artscapeレビュー
2009年05月15日号のレビュー/プレビュー
陳宛伶「小宇宙」
会期:2009/04/12~2009/04/19
BankARTスタジオNYK[神奈川県]
台北市と横浜市とのアーティスト交流プログラムで滞在していた陳さんの成果発表。人々の歩いてる姿を小さく俯瞰でとらえたデジタルイメージなのだが、道路や横断歩道の白線が画面に水平になるよう処理してあるため、座標上に人間が配置されているような、あるいは五線譜上に置かれた音符のようなイメージだ。陳さんは「毎日車で通勤していた経験」から「時間の変化と空間の移動」について考えるようになり、こういう作品を始めたと述べている。
2009/04/14(火)(村田真)
「思い通りに消せない記憶」/「イン・マイ・マザーズ・フットステップス」*
会期:2009/04/11~2009/05/17
トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]
「遠くて身近な歴史──1968年そしてホロコースト」とサブタイトルがついた、東京でのアーティスト・イン・レジデンスの成果の発表展。アメリカのマッカラムとタリーは、「1968年」という特別な年にスポットを当てている。いうまでもなく、世界的に革命の気分が盛り上がり、スチューデント・パワーがピークに達した年であった。彼らが東京で制作した作品は、街頭デモや三億円事件などの報道写真を元にして絵を描き、その上にシルクスクリーンにプリントされた写真をややずらして重ねている。その「ズレ」がとても効果的で、3D画像のようにぼんやりと浮かび上がってくるイメージが、事件が記憶のなかで風化し、幻想と現実の間に宙吊りになった雰囲気を見事に表現していた。ほかにアメリカの黒人公民権運動をテーマに、趣味よくまとめた映像作品もあった。
イギリスとイスラエルの国籍を持ち、ドイツで活動するユダヤ人のガバルシュは、母親、サラの第二次世界大戦中の記憶を辿る写真作品を出品していた。ドイツ生まれのサラはオランダに逃れるが、特別警察に逮捕され、強制収容所に送られる。ガバルシュはその足跡を追って、ベルリン、オランダ、ポーランド、チェコを徒歩旅行し、そこで出会った風景をカメラにおさめた。それが今回出品された「イン・マイ・マザーズ・フットステップス」のシリーズである。
展示室は照明が落とされ、順番に1枚か2枚ずつ灯りがついて写真とテキストを照らし出すようになっている。その間隔がかなり長いので、全部の作品を見終えるには時間がかかる。せいぜい数10分なのだが、正直いらいらしてくる。つまり、母親が味わった否応なしの強制力の片鱗を、観客も味わうように仕掛けられているのだ。その意図はよく理解できるのだが、やはり後味が悪いことに変わりはない。ホロコーストのような重いテーマを扱うときに、このような「強制収容所」的な展示は諸刃の剣なのではないだろうか。「特別な体験なのだから、あなたも我慢しなさい」と言わんばかりの態度は傲慢としかいいようがない。押しつけではない「悲惨さ」の伝え方がありそうな気がする。
2009/04/15(水)(飯沢耕太郎)
頭山ゆう紀『さすらい』/『境界線13』
- さすらい
- 発行所:アートビートパブリッシャーズ
発行日:2008.11.13 - 境界線13
- 発行所:赤々舎
発行日:2008.11.13
ずいぶん前に買っておいた本だが、頭山ゆう紀の2冊の写真集をじっくり見直した。『さすらい』は「東京での出来事にうんざり」していた時、たまたま京都行きの話があり、そのまま過ごした時間、出会った人たちを撮影して封じ込めたもの。『境界線13』は「1人の女の子が、境界線は消えたと歌い、死んだ」という出来事を背骨に、身のまわりにカメラを向けた写真集。モノクローム、やや広角気味のレンズ、左右に少し傾きがちな画面など、基本的なスタイルが同じなので、別々に論じる意味はあまりなさそうだ。
こういう「生」に密着した私小説写真は特に珍しくもないし、これまでもうんざりするほど見てきた。にもかかわらず、頭山の写真が目と心にひっかかってくるのは、基本的に被写体を見つめる姿勢がよく、写真の骨格がしっかりしているからだろう。特に何かに押し潰されるように脱力して、横たわる姿勢をとる人物たちを撮影すると、彼らの存在そのものから滲み出る倦怠や疲れが、写真の中を緩やかに漂い、巡っていくようで「ほお」と声を挙げたくなる。
とはいえ、ここから先がむずかしいところで、「ここで過ごした時間は写真というカタチに濃縮され、これからもここに存在し続ける」(『さすらい』)とか「“時間”と“存在”は静かに闇となって光り続ける。そしてまた新たにここから始まるのだろう」(『境界線13』)といった、ありきたりの「感想」で留まっていると、先細りになるだけだろう。“時間”とか“存在”とかいった言葉が出てきたところで安心していないで、ではその“時間”は自分にとってどんな“時間”なのか、“存在”はどういうカタチをしているのか、しっかり確認しながら進んでいかないと、姿勢のよさだけでは次につながっていかない。両写真集に跋文を寄せている石内都のしつこさを見習うべきではないだろうか。
2009/04/16(木)(飯沢耕太郎)
浅田政志「浅田家 赤々・赤ちゃん」
会期:2009/04/16~2009/05/17
AKAAKA[東京都]
今年の木村伊兵衛写真賞を受賞したばかりの浅田政志の展覧会がいっせいに開催されている。本展のほかにもパルコギャラリー(4月3日~27日)とコニカミノルタプラザ(4月21日~30日)で「浅田家」展が開かれた。だがこれらの展示は受賞記念展の色合いが強く、作品も写真集『浅田家』(赤々舎、2008)に収録済みのものばかりである。唯一本展でのみ、彼の新作を見ることができた。
「浅田家」の面々が登場する撮り下ろし作品は、これまでのシリーズの延長上であまり新味はない。ただ会場に飾られていた父親が描いた絵、母親と兄嫁が作った造花やぬいぐるみは、味わい深くて実によかった。それよりも、数はまだ15点ほどだが、他の家族を撮影した「みんな家族」のシリーズは、次の展開が期待できるものだった。このシリーズも、コンセプトは「浅田家」と共通していて、家族があるシチュエーションの人物群像に成りきってコスチューム・プレイを演じている。東京都写真美術館で展示された、やなぎみわの「マイ・グランドマザーズ」と同じようなコンセプトだが、浅田の作品は開放感があって気持ちよく見ることができる。家族全員が楽団を演じたり、野球の試合をしたり、結婚式に参加したりという設定が、日常の延長で無理がなく、その作り込み方もかなり「ゆるい」からだろう。だがそれが逆に、今の日本の家族像をややシニカルな哀しみを込めて描き出しているようにも見える。
ところで、今回の浅田政志の木村伊兵衛写真賞の受賞については少し異論がある。浅田の作品がつまらないというのではなく、どうも「穴馬」的な受賞が続いているような気がするのだ。木村伊兵衛写真賞にしっかりとした権威があり、そこに風穴を開けるということなら浅田のようなトリッキーな作品でもいいが、もはやそんな正統性などはまったく感じられない。とすると、同じ赤々舎から写真集が出ている写真家でいえば津田直や黒田光一やERICのような、折り目正しい「正統派」を選んだ方がいいのではないだろうか。
2009/04/16(木)(飯沢耕太郎)
増山麗奈展「ネオ春画~イシュタル原理主義�・」
会期:2009/04/13~2009/04/25
ギャラリー銀座芸術研究所[東京都]
イシュタルは「性愛の神」「聖なる娼婦」とも呼ばれた古代バビロニアの女神だそうだ。そのイシュタルにみずからを重ね合わせた増山による手製の紙に描いた性の絵巻シリーズ。ハタから見るとデタラメやってるようでも、本人としてはちゃんと筋が通っているのだ。
2009/04/16(木)(村田真)