artscapeレビュー
2013年03月01日号のレビュー/プレビュー
米田文 展
会期:2013/02/09~2013/02/17
祇をん小西[京都府]
金沢を拠点に活躍している陶芸家の米田文。これまで関西での発表がどれぐらいあったのか知らないが、私は本展で初めて彼女を知った。今回の作品は、時期にちなんで小さな雛飾りがメイン。ほかには、ぐいのみ、小碗、箱があった。雛飾りは2段から5段まで40点近くあり、どれも全長2.5~5センチほどの小品。細部までしっかりとつくり込まれており、思わず手に取って見入ってしまう。釉薬の色彩は九谷焼との共通性が色濃く感じられ、このあたりはさすが金沢の作家である。雛飾りは高価で場所を取り、保管にも気を使うが、彼女の作品なら気楽に愛玩できる。ミニチュア陶器の節句飾りもいいものだ。
2013/02/10(日)(小吹隆文)
Q『いのちのちQ』
会期:2013/02/08~2013/02/11
さくらWORKS<関内>[神奈川県]
Qという劇団名はかつての作品タイトルでも用いた「虫」という文字の字面に似ていることに由来する、とどこかで読んだ。意味に従う仕方とは異なるこうした奇妙なかたちへのセンスが主宰の市原佐都子のうちにあるようで、本作のタイトルもやはり意味不明でしかもどことなく不気味だ。この不気味さは、意味を超えて何かと何か(ここでは「いのち」と「Q」)が無闇に接合されてしまう生理的感触から来るものだろう。ああ、でも、それこそ、生命(より端的にいえば生殖)というものの実質なのではないか。昨年末『虫』を見て以来というQ観劇歴の浅い筆者なのだが、Qの劇の核になっているのは、虫のそれのように不気味な生殖=生命というものの実質なのではないかと、観劇後に強く思わされた。
本作はペットブリーダーの一室が舞台。家では4匹の小型犬が飼われている。3匹の血統種は室内で、1匹の雑種はベランダで暮らす。ペットブリーダー(人間)に支配されている犬たちの生命のいびつさ。それが近親相姦的交配のエピソードなどとともに描かれると、先述した不気味さに見る者は取り囲まれてしまう。テレビ番組『どうぶつ奇想天外!』を見る美貌の犬はジョセフィーヌという名で、八景島シーパラダイスのセイウチとの交尾をかすかに夢見る。だが、ナイスという名のふとっちょなフィアンセとの交尾以外、彼女に選択肢はない。純血種の暮らす室内の逃れられない密閉感は水槽の生命に似ている。見ていて息苦しくなってくる。この苦しさは、人間の生の今日的なありようと重なるようでもあり、そう連想するとさらに一層息苦しくなる。ただし雑種の生はまた別だ。雑種の犬の名は「のりのみや」。天皇家出身であるものの一般男性のもとに嫁いだ女性の名に相応しく、彼女の生は純血のサイクルからはみ出ている。寿司を置いていく代わりに性交を求める人間の存在など、雑種の犬の生は暴力的だが自由でたくましい。こうした純血種と雑種の対比にQの作劇の確かさを感じる。ところで、この対比といい、生理的嫌悪を誘発する不気味さといい、岡崎藝術座と近いと思わされてしまうのは気のせいか。ともあれ、雑種交配への夢と現実は、どんな妄想へと飛躍していくのだろう。そう思い、今後の市原がつくる作品に期待してしまう。
2013/02/11(月)(木村覚)
二年後。自然と芸術、そしてレクイエム
会期:2013/02/05~2013/03/20
茨城県近代美術館[茨城県]
展覧会名にある「二年後」とは、言うまでもなく東日本大震災からまもなく2年が経とうとしている現状を指している。本展は、あの震災によって大幅に再考を迫られた人間と自然の関係について近現代美術の作品から振り返るもの。小川芋銭や横山大観、中村彝、橋本平八から中西夏之、河口龍夫、間島秀徳、米田知子まで、美術家16人による作品が展示された。
震災によって流出した六角堂をモチーフとした中西夏之の新作や、いわきの上空を観音様が飛来する光景を描いた牧島如鳩など、見るべき作品は多い。だが、今回誰よりも瞠目させられたのは、萬鉄五郎である。1923年の関東大震災の翌年に描いたという《地震の印象》は、建物や山が揺れ動く様子をいくぶんユーモラスに描いているが、これとあわせて代表作のひとつである《もたれて立つ人》を改めて見てみると、いわゆる典型的なフォーヴィズムの画面すら、なにやら地震の不気味な振動を体現しているように見えてならない。あの奇妙な浮遊体を頭上にしつらえた《雲のある自画像》にしても、魂の虚脱というより、むしろ滑りこむ地盤の力が凝縮した震源地の象徴のように見えなくもない。
むろん、こうした見方はあまりにも表層的であり、美術史的に正統な理解とは無関係である。けれども、展覧会というフレームが作品の新たな理解を育むものだすれば、時勢に応じた解釈はいま以上になされてよい。企画者が指摘するように、あの震災と次の震災の「あいだ」を生きている私たちに最低限できることは、そのようにして意味を生産することだからだ。
2013/02/13(水)(福住廉)
村川拓也『ツァイトゲーバー』
会期:2013/02/15~2013/02/16
KAAT 神奈川芸術劇場(TPAM in Yokohama 2013)[神奈川県]
2011年のフェスティバル/トーキョーでも話題になった作品。しかし、筆者は今上演ではじめて本作を見たので、ここに雑感を記しておきたい。
最初に村川拓也は簡単に作品を説明したあとで、出演者を客席から募る。介護をテーマにした本作では、実際に日々介護の仕事をしている労働者(工藤修三)が舞台でその1日を実演する。観客の1人がその際の「被介護者」となる。役柄は、目だけで介護者とコンタクトをとる「被介護者」で、ほぼ完全に体を介護者に預けることになる。1人の若い女性が手を挙げ、60分程度に簡略化された1日(昼食を挟んだ夕食前までの時間)の再現がはじまった。介護者・工藤はめがねを掛けた優しそうな若者。だが白いTシャツ越しにはその印象に見合わない隆起した筋肉が見える。そのさまは介護が筋肉労働であることを強調していた。その代わり、介護の感情労働の側面は抑制されていた。介護者と被介護者のコミュニケーションは「あ・か・さ・た・な……」と介護者が声を発し、例えば「あ(行)」で被介護者が瞬きすると今度は「あ・い・う・え・お」と読むなかで瞬きがあったところで一文字(「い」でまばたきがあれば「い」)が特定される、というきわめて根気のいる作業で進められる。そうして届けられる被介護者からのメッセージを基に、介護者は料理をつくり、外出するかどうかなどの決定に応じる。
ストレスのかかる肉体労働のドキュメンタリーは、たいてい健常な肉体ばかりが幅を利かせている劇場空間が普段は見過ごしている被介護者の肉体に光を当てている点で価値ある試みだと思う。抑制された介護者と被介護者のやりとりは、物語的展開を生まない分、「こんなに穏当なことばかりのはずはない。じつはあんなこと、こんなこともあるのでは」と見る側がさまざまな想像をめぐらせる余地を生んでいた。「被介護者」には舞台上で自分の欲求を口にするという指示が課せられていて、若い女性は3回「のどが渇いた」と口にした。しかし、そういう演出だったのだろう、介護者・工藤は淡々とその発言を無視した。そのことが被介護者の孤独を浮き彫りにした。この「被介護者」役を観客が遂行したことには意味があったろう。その仕掛けは観客全員がこの立場を追体験する可能性を与えていたのだから。ただし、やはり本物の被介護者が舞台上にいたら、舞台の質は相当変わっていただろうとも思わずにはいられない。被介護者が客席にいたらどうだったろう、とも思う。リアリティにというよりも想像力に訴えようとの意図は理解できるし、そのことの意味を否定するつもりはない。ただ、演劇の盲点を突くこうしたドキュメンタリーの手法が、演劇変革に寄与するためにあるのか社会変革に寄与するためにあるのかは真摯に考えるべき事柄であるに違いない。もちろん、作家の試みは両方に寄与すべきだ。村川にとってそのための一歩が本作なのだと信じる。
2013/02/15(金)(木村覚)
岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』
会期:2013/02/17~2013/02/18
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]
神里雄大は「ひねくれた人」を舞台に登場させる。その人のねじくれた状態が現在あるいは未来の日本社会の暗部を指し示す。絶望が舞台を駆動させる。希望のなさが語りの真実を保証する。そして、ひねくれた人のダメさが社会への批評になっているとき、舞台に説得力が生まれる。けれども、そのダメさがたんにダメな人を取り上げただけではないかと映る場合「それ、個人の問題かも」とも思わされることもある。筆者にとってどちらかといえば本作は後者だった。主人公は新妻が他人の子を宿したのではないかと疑るダメな夫。前半では新妻にかみつく主人公が描かれ、後半ではその主人公が妻と別れた数年後に社会の落伍者となっているさまが描かれる。神里の見立てでは未来の日本の社会は、多数の多様な外国人が国内に流入しており、そのなかでコミュニケーション手段を日本語しかもっていない者は、就職がままならず、ゆえに一層ひねくれて拝外主義者となり孤立してしまう。彼を孤立させているのはおそらく日本社会ではない、グローバルな世界の運動によるものだろう。いや、そうやって外に原因を求めず、単純に彼自身の問題ととらえるべきかもしれない。自分の孤立を社会のせいにする彼の振る舞いこそ彼の非社会性を示すものであり、だから彼の孤立は彼の自業自得と思わずにはいられない。主人公のひねくれは、ゆえに、彼の妄想癖を示しはするものの、そこから異質な存在が社会において喚起する批評的な何かを読みとるには弱い。今作での神里の狙いはしかし、そうした意味でのひねくれた人で溢れる日本社会の暗い未来を予言することにあったのかもしれない。その描写には崩壊に向かう快楽がないわけではない。けれども、そこで暗い悦楽に浸るよりは、Qの市原の眼差しがそうであるように(と筆者は勝手に想像するのだが)、父親に望まれなかった彼の子どもがどん欲にサヴァイヴする未来を期待しつつ夢見たいと思ってしまう。
2013/02/18(月)(木村覚)