artscapeレビュー
2012年10月01日号のレビュー/プレビュー
南宇都宮石蔵秘宝祭
会期:2012/09/01~2012/09/16
悠日[栃木県]
今をときめく女性アーティストたちによる芸術祭。宇都宮市内の石蔵を改築した会場に、20人のアーティストが作品を展示した。いずれも、「女性性」から出発しながらも、その言葉の内側にとどまることなく、外側に突き抜けた作品ばかりで、非常に見応えがあった。
企画者でもある増田ぴろよは、回転ベッドのインスタレーションを発表したが、表面の布には男性器をモチーフにした図柄がプリントされていた。笠原美希の黒い人体像も上半身が男性器と化したメタモルフォーズだったが、両者の作品には(これまでの女性作家がたびたび表現してきた)男性器への無意識の恐怖というより、むしろそれにたいする造型的な好奇心が強く感じられた。事実、みずからの欲望を率直に開陳する傾向は、たとえば俳優の綾野剛への愛憎を綴った少年アヤや、テレビ番組を偏愛するがゆえに録画行為にひたすら没頭するフルカワノリコなど、この展覧会に参加した美術家たちに共通する大きな特徴と言えるだろう。
これを共通項としたうえで、さらにもう一歩踏み込んでいたのが、山田はるかと久恒亜由美。山田は「華妖.vijyu」という4人組のヴィジュアル系バンドが唄う《愛の水中歌》のプロモーションビデオを発表したが、映像のクオリティに加えて、4人のバンドメンバーにみずから扮するというアイデアと、それぞれ異なるキャラクターを演じ分けたパフォーマンスの技術がすばらしい(現在はYOUTUBEでも視聴可能)。久恒の作品は、会場である宇都宮市内の公衆トイレにあらかじめ携帯番号を書き込み、着信と会話の記録を会場内のトイレでリアルタイムに公表するという、ある種の観客参加型作品。みずからの女性性を戦術的な手段としながら未知なる観客を自分の作品に巻き込んでいく発想が抜群にすぐれていた。ネット時代の只中で、コミュニケーションの水準をあえて公衆トイレという「ハッテンバ」にシフトダウンさせる回帰傾向もおもしろい。
山田と久恒に通底しているのは、みずからの女性性を巧みに使いこなす高度な戦略性である。そのたくましい知性は、情動的な女性アーティストとコンセプチュアルな男性アーティストという陳腐な二項対立を置き去りにするほど、鋭い。両者の作品には、そのいずれもの特質も内蔵されているからだ。
2012/09/06(木)(福住廉)
紙とデジタルファブリケーション──手と工作機械の折り合い
会期:2012.08.15~2012.09.07
見本帖本店[東京都]
一般的に技術の進歩は私たちの手からものづくりの手段を取り上げ、私たちの大部分は規格化された量産品の消費者に過ぎない存在になっている。その過程においては私たちは価格低下という恩恵も受ける反面、自分の望むもの必要とするものが入手できるとは限らなくなった。量産を基本とした技術体系では、製品のパーソナライズには驚くような費用がかかり、事実上それを困難にしている。しかし近年、比較的廉価な3Dプリンターやカッティングマシンが登場し、個人的なものづくりに新たな可能性が出てきている。PCとプリンタによって、少部数の文書や写真の印刷が家庭で手軽にできるようになったように、工場や専門業者に頼らなくてもデジタルデータを実体に移し替えることができるようになってきたのである。こうした新しいものづくりのかたちを、デジタルファブリケーション、パーソナルファブリケーションと呼ぶのだそうだ。
この展覧会ではカッティングマシンと紙を素材として、ものと人、そして新しいものづくりの方法を見せる。慶應義塾大学田中浩也研究室の学生たちがここで提示しているのは「半プロダクト」。あらかじめ用意されたデータに基づき、カッティングマシンで紙をカットすると同時に折り目加工を施す。出力された状態ではただ一枚の紙片であるが、折り目に従って手で紙を曲げていくと、たとえば立体的で丈夫なコースターができあがる。会場では手作業による折りを体験することができたが、これがなかなか楽しい。本来人間にとってはものを消費することよりも、ものをつくることのほうがずっと多くの効用を与えてくれると思う。しかし、ゼロからのものづくりはハードルが高い。だからこその「半プロダクト」である。一手間を加えることで、それは自分のオリジナルになる。このプロセスは料理にも似ている。マーケットには「お肉と炒めるだけ」「卵を入れるだけ」といった「半プロダクト」が多く出回っている。創造性が入る余地は限定的であるが、出来合いの総菜を買ってくるのとは異なる満足が得られる。そして次の段階はレシピに基づいてすべての材料から買いそろえてつくること。さらにはレシピそのものを工夫することもできる。そうしたレシピは個人だけのものではない。クックパッドのようにネット上で共有され、他の人々からのフィードバックを受け、改良され、変化していく。デジタルファブリケーションでも同じことが起きている。今回の展覧会では出力された紙の折りのみを体験できたが、興味があれば自分でカッティングマシンを購入して好きな紙にいつでも同じデータを出力することができる 。そしてもっと興味があれば、データそのものを自分でつくることも可能だ。新たなデータはアップロードされ、他の人々と共有される。デジタルファブリケーションとは、たんに量産に対抗する新たなものづくりの方法というだけではなく、ものづくりの手段と喜びとを私たちの手に取り戻し、ものづくりを通じた新たなコミュニケーションを生み出す方法なのである。[新川徳彦]
2012/09/07(金)(SYNK)
築山有城 個展「シャイニング・ウィザード」
会期:2012/09/07~2012/10/06
TEZUKAYAMA GALLERY[大阪府]
ギャラリーに入ると、展示室の中央にでんと構える大木の切り株が待ち受けていた。しかし、作品の裏に回ると驚きが。実はこの作品は建築用の角材を円弧の形に繋ぎ合せたもので、表面を元の木そっくりに彫刻して大木らしく見せていたのである。ほかの作品も、人工漆が乾燥する際に収縮する性質を利用して複雑な模様を描き出すなど、素材の材質を生かしたものが多い。作家が脳裏に描いたイメージを具現化するのではなく、素材の性質を利用して造形をつくり出すのが、築山有城という作家の興味深い特質である。
2012/09/07(金)(小吹隆文)
田中真吾 繋ぎとめる/零れおちる
会期:2012/09/01~2012/09/30
eN arts[京都府]
炎を用い、その痕跡や焦げ跡を作品化する田中真吾。本展では展示室の壁面を覆う巨大な平面作品と、壁に紙をピン止めして燃やした痕跡を見せる作品、煤で描いたドローイングが出品された。会場を一見した人は、壁を焦がすことに同意したギャラリーの勇気に感心するだろう。しかし実際は、スタジオで画廊と同寸の壁面を構築し、制作後に解体して持ち込んだものである。壁画ばりの巨大な平面作品をよく見ると、画面のあちこちに胡粉の白い線が入っている。これはいままでの彼の作品にはなかった手法だ。胡粉の使用によりいままでより自由に造形が行なえるが、作品の純粋性は若干失われてしまったとも言える。新たな領域に踏み込んだ田中の、今後の展開が楽しみだ。
2012/09/08(土)(小吹隆文)
トラフのコローロ展
会期:2012.08.10~2012.09.09
CLASKA Gallery&Shop "DO" 本店[東京都]
鈴野浩一と禿真哉が主宰するトラフ建築設計事務所のプロダクトの個展。展覧会タイトルにある「コローロ」とは、エスペラント語で「色」を意味するそうだ。ホテルクラスカの2階のギャラリースペースとショップの2カ所で行なわれた展示では、細かな切り込みのあるカラフルな紙を広げると網状の器になる《空気の器》がそこかしこにふわっと浮かび、まるで空間そのものがほんのりと色づいたかのよう。ギャラリースペースではトラフの新旧のプロダクトが展示され、こちらもまた、「コローロ」に溢れている。積木のようなキッチンツールのセットや、カラフルな紙テープのようなフックなどを見ていると、ひょっとしたらその斬新な発想は、「積木」や「紙テープ」といった、ふだんわれわれが「色を最大限に活用したグッズ」として即座に思い浮かべるものから引き出されているのかもしれないと思った。
そして今回の個展のメイン作品としてショップに展示された《コロロデスク》。化粧板総合メーカー「伊千呂」との共同開発により6月に発表されたこのデスクは、木の脚のうえに黄色や水色、ピンクなどの化粧版でつくられた箱が置かれたシンプルなデザインである。一見、DIY風であるが、おそらくトラフの意図はそんなところにはないだろう。というのも、《コロロデスク》用の椅子としてデザインされた《コロロスツール》に座ってみるとじつに不思議な気分におそわれるからだ。まるで自分がガリバーのような巨人となって、ミニチュアの部屋を見渡しているような気になる。そうした気分は、箱の三面に設けられた四角い開口部が「ミニチュアの部屋の窓」のように感じられるために生じるのだが、トラフ自身、それを意図して3つの開口部の大きさや高さを巧みに計算しているのではないかとさえ思う。開口部が「窓」として意識されるために、デスクに置かれたコップや鉢植えも、あたかもミニチュアの部屋に置かれた家具や観賞植物に見えてしまう。
トラフ自身、《コロロデスク》について「自分だけの空間が持つことができる、部屋のようなデスク。窓をあければ開放的、閉めれば個室」などと説明しているから、このデスクを「部屋」として感じるのは作者のねらいどおりである。しかし、よくよく考えれば、「自分だけの空間」といわれた場合、人は自らの身体を取り巻く空間を思い浮かべるのではないだろうか。ところが、《コロロデスク》がもたらす「自分だけの空間」は、デスクの前に座っている自分の体を取り巻く空間ではない。その空間は、自分の視界にすべて収まってしまう「ミニチュアな部屋」なのだ。そう考えると、このミニチュアのような「部屋」は、身体的ではなく視覚的に所有される「自分だけの空間」である気がする。
身体的にではなく、視覚的に「自分だけの空間」を所有するという感覚は、ある意味、現代のライフスタイルにおける机のあり方からもたらされたものであるかもしれない。かつて、机の機能といえば、頭を下げて机上にある本を読んだり書き物をすることだったのが、いつのまにか、頭を上げたままパソコン画面に映るヴァーチャルな世界に入り込むための土台の役割となった。《コロロデスク》は化粧版で箱を組み立てただけのきわめてアナログなプロダクトでありながら、そこで得られる「自分だけの空間」は、パソコン画面に映った自分の部屋を一望するようなヴァーチャル感を漂わせる。さまざまな解釈を生じさせる、じつに巧みな机である。[橋本啓子]
2012/09/09(日)(SYNK)