artscapeレビュー

2017年03月15日号のレビュー/プレビュー

サラエヴォの銃声

タノヴィッチ監督『サラエヴォの銃声』を見る。第一次世界大戦の引き金となった事件から100年の式典を準備するホテルが舞台である。実在するポストモダンの建築だが、外観の描写は一切なく、カメラは徹底して、内部のさまざまな空間を動きまわりながら、人々の交錯と欧州の複雑な歴史を描く。そして最後に銃声が響くことで、ばらばらに進行していた事態に対し、一気に全体がシンクロする。

2017/02/06(月)(五十嵐太郎)

サトウヒトミ「イグアナの息子」

会期:2017/02/03~2017/02/19

神保町画廊[東京都]

萩尾望都に『イグアナの娘』(1992)という漫画がある。自分がイグアナのような顔と思い込んでいる醜形恐怖症の娘と、母親との確執を描いた異色作だ。タイトルは似ているが、サトウヒトミの「イグアナの息子」はそれとは正反対といえそうな作品で、こちらは家族の一員となったイグアナを撮影し続けた、ユニークなペット写真のシリーズである。
夫婦と息子、娘の4人家族のマンションにイグアナがやって来たのは、「地元の夏の縁日のくじ引き」で、息子が景品のイグアナを引き当てたからだという。手のひらに乗るくらいの大きさだった黄緑色の爬虫類は、それから13年間で1.5メートルの大きさにまで成長する。その巨大化したイグアナを、家族が柔らかに受け容れていく同居生活ぶりが、シュールかつユーモラスなタッチで綴られていく。時折、ファッション写真的な演出が加わったりするのも効果的だ。あまり例を見ない、のびやかな「私写真」として成立しているのではないだろうか。イグアナは2015年に亡くなり、その日から3日間、イグアナと最も親密だった息子は「家に戻らなかった」のだという。むずかしいかもしれないが、サトウにはぜひ、家族の「その後」のあり方も撮り続けていってほしい。より身体性を強めたポートレートなども、いいテーマになりそうだ。
なお、すでに日本カメラ社から写真集『イグアナと家族とひだまりと』(2016)が刊行されているが、今回の展示はそれとは別バージョンになっている。写真を分割して小さなフレームに入れて並べたり、自作の油彩画と写真の合成作品があったりと、展示構成にも工夫が凝らされていた。

2017/02/08(水)(飯沢耕太郎)

あざみ野フォト・アニュアル 新井卓 Bright was the Morning──ある明るい朝に

会期:2017/01/28~2017/02/26

横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室1[神奈川県]

昨年は石川竜一の展覧会を開催した「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、今年は新井卓の「ある明るい朝に」展が開催された。さほど広くない会場だが、充実した内容の展示であり、なによりも意欲的な新作をしっかりとフォローしているのがいい。長く続けてほしいイベントの企画である。
新井は2016年に第41回木村伊兵衛写真賞を受賞して、一躍名前を知られるようになったが、それ以前から世界最初の実用的な写真技法であるダゲレオタイプによる作品制作に取り組んできた。ダゲレオタイプは数10秒~数分の露光時間が必要で、1回の撮影でネガとポジが一体化した複製不可能の1枚の画像しかつくることができない。新井は原爆が投下された広島、東日本大震災の被災地となった福島、東京・江東区夢の島の記念館に展示されている第五福竜丸などに、そのレンズを向けている。あえてダゲレオタイプで画像化することによって、過ぎ去り、忘れられていく出来事を、「マイクロ・モニュメント」として定着しようとする彼の試みは、見る者の心を強くを揺さぶるインスタレーションとして成立していた。ダゲレオタイプは、表面が鏡のように輝いているので、ある角度から目を凝らさないと画像がはっきりと見えない。その特性を逆手にとって、観客が近づくと照明が点灯するようにした仕掛けも、効果的に作用していたと思う。
今回、特に印象的だったのは新作の「明日の歴史」(2016~)である。広島と福島の14~17歳の少年・少女にカメラを向け、彼らへのインタビューとともにダゲレオタイプのポートレートを展示している。「顔の形や体の形」を、できるかぎりシャープに捉えるために、このシリーズの撮影では大光量のストロボをたくさん使って、一瞬の閃光で彼らの姿を浮かび上がらせるようにしたという。さらに東京、沖縄での撮影も予定されているということで、さらに厚みと強度を備えたシリーズとなっていくのではないだろうか。
2014年に制作されたB25爆撃機からカボチャを投下するというシニカルな映像作品《49パンプキンズ》も面白かった。写真・映像作家としての新井の、表現者としての大きな可能性の一端を垣間見ることができた。

2017/02/08(水)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00038340.json s 10133330

喜多村みか「meta」

会期:2017/01/19~2017/02/12

Alt_Medium[東京都]

喜多村みか(2006年にキヤノン写真新世紀優秀賞受賞)の新作は「ポートレート」だった。老若男女、多様な人物たちの姿が、画面のほぼ中央に据えられた横位置の写真が会場に淡々と並ぶ。それはたしかに「ポートレート」としかいいようのない作品なのだが、どこか居心地の悪さを感じる。ひとつは、被写体を同じ位置に、ほぼ無表情に直立させた構成に、作者の強い意思を感じないわけにはいかないからだ。もうひとつは、人物とその背景となる環境とのあいだに、かすかなズレがあるように見えるからである。人物だけが背景から切り抜かれ、コラージュされているように見えてしまう写真もある。
つまり、喜多村のこの試みは、一見さりげない「ポートレート」に見せて、タイトルが示すようにメタフィジカルな問いかけを含むものなのだろう。そのあたりについて、写真展にあわせて刊行された同名の写真集に寄せたテキストで、彼女はこんな風に書いている。
「つまりこれは、私やここに写っている人たちがこの世からいなくなったとき、誰かに見つめられ、そのとき何かを感じさせることが出来るかを問う、わたしの密かな実験でもある。」
たしかに、人物が写っている写真には、そんな問いかけを呼び起こす不思議な力が宿っている。喜多村が指摘するように、あと100年経てば、「私やここに写っている人たち」は一人残らずこの世を去ってしまうからだ。この試みはまだ始まったばかりということで、作品自体の数が少なく、展示のスタイルも定まっていないようだが、少し長く続けていくことで、「メタ・ポートレート」とでもいうべき方向に展開していく可能性があるのではないだろうか。誰をどう撮るのかという基準をよりクリアーにしつつ、作品の完成を目指していってほしい。

2017/02/09(木)(飯沢耕太郎)

萩原朔美作品展 第一部 100年間の定点観測─朔太郎、朔美写真展

会期:2017/02/06~2017/02/17

art space kimura ASK?[東京都]

萩原朔美は以前から定点観測写真という手法にこだわり続けてきた。今回の展示もその流れに沿うものだが、より興味深い内容になっていた。
彼の祖父にあたる詩人の萩原朔太郎は、大正から昭和初期にかけて、ステレオカメラによる撮影に熱中していたことがある。萩原は、残されたそれらのネガをプリントしてその撮影場所を特定し、「100年間」という時を隔てた定点観測を試みた。今回撮影したのは、前橋公園など群馬県内、大森駅前、丸の内、ニコライ堂など東京各地、大阪・八尾の萩原本家などである。むろん、風景は大きく変わっているのだが、朔太郎が撮影した時期の面影がかすかに残っている場所もあり、その共通性を探り当てていくのがなかなか楽しい。萩原自身も、写真撮影を通じてのタイムスリップを堪能していたのではないだろうか。
風景の中にも、同じように人物を配置するなどの工夫をしているのだが、前橋市内の太田写真館(撮影・太田清吉)で撮影された「萩原朔太郎と妹ユキ」(1914)の定点観測の試みでは、それがより徹底されている。2012年に「朔太郎の孫萩原朔美と妹ユキの孫三浦柳」の写真が、同じ太田写真館で、「太田清吉の孫太田紘一氏」の手で撮影されたのだ。同じようにギターを抱えたポーズで、似たような服装、髪型で撮影された肖像写真である。さらに2016年には「朔太郎の曾孫萩原友と妹ユキの曾孫三浦ももこ」の写真が、「太田清吉の曾孫太田奈々絵氏」によって撮影されている。時空を超えて、一枚の肖像写真が再演され続けていくというこの試みは、じつに味わい深い。いつまでできるかはわからないが、次世代でもぜひ続けていってほしいものだ。
なお、同会場では本展の続編として、2月20日~3月4日に「第二部 日付を編んだ本」展が開催された。「レシートや予約表やはがきなど、日付の入ったものを製本した作品」の展示である。こちらにも、彼の場所と日付への執着ぶりがよくあらわれていた。

2017/02/09(木)(飯沢耕太郎)

2017年03月15日号の
artscapeレビュー