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明治の視覚革命!──工部美術学校と学習院

2011年05月01日号

会期:2011/04/08~2011/06/11

学習院大学史料館[東京都]

2000年に学習院大学史料館に寄託された松室重剛関係史料により、工部美術学校と学習院との関わりを中心に明治期における図画教育の一端を紹介する展覧会である。松室重剛(まつむろ・しげただ、1851-1929)は、明治22年から大正10年までの33年間にわたり学習院中等科の西洋画教師を務めた人物。その図画教育には当時まだ珍しかった石膏像が用いられ、また彼は学習院独自の図画教科書編纂も行なっている。
その松室が美術を学んだのが、工部美術学校であった。工部美術学校は、明治9年に設立されたわが国初の官営美術学校で、明治4年に設立された工学寮(後の工部大学校)の一機関であった。工部美術学校での図画教育はモノの形を立体的にとらえ、陰影や明暗、遠近を正確に描く技法が基本で、日本の伝統的な図画技法との相異は「視覚革命」とも言えるほどのものであったという。工部美術学校は開設からわずか6年で閉鎖されたが、近代日本美術の基盤を形成した人物を輩出したばかりではなく、図画教科書の編纂を通じて日本中にこの視覚革命を広めていった。学習院で図画教育に携わった松室もそのひとりなのだ。
学習院自体も工部美術学校と浅からぬ縁があるそうだ。工部美術学校の母体である工部大学校の初代校長・大鳥圭介(1833-1911)は、その後学習院の第3代院長を務めている。また明治19年に校舎を火事で焼失した学習院は、明治23年に四谷に移転するまで工部大学校の旧校舎を使用していた。展示会に先立つ調査によれば、松室が授業で使用していた多数の石膏像は、このような関係により工部大学校から学習院に持ち込まれたのではないかと推論されている。
展示のなかでもとくに興味深かったのは「用器画」に関する史料である。用器画とは、定規やコンパスを用いて幾何学的な図形を描くことで、正確な遠近法を用いるために必要な技法であり、工部美術学校における教育でも徹底されていたという。それが中等教育において実践された背景には、学習院の生徒の多くが陸軍士官学校あるいは海軍兵学校に進学していたことが挙げられている。当時の陸軍において、地形の見取り図や地図を作成する能力は重要であった。松室が編纂した教科書に陸軍兵士に関する題材が多く用いられていることも、同様の背景によるものだとされる。松室が残した教え子の作品のなかには、服部時計店や東京国立博物館本館を設計した建築家・渡辺仁の素描もある。このような人材の輩出に、学習院における図画教育の方法は大きく関わっていたであろう。明治期に進行した「視覚革命」が、教育の場でどのように実践されていたのか、後の世代にどのように影響を与えたのかを貴重な史料でたどる好企画である。[新川徳彦]

2011/04/16(土)(SYNK)

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