artscapeレビュー
2013年10月01日号のレビュー/プレビュー
人生の民俗─誕生・結婚・葬送─
会期:2013/07/20~2013/09/16
松戸市立博物館[千葉県]
人が生まれ、成人に育ちゆき、やがて結婚し、しばらくすると老いて死を迎え、先祖となってまつられる。人生のライフサイクルを民俗学の知見から振り返った展覧会だ。
お宮参り、お食い初め、雛祭り、鯉のぼり、そして祝言や葬列。現在の都市社会では馴染みの薄い儀式や行事の数々が、同館が属する松戸の農村をケーススタディとして紹介された。文字資料が中心だったとはいえ、なかなか見応えがあった。
特に印象深かったのは、個々のライフサイクルが地域の共同体と密接不可分であり、その接点に人生の節目が刻まれていたという事実だ。共同体はおろか家族という紐帯すら分解しつつある今日の都市社会から見ると、その共同体による分節がやけに新鮮に見える。個人主義の享楽を謳歌しつつも、同時に人工的な共同体を希求する現代人が多く存在していることを考えれば、こうした人生の民俗を改めてつくりなおすことが求められているのではないか。
放射能の時代にあって、人はいま、どう生きるべきか、幸福とは何かを考えあぐねている。人生の民俗がその答えのひとつになりうるとすれば、そのときアーティストは何ができるのか。何かできるはずだ。
2013/09/13(金)(福住廉)
平野正樹 写真展 After the Fact
会期:2013/09/14~2013/11/09
原爆の図丸木美術館[埼玉県]
写真家の平野正樹は、近年、「Money」シリーズに取り組んでいる。これは、交換価値を失った紙幣や株券、証券、債権証書などの画像を取り込み、克明に拡大したもの。裏表の両面を上下に配し、背景にはそれらを部分的に引用した図像を反復させている。
今年の4月に東京・表参道のギャラリー、PROMO-ARTEで催された個展では、リーマン・ブラザーズをはじめとする諸外国の紙幣・証券類を展示していたが、本展の展示物は満鉄の株券や徴兵保険の証券など、帝国主義時代の日本に限定されていた。なお、「Money」のほかに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの家屋に撃ち込まれた銃弾の痕跡をとらえた「Holes」、アルバニアの国内に現存する戦時中のトーチカを収めた「Bunkars」、東ティモールの内戦で打ち破られた窓を主題にした「Windows」も併せて発表された。
政治的・社会的な主題と正面から向き合った写真が一堂に会した会場は、壮観である。展覧会のタイトルに示されているように、それらの写真には過去への志向性が強く立ち現われていたが、同時に現在との接点がないわけではなかった。たとえば壁面に立ち並んだ「Money」は交換価値を失った点で墓標のように見えたが、その一方で生と死の狭間を漂うゾンビのようにも見えた。というのも、「Money」を眼差す私たちの視線には、たんなる追慕や郷愁を上回るほどの交換価値への欲望が明らかに含まれているからだ。「Money」は死んだ。しかし、それらを成仏させないのは、私たち自身にほかならない。会場の天井付近に設置された「Money」は、まさしく生と死の境界を彷徨っているかのようだった。
平野正樹は1952年生まれ。思えば、この世代の優れたアーティストはあまりにも正当に評価されていないのではないか。トーチカを撮影した写真家といえば下道基行が知られているが、平野の「Bunkars」は彼よりはるかに先行している。「Money」にしても、スキャナーによって画像を取り込むという手法は、カメラを暗黙の前提とする従来の写真から大きく逸脱している点で画期的である。
2013/09/14(土)(福住廉)
「T」大崎のぶゆき
会期:2013/09/17~2013/09/28
galerie 16[京都府]
水溶性の紙にペイントし、水の中に浸してイメージが溶解・崩落する様を撮影した映像作品や、壁紙の模様が溶け落ちる映像作品で知られる大崎のぶゆき。昨年に大阪で開催した個展では自分自身を題材にして「記憶」という要素を加味したが、本展ではその発展形とも言うべき新作が展示された。それは、友人Tに子ども時代の記憶を取材し、大崎自身がTの記憶をトレースするというものだ。具体的には、取材で聞き出した場所に実際に出かける、インターネットで情報を収集するなどの行為を行なったが、その過程で浮き彫りになったのは、Tの記憶が極めて曖昧なことだった。つまり人間の記憶はリアルとフィクションがミックスされているのである。作品は、Tから提供された記憶にまつわる写真、関連する物体、大崎の映像とスチール写真で構成されていた。リアルとも、フィクションとも、その両方とも言い難い作品世界を見ていると、はなはだ不安定な浮遊感に襲われる。しかし、その感覚は不快ではなく、むしろ甘美さを伴っているのだ。この両義的な感覚こそが本展の核心であろう。
2013/09/17(火)(小吹隆文)
村上愛 展
会期:2013/09/17~2013/09/22
GALLERY はねうさぎ[京都府]
ぐにょぐにょとした有機的な形態が結合・連鎖し、ひとつの物体を形づくっている。村上愛の陶オブジェだ。彼女は事前にプランを練ることなく、土をひねるうちに見えてきた形をひたすら追い求めている。ディテールを観察すると、そこには植物、鳥、菌類、四足の獣、正体不明の生物らしきものが見える。多様な生命が息づく個にして全の世界。それはまるで森や珊瑚礁のようではないか。そしてもうひとつ忘れてはならないのが、連続する曲線と不安定な形態を支える構造の確かさと焼成技術、そして全体を破綻なく(いや、破たんの連続と言うべきか)まとめ上げる構成力の高さだ。本展では3点が出品されたが、もっと多くの作品で床と壁面が埋め尽くされる様子を見てみたい。それこそ森の中や珊瑚礁の海に包まれるような感覚が得られるのではなかろうか。
2013/09/17(火)(小吹隆文)
奥山ばらば(大駱駝艦)『磔 ハリツケ』
会期:2013/09/13~2013/09/21
「壺中天」スタジオ[東京都]
まるでオーソン・ウェルズの『フェイク』みたいだ!と言ったら大袈裟すぎるだろう。けれども、そんな賛辞を口にしそうになるくらい、今回の大駱駝艦・壺中天の公演は飛び抜けて面白かった。
冒頭、闇から現われたのは、柱に磔にされた奥山ばらば(作・主演)。車輪のように巨体がぐるぐる回される。被虐的な光景は、しかしよく見ると、腕や足に縛られたり釘で打ちつけられたりといった様子がない。ということは、自分で率先して磔にされている? 受動と能動、加虐と被虐がはっきりと線引きされず、曖昧なまま浮遊した状態、この作品の決定的に秀逸なところは、この点に集約される。ほかにも例えば、奥山がほどかれて(自らほどいて)舞台奥に行くと、村松卓矢扮する「磔の先輩」のごとき男がやはり磔にされている(自ら磔になっている)その脇で、柵に体を巻き込んで何度もポーズを変えながら柵に絡まれる(自ら絡まる)シーン。あるいは、この2人をこらしめる古代ギリシア風「奴隷の監視人」らしき男が現われ、鞭を打ち鳴らし2人を怯えさせるのだけれど、自分で振っている鞭の音に自分で驚き「ビクッ」と狼狽えるなんてシーンがある。こうしたシーンはたまたまではなく明澄な知性が生んだものだ。舞踏の創始者・土方巽は死刑囚に「舞踊の原形」を見た。「生きているのではなく、生かされている人間」という「完全な受動性」に舞踏の根源があるなんて言葉を残している。しかし、そうだとしても、それを意図してなんらかの策を講ずるならば「完全な受動性」は途端に揺らぐ。受動を能動的に求めるという矛盾あるいは嘘。これは、舞踏に限らず、およそすべての舞台芸術が共通に出くわす隘路だろう。嘘を嘘と知りながら真に受けてくれる観客の「不信の宙づり」に支えられて、舞台表現は生き存え、同時に問うべき問いが先送りされる。大抵はそんな感じでことなく進むのだが、ウェルズは希有なことに『フェイク』その他の映画のなかで、この嘘の問題に真っ直ぐフォーカスしたのだ。奥山も今作でこの「嘘」という圏へと果敢にもアクセスした。
こうしたコンセプトも素晴らしかったのだが、もう一点言及しておきたいのは、踊りが純粋に面白かったことだ。奥山のソロの動きは、まるで逆再生した映像をトレースしているかのような、不思議な浮遊感があって、次の動作が読み取れず、そのぶん目が離せない。それも魅力的だったのだが、一層重要なことであるのは、大抵の舞踏的な動きとは対照的に、奥山をはじめ、登場するすべての踊り手から内向性をほとんど感じなかったという点だ。ようするにカラッとしていたのだ。観客は踊り手の内の秘めた部分を察知する面倒から解放されるがゆえのことだろう。そうだからか、踊り手の身体は奥山の与える数々の振付で奴隷のように弄ばれているのだが、被虐的ではなく、弄ばせているのだよと言いたげな軽さがある。その点でとびきりだったのが、「磔の先輩」と「奴隷の監視人」が舞台に横並びにさせられたとき、他の踊り手たちが彼らの両手、両足、口、頭などに次々と小道具を握らせ、履かせ、銜えさせ、被せるシーンだった。右手に位牌、左手に裸の人形、眼にはサングラス、頭にはかつら、例えばそんな小道具が盛られると、2人の踊り手はその事態にあわせたポーズを恐る恐るとるのだが、すぐに小道具は別のものに変えられてしまう。そうなると、変化したバランスに対応しようとして、2人はまたポーズを恐る恐るゆっくりと切り替えねばならない。ポーズをとっているようでとらされているようで、なんともいえない、能動と受動のあわいに突っ立った体が、じつに生き生きとしていて面白い。
大駱駝艦・壺中天公演では、しばしば、踊り手の体がちゃんと遊びの道具になっている。まるでゲーム上の体のように、まるでニコニコ動画上の体のように。今作は、そんな彼らの遊び心が躍動しまくっていた。脱帽です。
2013/09/19(木)(木村覚)