artscapeレビュー
2012年06月01日号のレビュー/プレビュー
柴田精一 展─ねじれた世界をねじあける
会期:2012/05/07~2012/05/26
ギャラリーほそかわ[大阪府]
柴田といえば、着色した紙を切り重ねて複雑な模様をつくり出す《紋切重》のシリーズで知られているが、板に風景や人物などを彫ったレリーフ作品も少数ながら展示していた。本展ではそのレリーフ作品ばかりが出品された。作品は実在の風景や人物、動物をモチーフにしているが、彼によると「現実の向こう側にあるもう一つの世界」がテーマになっている。また、作品の多くは表面が屈折している。そこに紙作品との関連性を見い出そうと思ったのだが、作者にあっさり否定されてしまった。本作についてはまだ自分の中で消化できていないが、彼の新たな側面として今後も注視したい。
2012/05/07(月)(小吹隆文)
武蔵篤彦 展
会期:2012/05/03~2012/05/26
MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/w[京都府]
本展のメインというべきは、3点の平面の大作と台形立方体が連続する柱状の作品1点だ。それらは不定形のパターンが連続する抽象画をデータ化してインクジェットプリントで出力し、その上から絵の具やメディウムを塗り重ねたものである。ジャンルの特定は難しいが、武蔵のこれまでの仕事から判断すればモノタイプ版画になるだろう。ほかには、ラムダプリントと絵画を組みあわせた2000年制作の作品なども発表されているが、それらは新作と対比するために出品されたと思われる。写真ではすでにインクジェットが普及しているが、版画でもこれだけの表現ができるとは知らなかった。美術史上、技術的発展が表現を一変させた例は幾つもある。今後、デジタル技術の発達は美術にどのような影響を与えるのだろう。そんな夢想へと誘われる機会だった。
2012/05/08(火)(小吹隆文)
谷内薫 展
会期:2012/05/08~2012/05/13
ギャラリー恵風[京都府]
粘土板にスタンプをしたり、切れ込みを入れてから折り曲げて立体化し、素焼きの後、薄く釉薬をスプレーするなどして焼き上げた陶立体。壁掛け型の作品と貝殻のような小品があり、オブジェでありながら使い方次第では器としても成立する。作風はいままでの延長線上で変化はないが、作品から受ける印象はここ1年でずいぶん変化した。すなわち、良い意味で角が取れたのだ。元々の尖鋭さを保ったまま間口が広がったのだから、これは強い。彼女の作品は、より幅広い層に受け入れられる新たな段階に入ったのかもしれない。
2012/05/08(火)(小吹隆文)
モバイルハウスのつくりかた
会期:2012/06/30~2012/07/27
ユーロスペースほか[東京都]
本田孝義監督が、坂口恭平の「モバイルハウス」の制作過程を丹念に記録したドキュメンタリー映画。ホームセンターで買い集めた材料で組み立てた極小の住宅と言えば、幕末の探検家、松浦武四郎の「一畳敷」が連想されるが、坂口のモバイルハウスには車輪がついており、駐車場に設置できるという点に大きな特徴がある。法的には「住宅」というより「車両」として取り扱われるため、駐車場代さえ払えば、高い家賃を支払うという呪縛から解放されるというわけだ。人が生きていくうえで必要最低限の空間を自分でつくる楽しさにあふれた映画である。ただ、映画を見通して心に残るのは、坂口の類い稀なカリスマ性というより、むしろ坂口にモバイルハウスのつくりかたを教授する「多摩川のロビンソンクルーソー」の偉大さである。確かな技術と柔軟な発想、そしてはるかに年下の生意気な青年を懇切に指導する忍耐力。このような人物こそ、ほんとうのアーティストと言うべきである。
2012/05/09(水)(福住廉)
勝正光が作品を携えて、別府から神戸に船でやって来た。──神戸での制作と展示とまち歩き
会期:2012/05/10~2012/05/15
GALLERY 301[兵庫県]
鉛筆によるドローイングを手がける勝正光の個展。1981年生まれの勝は大学卒業後、東京で活動していたが、2009年に別府で開催された「わくわく混浴アパートメント」への参加を機に同地に移り住んだ。今回の神戸での個展は、別府で勝に出会った神戸大学大学院国際文化学研究科の学生が企画したもの。出品作からはアートで結ばれた心と心の交流が伝わってきた。
それをもっとも象徴するのは、天井から無造作につり下げられた単語帳だろう。めくってみるとカードの一枚一枚に街角のスケッチ。さらには、側の机の上にも多数の単語帳──これは、展覧会に先立って行なわれた神戸の「まち歩き」の成果だ。勝と参加者たちは、2日間にわたり単語帳と6Bの鉛筆を手に長田や元町の路地を歩いてスケッチした。ぶら下がっているのは勝の単語帳、机の上にあるのは参加者たちの単語帳だ。描きなれない絵を描くことに最初は躊躇した参加者も、まち歩きが進むにつれ、スケッチに熱中し始めたという。勝は自らの制作スタイルを「自分の体を通して向き合えた姿勢そのものを鉛筆と紙で落とし込む」と述べるが、机の上の単語帳はまさに、言語ではなく黒鉛の線で街のイメージを表わす行為が、戸惑いから喜びへと変わる瞬間をとらえている。
実際、鉛筆と紙は、勝の身体そのものというべきかもしれない。本展には旧作も展示されたが、四角い紙の表面を筆触の跡形もなく鉛筆で丹念に塗りつぶした初期の作品は、紙という支持体によって、やっとのこと黒鉛がその薄氷のような身体を持ちこたえるかのようだ。鈍色の平面はやがて、スカーフの柄の輪郭線などを内部に刻み込むことになるが、これもまた、黒鉛でできたレースを想わせる。
対照的なのは、写真をもとに人物を描いた近作であるが、これは、別府で出会った人々に思い出の写真を見せられたことがきっかけで始められたという。「写真を描くことでその人の思いに寄り添えることに気づいた」と勝は語る。ここでも、写真のイメージをかたどる鉛筆の線は、たんなる輪郭線ではなく、黒鉛という彼の身体の断片であるかにみえる。おそらくは、黒鉛が織りなす物質性こそが、彼の感情そのものなのだ。この特質は、やはり既存のイメージを描いたドローイングではあるが、実物を見ずに、勝が幼い頃、神戸を訪れた記憶を頼りに描かれた甲子園球場などの新作ドローイングに一層あらわである。それゆえ、「尖った鉛筆を紙に押し当てること」に向き合う勝の姿勢には、人間が絵を描くことの根源的な意味をみる思いがする。[橋本啓子]
2012/05/10(木)(SYNK)