artscapeレビュー

2012年09月01日号のレビュー/プレビュー

鈴木ユキオ『崩れる頭』

会期:2012/08/09

日暮里d-倉庫[東京都]

50分ほどのソロ作品。冒頭から、鈴木ユキオはひたすら踊りまくる。しかし、この踊りは「踊り」と言うにはぎこちなく、いや、そうとはいえ、ぎこちなさは不思議となめらかに進んでゆく。手業は巧みだが身体に障がいがあるゆえに人形の動きに独特の規則性が示される、喩えるならそんな人形使いに操られているような動きなのだ。謎は謎のまま、しかし、必然性を感じる魅惑的な動きが続いた後、不意にプロジェクターが光を放つと、舞台奥に鈴木の背中と思しき皮膚が大写しにされた。皮膚の上には、筋肉かさもなければ漫画の効果線のような線が描かれている。その線は、実際の筋肉のあり方を示唆するというより、未知の身体性を暗示するかのように無邪気に乱舞している。しかし、一層興味深かったのはこの後。鈴木がバケツとコップをもって現われると、コップから水をこぼし、濡れた床を拭く、そんな最中「信じるな」との声が「天の声」のごとく不意に舞台に鳴った。それと柔らかくつながるように、鈴木がバケツをくるりと回すと、水かと思いきや、カラフルな紙吹雪が床に散らばった。「信じるな」とは、目の前の出来事が生じた因果性を常識に委ねるなとの一言だろう、常識的にとらえるなら。とはいえ、そんな常識的な理解も「信じるな」の言葉に一蹴されそうで、そう勘ぐれば勘ぐるほど思考がぐらぐらする。いずれにしても、言葉がこう置かれることで、本公演は「論」の体裁を帯びてくる(今年2月の公演タイトルが『揮発性身体論』だったこととも相まって、そうした読みが誘発される)。そうではあるのだが、しかし「論」というメタレヴェルはダンス公演のなかに混ざり込んでいるわけで、説明の対象と説明の内容とが混交するさまが不思議だった。この不思議な感触が鈴木の新しい一歩を予感させた。


鈴木ユキオ・ソロ公演「崩れる頭」(2012.8.9)Trailer

2012/08/09(木)(木村覚)

森村誠 Daily Hope

会期:2012/07/13~2012/08/12

Gallery OUT of PLACE[奈良県]

英字新聞の紙面から、H、O、P、E以外の文字を修正液で塗りつぶした平面作品を、画廊の壁面を埋め尽くすように展示。別室では、同じく英字新聞の紙面をスキャンした画像を高速のスライドショーで上映し、「HOPE」の単語だけが一カ所に留まり続ける映像作品を出品した。点在する無機質な活字が示すかすかなHOPE=希望。そこには、どのような形であれ希望を求めずにはいられない人間の本性が表現されている。同時に、作品から滲み出る膨大な時間と作業から「徒労」の二文字を連想した。

2012/08/09(木)(小吹隆文)

山中俊治『カーボン・アスリート──美しい義足に描く夢』

発行日:2012年7月21日
発行:白水社
価格:1,680円(税込)
サイズ:四六判、243頁

本書はプロダクト・デザイナーで慶應義塾大学教授の山中俊治氏が、競技用義足のデザイン開発プロジェクトに臨んだ3年間の記録である。ロンドン・オリンピックでの活躍で話題を呼んだオスカー・ピストリウスの義足のように、カーボンファイバーの板バネを使用したスポーツ用義足は機能的にすでに高い水準が達成されている。日本でも同様の義足を使用するアスリートたちがいる。しかし、それらの義足の多くはデザインが不在であったと山中氏はいう。では、そこにデザインを持ち込むことの意義はなんだろうか。なぜ一般用の義足ではなく、スポーツ用義足なのだろうか。
 戦争、事故、病気、先天性……なんらかの理由で身体の一部が失われてしまった人々を補助する道具のひとつとして、義手や義足には欠損した部位がはたしていた機能の代替が求められると同時に、動きや見た目などの外観的な要素を補うことも求められる。なかでも見かけの再現を主眼にした義手・義足を装飾用(コスメチック)義肢と呼ぶという。残念なことに現在の技術では使用者が求める機能と外観とは十分に両立できない。機能に不自由があったとしても「健常者」のような見た目を求めるか、それとも見た目に「違和感」があったとしてもより機能的な補助具を求めるかという選択が必要になる。その点、スポーツ用義足に第一に求められるのは、速く走るための機能である。カーボンファイバーでつくられた義足の形状は人の足とはまったく異なる。使用者もそれを当然のこととして受けとめている。それゆえデザインに求められる課題は装飾用義肢とは異なる。「すぐれたデザインは、どんな場面でも、人の気持ちを少し明るくするものだ」と山中氏はデザインの意義を述べる。「素敵なデザインの義足は、きっと切断者たちを少し前向きにすることができる」(45頁)。
 デザインすることの意義はそればかりではない。アスリートたちの多くが日常用の義足とスポーツ用義足を履き分けているが、義足アスリートたちは日常的にも義足であることを隠さなくなる傾向にあるという(34頁)。機能的にも視覚的にも優れたデザインの義足を身につけたアスリートたちが、その実績によって自信を持ち、人々の好奇の目を気にしないで生活できるようになれば、義足であることを隠さずに済むばかりか、履き分ける必要がなくなるかもしれない。そのことは使用者の精神的ストレスや、もうひとつの義足を持つための費用負担をも軽減する可能性がある。さらに、アスリートたちの活躍がテレビや新聞でニュースが取り上げられることは製品にとっても、その使用者にとっても計り知れない効果を持つ。スポーツ用品メーカーがこぞって第一級の選手たちのためにコストを度外視し、逆にスポンサー料を払ってでも製品を開発するのは、莫大な宣伝効果が期待できるからである。一流選手が手にすることで、そのスポーツと関わりのない者までもが、必要もないのにバスケットシューズやランニングシューズを履くことになる。同様に、優れたデザインの義足を履いたアスリートたちが話題になり、その姿を目にする機会が増えれば、障碍やその補助具に対する人々の意識が変わる可能性がある。そしてその効果は選手にとどまらない。これこそが、なぜスポーツ用義足のデザインなのか、という疑問に対する答えであろう。このプロジェクトの最初の段階で、山中氏はすでにこのような価値観の変化の可能性と新しいノーマライゼーションの萌芽について記している(104頁)。山中氏が基本デザインを手がけたICカード改札機は、それまではなじみの薄かった非接触型ICカードという技術を人々の生活にとってあたりまえの存在に変えた。スポーツ用義足のデザインもきっと次の「あたりまえ」を生み出すに違いない。
 これから始まるパラリンピックとともに、本書はさらに話題となるだろう。しかし本書の主題は障碍とスポーツとデザインとの関わりににとどまらない。3年間余という長期にわたって技術者と使用者とデザイナーの協業によって展開され、いまだ発展の途上にあるプロジェクトを記録しているという点で本書は類を見ない。さらに本書はデザインの新たなフィールドが生まれる瞬間を目撃するドキュメンタリーであり、学生がデザインを学び巣立つまでの物語であり、ひとりの優れたデザイナーが優れた指導者になるまでを描いた自伝でもあるのだ。[新川徳彦]

2012/08/10(金)(SYNK)

井上廣子 展〈Mori:森〉

会期:2012/08/07~2012/08/19

ギャラリーヒルゲート[京都府]

社会性の強いテーマや人間存在の本質を問うような作品を、写真やインスタレーションなどで表現してきた井上廣子。彼女が新作のモチーフに選んだのは、日本の東北とドイツの森だった。これらの場所は、いずれも天災や戦争にまつわるエピソードを持っているが、作品にそれを直接匂わせるような手掛かりは仕込まれていない。井上は昨年、東日本大震災のニュースに接した際、これまで自分は自然をテーマにしたことがなかったと気付き、本作の構想に入ったそうだ。その意味で、今回の作品は一種のエスキースと見なすこともできる。今後コンセプトや技法などが煮詰められ、数年後にはかっちりまとまったシリーズ作品が生み出されるのではなかろうか。その端緒を見られたという意味で、本展は貴重な機会だった。

2012/08/12(日)(小吹隆文)

新宮さやか展

会期:2012/08/11~2012/08/26

ギャラリー器館[京都府]

繊細きわまりない造作と、それらの驚くべき密集性、そして植物を思わせる有機的形態で知られる新宮さやかの陶オブジェ。本展でもその方向性に変化はなかったが、とても興味深かったのは彼女が器をつくったことだ。きっかけは画廊主からのリクエストだったが、オブジェとの関係性をどう扱うかは悩ましい課題だったに違いない。しかし、新宮はその壁を見事に乗り越えた。オブジェの特質を生かしながらも器として成立する、ユニークな形態・形式の創造に成功したのだから。器という新たな武器を手にしたことで、彼女の活動領域は今後大きく広がるだろう。

2012/08/12(日)(小吹隆文)

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