artscapeレビュー

2016年08月15日号のレビュー/プレビュー

宇宙と芸術展

会期:2016/07/30~2017/01/09

森美術館[東京都]

タイミングがあったので、「宇宙と芸術展」@森美術館の内覧会へ。おそろしく混んでおり、とても鑑賞できる状態でない。これならば、普通の日に行けばよかった。現代美術はもちろんあるのだが、むしろ過去の宇宙観を示す絵や観測機器など、歴史の重みをもつ博物館的なコンテンツが結構多く、思っていたよりも面白い。グラッソやティルマンスは最近日本で紹介されたのと同じ作品だった。

2016/07/29(金)(五十嵐太郎)

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アートアワードトーキョー丸の内2016

会期:2016/07/25~2016/08/03

丸ビル1階マルキューブ+3階回廊[東京都]

昨年度の美大の卒業・修了制作展から選抜した20作品を展示。吉田桃子は木枠に張らないキャンバス作品2点の出品。どちらも映像の一部を拡大して描いたものらしいが、画像がキャンバスのやや上に寄り、下部に余白を残しているため、絵具の滴りが何十本もの線条として流れている。水谷昌人は小さなキャンバス作品3点。キャンバスの上に絵具を何層にも塗り重ねて表面を平らにし、中央に縦長の穴を掘って赤系の絵具をチューブから絞り出してるため、まるで内臓がはみ出してるように見える。どちらも描かれた画像より、媒体・形式に目を向けている点で異彩を放つ。ふたりとも京都市立芸大大学院というから、この傾向は偶然ではないだろう。まったく違うが、渡邊拓也はカナヅチ、ペンチ、ハサミ、懐中電灯、ハンガーなど思いつく限りの道具をテラコッタでつくって並べている。すべて茶褐色でフリーハンドの造形のため、道具の機能性より形態の多様性に目が向く。

2016/07/30(土)(村田真)

第32回東川町国際写真フェスティバル2016

会期:2016/07/26~2016/08/31

東川町文化ギャラリーほか[北海道]

今年も北海道東川町で「東川町国際写真フェスティバル」(通称、東川町フォトフェスタ)が開催された。もう32回目ということで、長年にわたって企画を継続してきた行政や町の方々の地道な努力に敬意を表したい。このところの充実した展示を見ると、その成果は着実に実を結びつつあるのではないかと思う。
東川町文化ギャラリーで作品展(7月30日~8月31日)が開催された第32回東川賞の受賞者たちの顔ぶれは以下の通りである。海外作家賞:オスカー・ムニョス(コロンビア)、国内作家賞:広川泰士、新人作家賞:池田葉子、特別作家賞:マイケル・ケンナ(イギリス→アメリカ)、飛騨野数右衛門賞:池本喜巳。毎回、東川賞のラインナップを見ていて思うのは、審査員(浅葉克己、上野修、笠原美智子、楠本亜紀、野町和嘉、平野啓一郎、光田由里、山崎博)が、広く目配りをしつつ、新たな角度から写真の世界を見直していこうとする人選をしていることだ。今回の受賞者でいえば、オスカー・ムニョスや池田葉子がそれにあたる。写真以外にも版画、ドローイング、映像作品、彫刻など多様な媒体で仕事をするアーティストであるムニョスの、画像や文字が水に溶け出したり、手のひらに溜まった水に自分の顔が映り込んだりする作品は、ある意味、東洋的な無常観を表現しているようでもある。池田葉子の三次元空間を、ボケや光の滲みのような写真的なフィルターを介して二次元平面に置き換えていく、多彩で軽やかな手つきもとても印象的だった。彼らのような、あまり日本では評価されてこなかった写真作家にスポットを当てていくことに、東川賞の大きな意義があると思う。
受賞作家作品展以外にも、さまざまな催しが行なわれた。そのなかでは、昨年に続いて廃屋になった商店の建物で開催された「フォトふれNEXT PROJECT」展(南町一丁目ギャラリー)が面白かった。「フォトふれ」(フォトフェスタふれんず)というのは、過去のフォトフェスタにボランティアとして参加したメンバーたちのことで、今年の展示にはフジモリメグミ、伯耆田卓助、堀井ヒロツグ、正岡絵里子が参加している。このうち正岡絵里子は、やはり今年のフォトフェスタの企画である「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」にも参加し、グランプリを受賞した。10年間かけて、生と死のイメージを共存させた厚みのある作品世界を作り上げた正岡をはじめとして、それぞれ「NEXT」が大いに期待できそうだ。同会場では、やはり「フォトふれ」の一人で、東川町にアーティスト・イン・レジデンスで参加した石川竜一(2015年に第40回木村伊兵衛写真賞を受賞)も作品を出品していて、クオリティの高い展示空間になっていた。

2016/07/30(土)(飯沢耕太郎)

建築学生ワークショップ明日香村2016 提案作品講評会

会期:2016/07/30~2016/07/31

明日香村国営飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺[奈良県]

建築学生ワークショップ明日香村の中間講評会@四神の館へ。飛鳥を訪れるのは、修学旅行以来かもしれない。キトラ古墳正面を敷地とするプログラムで、構造デザインや施工を助けるサポート体制など、よく練られている。が、8組の案はどれもキトラとの対峙を避け、サイトスペシフィックでない野外彫刻風が多く、せっかくの場所なのにもったいない。古墳の初期は巨大で外からの見えを重視したが、末期は小型化し、内部に意識が向かい、キトラも実物は拍子抜けするほど小さい。が、四神や天文の壁画で知られるように、これはいわば洗練されたインテリア・デザインの登場である。そういう空間史的な意味も、ほとんど学生の案に影響していなかったのは残念だった。

写真:左=上から、《四神の館》、ワークショップ敷地、《キトラ古墳》 右=上から、《キトラ古墳》模型、ワークショップ模型

2016/07/30(土)(五十嵐太郎)

渡邉尚×Juggling Unit ピントクル『持ち手』

会期:2016/07/29~2016/07/31

アトリエ劇研[京都府]

ジャグリングとダンスという異ジャンルを接触させることで、「身体と物との関係を再度問い直す」企画。2組のジャグラー+ダンサーによる、男女デュオ作品の2本立て公演が行なわれた。創作条件は、ジャグリング用の道具を使うことのみ。好対照な2作品が上演された。
ジャグラー・山下耕平とダンサー・川瀬亜衣による『ながい腕』は、「クラブ」と呼ばれるジャグリング用の道具(ボウリングのピンを細長くしたような形状)を用いて、ジャグラー/ダンサーそれぞれの動きをシンプルに対比的に見せていた。冒頭、慣れた手つきで、3本のクラブを次々と空中に投げ、キャッチを繰り返す山下。握ったクラブの感触を確かめ、ゆっくりと身体になじませるように動かす川瀬。特に、クラブを起点に身体を動かしながら、左右の手に持ち変えたり回転させるユニゾンのシーンでは、ダンス的な運動の中に両者の対比が際立つ。次の動きへの流れに無駄がなく、身体の動きのラインがクリアに見える川瀬に対して、山下の場合、クルクルと小気味よく回転するクラブの動きが前景化する。どちらも身体を使うが、身体の動きを見せる/モノを動かす(モノの動きを見せる)という、微妙な意識のズレが浮上する。
同じ道具を使いつつも平行線を見せるダンスとジャグリングだが、ふっと両者が接近する瞬間がある。ユニゾンによって運動の熱が伝播するかのように、山下がクラブを扱う手さばきをどんどん高速化させることで、前後左右に激しくドライブする身体が、モノの制御から半自律化した「ダンス的な動き」を描き始めるのだ。だが、ダンスへの接近は、制御可能な速度を超えた動きについていけず、「クラブを手から落とす」というアクシデントによって、何度も中断させられてしまう。
ダンスとジャグリングの関係を、平行線/接近と度重なる中断として見せていた本作には、やや物足りなさを感じた反面、より掘り下げればもっと面白くなる可能性を感じた。具体的なレベルでは、例えば、両手をクロスさせてクラブをキャッチするなど「左右の軸の交差」、放り投げたクラブを一回転してキャッチする際の「身体の回転軸」といった身体感覚はどう意識されているのか。ダンサーの意識との相違点はあるのか。抽象的なレベルでは、「身体のコントロール、訓練を通して規律化された動き、身体の矯正」といった観点から考えることが可能だろう。それは、「ダンス」へのさまざまな問いを誘発するに違いない。ダンサーは、身体のコントロールに向かうのか、制御を逃れたところに運動の自由さを見出そうとするのか。制御やコントロールを外れた動きは「ダンス」と言えるのか。モノ(もしくは他者)は、動きを誘発するのか抑制するのか。ある動きを「ダンス」と規定する文脈はどこにあるのか。ダンスが身体の訓練・矯正としての側面を持つならば、ダンスの内部からの自律的な要請(「振付」と呼称される)/外部から規定される振る舞い(法令や規則など明文化されたルール、ジェンダーや文化的慣習など社会的に形成された観念、スポーツの応援や軍事パレードなどにおける身体的同調性)とはどう異なるのか。そうしたさまざまな問いを喚起することで新たな対話が始まれば、ダンス/ジャグリングにとって刺激的な試みになるに違いない。

一方、渡邉尚と倉田翠の『ソラリス』では、ダンス/ジャグリングという区別はいったん括弧に入れられ、ジャグリング用の白いボールは道具としての役割から解放され、シーンによって様々な見え方や連想を誘っていた。四つん這いで動く2人は、ヒトから獣へと自在に変貌するが、4本の足は、大地を踏みしめるのではなく、床に転がった白いボールの上を飛び石のようにしか移動できない。それは、奇妙な野生の獣の習性を眺めているようだ。点々と転がる白いボールは、2匹の獣の足跡のようにも、口にくわえた獲物のようにも見える。そうした連想の自由さを支えるのが、2人の肉体の強靭さとしなやかさだ。とりわけ、ジャグリングとダンス、双方の経験を持つ渡邉の肉体は、驚異の柔軟性と軟体変化を見せる。
地を這う動物の水平的世界から、人間のもつ垂直的な構築性へ。動物への擬態によって表わされる攻撃性や防衛本能、縄張り意識から、共同作業へ。本作の流れはそう概観できるだろう。「持ち玉」として抱え込み、相手に投げつける白いボールは、領土の比喩であるとともに、相手を物理的に攻撃する弾丸となる。しかし相手を攻撃すればするほど、領土は縮小し、手持ちの物資は少なくなっていくという皮肉をはらむ。そうした対峙の関係は、終盤、2人が口と手を使ってボールを柱のように積み上げていくシーンにおいて、垂直的な祈りのような行為へと昇華されていた。

2016/07/31(日)(高嶋慈)

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