2019年12月01日号
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artscapeレビュー

米子匡司「街の道具・その他のこと」

2011年05月01日号

会期:2011/03/26~2011/05/08

梅香堂[大阪府]

川沿いに並ぶ古いトタン板の倉庫の一角に入ると、アートや思想関係の本が壁面に並べられた作業場のような空間に、なにやらわからないふたつの箱がある。良く見ると手作りの自動販売機とジュークボックスだ。OSB合板で無造作につくられた自販機は内部が丸見えで、配線コードの先からガラクタの瓶や美空ひばり、ゴダイゴのレコードなどがぶら下がっている。前面には「10円」「90円」「300円」などと手書きされたシールが貼ってあり、硬貨投入口らしき孔に恐る恐るお金を入れてボタンを押すと、商品がクッション敷きの底面に落ちてきた。ジュークボックスは制作途中で試せなかったが、仕組みとしては、観客が楽器などを用いて演奏したり歌ったりしたものを録音、番号をつけてジュークボックスに蓄積し、次に訪れた人が番号を押せば、それが聞けるというものらしい。
作者の米子匡司は1980年生まれ、トロンボーンやピアノ、コンピュータなどを用いた音楽活動とともに電話機や電光掲示板を用いた参加型アートを精力的に展開している。米子氏の話は聞けなかったが、このオルタナティヴ・スペース「梅香堂」を主宰する後々田氏によれば、作者は自販機やジュークボックスといった街の道具でありながら、その仕組みが秘匿的なもの、いわばブラックボックス的なものを解明し、将来的にはそれらを誰もが作り出せることを意図しているという。
自販機やジュークボックスはフェティシズム論的には、人間の本能的欲求とは無関係な、根拠を欠いた「過剰」な欲望の実体化と見なされうるだろうか。とはいえ、日本中にはびこる自販機は、われわれにとってはもはや「過剰」の象徴どころか、「自然」と化したものに違いない。それは景観においても「自然」と化したものだが、自販機で物が買えたり、音楽を吹き込んでそれを聴く行為自体、現代人にとっては疑似本能的、自然な行為だ。その「自然」のブラックボックスを解明し、それを誰もがつくれるようにするという米子氏のコンセプトは、それをわれわれにとっての完全な「自然」──たとえば、身体のように扱えるもの──にしてしまいたいという欲望の顕れなのだろうか。あるいは別の見方をすれば、コンビニやiPodなど、自販機やジュークボックスの代替物はいくらでもあるが、疑似本能的な欲求とわれわれとの関係性を実体化するという目的においては、自販機やジュークボックスというモニュメンタルなモノこそ相応しいということなのか。前者の解釈はアートの側からの、後者のそれはデザインの側からのとらえ方といえる。これ以外にこのふたつの作品については、記号論やノスタルジー論の立場から解釈しても面白いだろう。いずれにせよ、今回の彼の試みが、フェティッシュな文化に対するわれわれの意識のあり様を重層的かつ複雑に提示したものであることは間違いない。 [橋本啓子]

2011/04/16(土)(SYNK)

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