところが、児嶋のネズミは人間に立ち返るのではなく、むしろ野原をかき分け、岩壁をよじ登り、自然の向こうに突き抜けてしまう。映像のラストで大きく映し出された雲のかたちがネズミに見えたが、それは人間には決して回帰しない、ある種の決別宣言のように思われた。
2012/01/18(水)(福住廉)
Thought in Japan──700通のエアメール「瀬底恒が結んだ世界と日本」
会期:2011/11/11~2012/01/19
ギャラリーA4[東京都]
企業PR誌制作のさきがけ、コスモ・ピーアールで長年にわたり編集者として活躍した瀬底恒(せそこつね、1922~2008)の人と仕事を紹介する。展覧会は、瀬底恒とコスモ・ピーアールにおける仕事のクロノロジー、母親の万亀と交わした700通に上る書簡、瀬底が留学時代に再発見したグリーン兄弟によるカリフォルニアのジャポニズム建築、そして写真家・石元泰博によるグリーン兄弟の建築作品の写真から構成される。
瀬底恒は戦後間もない1952年に米国に留学。戦前には、母親の親類である柳宗悦を頼り、二年ほど日本民藝館に勤めている。そのため、1952年12月に柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチがアメリカ講演を行なった際に同行したり、1956年のアスペン国際デザイン会議で柳宗理がスピーチをした際の通訳、また帰国直前の1959年6月には棟方志功の講演の通訳を勤めている。当時忘れられていた建築家グリーン兄弟(Charles Sumner Greene & Henry Mather Greene)の作品に着目し、日本への紹介も行なっている。1959年9月に帰国後は、1960年に東京で開催された世界デザイン会議の事務局次長として外国人デザイナー、建築家たちとの交渉に当たったという。そして1961年、留学時代の友人であった佐藤啓一郎・松田妙子夫妻が創業したPR会社、コスモ・ピーアールに入社、1996年に退社するまで、日本企業の海外向けPR誌の編集に携わった。写真家ユージン・スミスを招いて日立製作所の現場を撮影させたり、海外のデザイン・建築の思潮を日本に紹介する仕事もしている。また、企業広報誌を通じては、ただその企業を紹介するばかりではなく、田中一光ら著名なデザイナーや写真家と協働し、日本の文化を海外へ向けて発信し続けてきた。展覧会場のある竹中工務店とは企業誌『approach』(1964年創刊)を通じての関わりである。
瀬底恒がどれほど多くの人々、それも一流の人々と仕事をしてきたのか。瀬底恒82歳のときに刊行されたメッセージ集『瀬底恒を巡る100人のボーイフレンド・ガールフレンド』(非売品、2004年2月)の制作発起人には石元泰博、川添登、三宅一生、柳宗理らが名をつらね、誰もが名を知る建築家、デザイナー、写真家、ジャーナリスト、クライアントたちが彼女との思い出を証言している。その副題「戦後日本のデザイン界を支えた瀬底恒さん」は少しも誇張ではない。彼女がコーディネーターとして果たした役割は、勝見勝や川添登と同様に、戦後日本の建築史・デザイン史におけるキーといえるにもかかわらず、本人が裏方に徹して批評活動など行なわなかったこともあり、本当に情報が少ないのが残念である。彼女は自分の仕事を「団子の串」と例えたそうであるが、人と人、人と場、人と仕事とを結びつける存在の重要性に、もっとスポットライトを当てていかなければいけないのかもしれない。[新川徳彦]
2012/01/19(木)(SYNK)
クリエイター100人からの年賀状
会期:2012/01/14~2012/02/18
見本帖本店[東京都]
しばしば形骸化した慣習といわれ、一部では携帯電話のメールに取って代わられつつある年賀状であるが、特別な理由がなくても、久しくつきあいのない相手とも挨拶を交わし近況を伝え合うことができる良い機会である。そして、小規模な事務所、個人事業者の多いデザイン業界において、それは営業活動の機会でもある。クライアントばかりではなく、同業者、先輩デザイナーたちにも送ることを考えれば、デザイナーにとって年賀状づくりは通常の仕事と同等、あるいはそれ以上のプレッシャーがあるのではないだろうか。この展覧会に寄せられた100人のクリエーターたちの年賀状は、このような期待を裏切らない優れたものばかり。紙の商社竹尾が、関わりのあるデザイナーたちに依頼し、今年は120人ほどが参加しているという。考えてみれば、年賀状のデザインには注文と制約が多い。年号、干支、新年の挨拶、100mm×148mmの限られたスペース。それにもかかわらずほとんどかぶることのないデザインの数々は、クリエーターたちの発想、用紙や印刷技術の多様性を知る見本帖でもある。[新川徳彦]
2012/01/19(木)(SYNK)