artscapeレビュー
2013年03月01日号のレビュー/プレビュー
第61回東京藝術大学卒業・修了作品展
会期:2013/01/26~2013/01/31
東京藝術大学(大学院)・東京都美術館(学部)[東京都]
群を抜いていたのは、高田冬彦と林千歩。それぞれすでに多くの展覧会で発表して作風を確立しているが、いずれも基本的なラインを抑えつつ、集大成というより新たな飛躍を感じさせる挑戦的な映像インスタレーションを発表した。
変態的なパフォーマンスで知られる高田は、壮大なオーケストラの音響にあわせて股間の食虫花を開閉させる作品に加えて、モデルの身体の各部位にとりつけた人形に口頭で指示を出してまぐわせる新作を展示した。荒い鼻息で口にされる甘い言葉には失笑を禁じえないが、しばらく聞いていると一抹の悲哀と愛慕を感じるようになるから不思議だ。
一方、林はミュージカルのような映像作品を上映すると同時に、暗室の空間自体をレリーフや立体造形によって構築することで、映像内の世界観を再現した。インド映画やミュージック・ビデオなどを巧みに引用しながら映像を物語る構成力と、デフォルメした役者の演技を過剰にやり過ぎる一歩手前で押しとどめる演出力がすばらしい。
高田と林の作品に何があるのか、まだわからない。けれども、どんなアーティストであっても、その未知の可能性を私たちに問いかけるからこそ、私たちは新たな作品を期待するのだから、2人が次にどのような展開を果たすのか、注目したい。
2013/01/29(火)(福住廉)
東北を開く神話 第2章『第二の道具~指人形』
会期:2013/01/19~2013/02/03
秋田県立美術館 美術ホール[秋田県]
美術家の鴻池朋子が企画した展覧会。昨年の同時期に、同じ美術館で催した「東北を開く神話」の第2回展である。サブタイトルにあるように、今回は「指人形」をテーマとして、32組の秋田の美術家たちが参加した。
土地に残されている古い言葉を無作為に組み合わせた「呪文」をもとに作品を制作し、それらの作者名を伏せたまま巨大な縄で描いた秋田の地図上に沿って展示した点は前回と変わらない。異なっていたのは、いずれの作品にも観客の指一本を入れるための穴が設えられていたこと、会場の随所に土偶や石器、漆器などが作品に混在するかたちで展示されていたこと、そして展示の終盤に大量の指人形が用意され、ひとつずつ観客に持ち帰らせていたことである。
そのおびただしい指人形の迫力はたしかに凄まじい。全体的に見てみると端布やフェルトを縫合したものが多いが、個別的に見てみると色やかたち、素材などさまざまで、なかには指人形の一般的なイメージからかけ離れたものまであって、おもしろい。それらがとぐろを巻いた縄の上に山盛りにされていたのである。
ただその一方で、「呪文」から制作された作品は、おおむね低調だった。それは、おそらく「呪文」が喚起する詩的な想像力に作品の造形力が追いついていなかったことに由来するように思われる。たとえば「粕毛に伝わる 泣きながら尻をまくって 口をすべらせて秘密をばらすもの」や「藤琴に伝わる 尾てい骨と肛門のくぼみに隠れて 赤ん坊に乳を飲ませているもの」など、今回の「呪文」はエロティシズムをくすぐるような言葉が多い。しかも、それぞれの作品には指を入れる穴があるから、指先に伝わる質感や圧力が、そのエロチックな想像力を否が応にも増幅させるのだ。にもかかわらず、物としての作品が押しなべて弱々しく、そうした想像力を飛躍させる物質的な基盤にはなりえていない。「呪文」から広がる想像の世界から、いつまでも物としての作品が取り残されているのだ。
むろん、「呪文」を図解する作品は凡庸以外の何物でもない。しかし、だからといって「呪文」を無視して自己表現に居直るだけでは、わざわざこのようなグループ展に参加する意味はないこともまた事実である。「呪文」が呼び起こす詩的な想像力を引き受け、そのかたちのない想像力に造形によってかたちを与えること。それは、自己を「呪文」という他者に向かって開く、いわば徹底した自己解体の経験を要請するが、しかし、新たな神話に値する物語は、それを糸口として紡ぎ出されるほかないのではないだろうか。次回があれば、奮起を期待したい。
2013/01/30(木)(福住廉)
松田啓佑 展 STRAIGHTFORWARD
会期:2013/02/01~2013/02/24
eN arts[京都府]
スタイリッシュの対極を行くような無骨で生々しい抽象画を描いていた松田啓佑。しかし本展では、彼の持ち味である図太さや生々しさはそのままに、画面を洗練させるという離れ業的な表現に成功した。具体的な変化として、濁色だけでなく原色を多用するようになったこと、筆のスピード感を生かした線描や形態が見られるようになったことが挙げられるが、そうした表面的な変化以外に、彼の内面にも大きな転機があったように思えてならない。その真偽はともかく、この絶妙としか言いようがない新作をもって、彼の制作が新たな局面に入ったのは間違いない。
2013/02/02(土)(小吹隆文)
田中一光:デザインの世界──創意の軌跡
会期:2013/01/12~2013/03/20
奈良県立美術館[奈良県]
巨匠グラフィックデザイナー、田中一光の没後10周年回顧展。「産経観世能ポスターシリーズ」などの代表作も出品されているが、本展の目玉はなんといっても、田中によるアートの試みに焦点を当てていることだ。とくに「グラフィックアート」の章では、図案化されたロープの作品や、漢字の「つくり」と「へん」が画面に浮遊する作品、幾何学的に抽象化された花や顔の作品など、彼の造形上の実験が堪能できる。田中曰く、グラフィックアートは「デザインで汚染された私の頭の中を真っ白にしてくれる」ものだった。それゆえ、これらの実験的作品にプッシュピン・スタジオや琳派との共通性を見出すことはあまり意味がなく、むしろそれらの作品は、田中がクリエイターとしての原点に返るための作業であったとみなすべきだろう。これらの作品はアートと言うよりはデザイン的であり、また、デザインと言うよりはアート的である。その未分化なもののいくつかは、後に「グラフィックデザイン」へと成熟させられるのだ。余談になるが、筆者は1990年代末に田中氏と仕事上の打合せをしたことがある。氏が多忙ゆえ、打合せ時間は15分と決められていたが、短い時間のあいだに多数の事柄を瞬時に理解され、適切な判断を矢継ぎ早に下される氏の知性には驚きと敬服の念を抱かずにはいられなかった。その想い出があるためだろうか、本展の最後の章で新発見の資料として展示された田中氏の若き頃の人体デッサンや油彩画を目にして、ふと、分刻みのスケジュールに追われるデザイナーから素の人間へと返る氏の姿を想像した。生気あふれるデッサンや油彩画は彼の心象風景であったのだろうと思う。[橋本啓子]
2013/02/03(日)(SYNK)
手塚夏子『私的解剖実験-6──虚像からの旅立ち』
会期:2013/02/03~2013/02/04
Art Theater dB 神戸[兵庫県]
演奏担当のカンノケントが見えない位置から、マイク越しに、横一列に並んだ出演者5人に質問を投げかける。女2人と男3人。冒頭、左から手塚夏子、若林里枝、萩原雄太、大澤寅雄、捩子ぴじんと並んだ。ダンサーもいるが、演劇の演出家や研究者も混じる。「新たなことをチャレンジするとしたら何をしますか?」をはじめに質問が続く。「あなたにとって気持ちのいいことは? さらに、一般に気持ちの悪いことは?」「現在の職業は? 一般に成功とは何ですか?」など。構成はきわめてシンプル。身の回りにある箱やビニールテープを素材につくられた社の如きオブジェが舞台からゆっくり降ろされる儀式的な場面がはじめにあったものの、その後は質問と応答のやりとりが淡々と続く。これがダンス公演? 派手な身振りも、スタイリッシュな振付もない。代わりに目に映るのは、もじもじとしたり、イライラしたり、そわそわしたりしている、不意に痙攣的にゆれる5人の体。「緊張している」とか「トイレに行きたい」とかの演技に見えなくもないが、それにしては動作が切実すぎる。演じているというよりも、どうしてもそう動いてしまうといった「切迫した何か」を感じさせるゆれ。しかもよく見ていると、そのゆれは質問の「一般に~」の部分に答えようとする際、若干だが激しくなっているようだ。
後半、若林がだじゃれのようでもあり卑猥にも響く言葉を連ねながら、凧の糸が切れたようにふわふわと前に進み踊り始め、舞台から客の集まる床へと降りた。それがひとつのトリガーとなって、他の者たちも降りて、「あり、あり」というかけ声だったか、声を上げ踊り出した。正直にいって、見栄えのあるダンスとはいい難いこの踊りは、まるで原始に集団の踊りが誕生したときのように、ゆるやかに起こり、まとまりなく進んだ。観客もこの輪に誘われた。この踊りの吸引力に心身ともに巻き込まれなかったぼくは傍観したが、まるでバリの祭りに潜入しているときのような気分にはなり、いつか会場の扉を潜って出演者たちが出て行ってしまうと、それを追った。小さなロビーでしばらく踊りともはしゃぎともつかない無軌道な集団の状態が続いたあと、この公演らしくない公演らしきものは終了した。
直後、まだ興奮の状態が残ったまま、手塚はトークゲストの砂連尾理としばらくアフタートークを行なった。そこでの手塚の発言を筆者が理解した範囲で整理すれば、この作品の核となっているのは、一般性に基づいて人にルールを課してくる力とそうした力に対して抗おうとする個の力との葛藤である。子どもが電車ではしゃぐとき、それを制止してしまう自分(母親としての手塚)は、社会の規範を望んでもいないのに、その瞬間、規範を体現する者と化してしまう。そんな体験談を例に挙げながら、子どもあるいは内発的な身体あるいは個としての存在が、社会的な規範に抗い、抗いきれずに、その葛藤から撤退して、「あり、あり」と自己の存在を肯定する文句を呟きながら、ゆるやかに祭りの状態を形成しつつ旅立ってゆく、そんな作品だと手塚は説明していた。後半の「あり、あり」の声とともに踊りっぽい動きを見せるところは、違和感との葛藤から撤退した後で、ゆえに解放感はあるものの、動きの動機が曖昧になるぶん説得力に乏しく、実際、前述したように、ぼくは踊りの輪への誘いにのることはなかった。ただし、質問に答えようとしてよじれる前半の身体には、不思議な力があった。規範を内面化してあたかも自発的な動きであるかのように見せるのが通常の訓育的なダンスの理想だとすれば、ここではむしろ規範に合わせることの違和感から不意に出てしまう不随意的動き(これを身体の内発的な動きと言ってもよいだろう)が舞台に上げられている。ぼくはここにもうひとつのダンスがあると思った。これは手塚が見つけた、新しい、もうひとつのダンスだ。かすかで、じれったくも感じるが、真に「私」が「公(一般性)」と闘っているさまの映っているダンスだ。
自身の公演を「私的解剖実験」と称した当初から一貫して、内発的な「自走」する身体に注目してきた手塚が10年を超える模索を経て到達したひとつの境地。公演らしくない体裁も、「公演らしさ」という規範から本人が受け取った違和感を押し隠さぬままにした結果の姿なのだろう。「体の声を聴く」などとよくいうが、たいていの場合、ダンスはその声を聴かない方向で成り立っている。聴き始めた途端に、あらゆるところから違和が発生し始めるからだ。聴かないことで動作は秩序立ちきれいに見える。しかし、そのきれいさはなにのため? 手塚の試みは、観客にそう問いかけているようだ。規範(あるいは社会秩序)よりも大事なものがあるのではないか、少なくとも、規範との葛藤を克服したはてではなく葛藤の最中にこそダンスはあるのではないか、今作の試みはぼくたちにそう呼びかけている気がする。
2013/02/04(月)(木村覚)