artscapeレビュー

2012年06月01日号のレビュー/プレビュー

立野陽子 展─明るさについての記憶

会期:2012/05/01~2012/05/12

ギャラリー16[京都府]

比較的短いタッチの三角形や四角形などが連続する抽象絵画を発表。彼女の作品はこれまでも一定の形態の反復に特徴があったが、ここまでペインタリーな作品はなかったのではないか。灰色がかった青や緑、茶色などで記号的表現が積層しているのだが、その色彩ゆえか、作品を見続けるうちにどことなく風景画に見えるのが不思議だった。また、画面の層構造が窺えるので、画家が作品とどのような対話を繰り返しているのか類推できる点も興味深かった。

2012/05/01(火)(小吹隆文)

佐藤卓「光で歩く人」

会期:2012/04/23~2012/05/05

巷房[東京都]

「光で歩く人」とは、ソーラーパネルから得られるわずかなエネルギーで歩き続ける小さなロボット。デザイナー・佐藤卓がタカラトミーの依頼で試作したが、諸事情でお蔵入りになってしまっていたものを、震災後に完成させた作品だという。ロボットたちは、古代の埋もれ木や石でできた台の上に立ち、歩き続ける。3階ギャラリーでは窓から入る自然の光で、地階では人工的な光のエネルギーを得て、歩き続ける。私が訪れた日は生憎の天気で空は暗く、3階のロボットたちは脚を休めていたが、それでも地階のロボットたちはガラスのドームや金属のカゴの中で、電灯に照らされながら歩いていた。自然のリズムとは関わりなく歩き続けるためには、人工的なエネルギーを絶えることなく供給し続けなければならなない。ふたつのフロアのロボットには、私たちの文明の過去と現在が重ねられていると同時に、未来への選択肢が示されているのではないだろうか。[新川徳彦]

2012/05/03(木)(SYNK)

木下晋─祈りの心─

会期:2012/04/21~2012/06/10

平塚市美術館[神奈川県]

鉛筆によるモノクロームの絵画を描いている木下晋の個展。最後の瞽女と言われた小林ハルや、元ハンセン病患者の詩人桜井哲夫など、これまでの代表作に加えて、東日本大震災を受けて制作された「合唱図」のシリーズなど、あわせて50点あまりが展示された。
クローズアップでとらえられた両手は、一つひとつの皺まで克明に描き出されているが、当人の顔がフレームから外れているにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、次第に手そのものが人の顔に見えてくる。皺が顔のそれを連想させたからなのか、あるいは手と手が必ずしも対称的ではなく、むしろ非対称の関係に置かれていたところに、歪な人間らしさを感じたからなのか、正確なところはよくわからない。
ただ、あちらに描かれた両手が、すべてこちらを向いていたところに、その大きな要因があるのかもしれない。祈りの念が私たち鑑賞者に向けられていたからこそ、私たちはその手の向こうに、人の姿を見出してしまったのではないか。祈りという眼に見えない精神の働きが、見えるはずのない人間の存在を幻視させたと言ってもいい。
誰かの何かの「祈り」が受け渡されたかのように錯覚した私たちは、それを再び、どこかの誰かに手渡したくなる。「祈り」を描いた木下晋の鉛筆画は、もしかしたら神への一方的な伝達だった「祈り」を、双方的ないしは重層的なそれへと変換させる、きわめてアクチュアルな絵画作品なのかもしれない。それは神なき時代の宗教画なのだ。

2012/05/04(金)(福住廉)

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テッセンドリコ presents “Future Music”

会期:2012/05/05

東高円寺二万電圧[東京都]

「日本の近代は『幽玄』『花』『わび』『さび』のような、時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかった」。三島由紀夫が「文化防衛論」のなかで書き残したこの言葉は、「近代」の価値観やシステムがもはや隠しようがないほど破綻をきたしている現在、鮮やかに甦っている。いま、もっとも必要とされているのは、「近代」という呪縛から抜け出し、この時代を表象する美的原理に向かう衝動である。
全国の原子力発電所がすべて運転を停止したこの夜、切腹ピストルズのライヴは、ひとつの名状し難い美的原理に到達していた。それは、「東京を江戸に戻せ!」という彼らのメッセージからすると、前近代への回帰主義として理解できるが、だからといって必ずしも「幽玄」「わび」「さび」といった旧来の美的原理に回収されるわけではない。なぜなら、野良衣をまとった切腹たちが打ち出す太鼓、三味線、鉦の音、そして声は、私たちの心底に力強く響き、そのような静的な言葉で到底とらえられないほど、私たちの全身を打ち振るわせるからだ。平たく言えば、いてもたってもいられなくなるのである。
とはいえ、その衝動的な美は、三島が戦略的に帰着した「武士道」や「天皇」とも異なっているように思う。三島のヒロイズムが彼自身の足をすくってしまったとすれば、切腹の「江戸」はそのような逆説に陥ることがないほど、地に足をしっかりとつけているからだ。その重心があってこそ、借り物の「パンク」から出発しながらも、音楽性や楽器を徐々に変容させながら、身の丈に応じた「音」を生み出すことができているのだろう。21世紀の平民の、いやむしろ土民の思想は、ここで育まれるにちがいない。それをどのような言葉で語るべきか、いまはまだわからない。
ただし、切腹ピストルズがこの時代の最先端を切り開いていることはまちがいない。現代アートが「モダモダ」(今泉篤男「近代絵画の批評」『美術批評』1952年8月号)しているあいだに、彼らは颯爽と、美しく、そして強く、泥の中から来るべき時代を明るく照らし出しているのである。

2012/05/05(土)(福住廉)

高岡美岐 展

会期:2012/05/07~2012/05/12

O Gallery eyes[大阪府]

高岡美岐の絵画は、エモーショナルな筆致で絵具をどっぷりとキャンバスに塗りつけるのが特徴だ。以前の個展では、携帯電話で撮影した風景をもとに幾つもの水彩画を描き、そこからさらに選んだ構図を油彩画に仕上げると言っていた。その過程で風景は抽象化され、記憶や感情が画面に入り混じる。結果、彼女にしか表現しえない絵画世界が立ち現われるのだ。本展の作品は10年以上前に出かけた海水浴がテーマだが、前回の作品ほど抽象的ではない。どこか牧歌的な風情もあり、彼女の新たな世界を垣間見た思いだ。それでもぬめりのある分厚い絵具の質感や、ビュっと走る筆跡は健在。今時、こういう極太な存在感を持つ絵は貴重なので、このまま自分の世界を突き詰めてほしい。

2012/05/07(月)(小吹隆文)

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