artscapeレビュー

2011年08月01日号のレビュー/プレビュー

ひらいゆう写真展「マダムアクション」

会期:2011/06/28~2011/07/10

アートスペース虹[京都府]

以前から彼女の作品に登場していた兵士人形(多くは道化の姿をしていた)に女装と化粧を施し、肖像写真として撮影した作品が並んでいた。男性と女性、虚構と現実の境界線が曖昧になった状態を定着させることで、既成概念を疑うことの大切さを静かに訴えているかのようだ。反対側の壁には荒涼たる氷河の情景を捉えた風景写真が展示されている。それはまるですべての価値観がリセットされた白紙の精神を象徴化しているようだった。

2011/06/28(火)(小吹隆文)

アリス・クリードの失踪

会期:2011/06/11

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

たった3人しか登場しないクライム・サスペンス。誘拐犯の男2人組みと、誘拐された女が、それぞれを騙し、騙されながら二転三転する物語の展開がたいへん小気味よい。映画というより戯曲の印象が強いという点では、タランティーノの映画『レザボア・ドッグス』というべきか、あるいは3人だけの応酬で物語を綴るという点では、中江兆民の『三酔人経論問答』というべきか。いずれにせよ、三人寄れば文殊の知恵というわけではないが、少なくとも3人そろえば世界は成立するのではないかと思わせるほど、よくできた物語映画である。

2011/06/29(水)(福住廉)

メタルヘッド

会期:2011/06/25

シアターN渋谷[東京都]

芸術の本質とは何か。そのひとつが常識的な基準を超越する非日常的な価値にあるとすれば、本作で描かれているヘヴィメタ野郎、ヘッシャーはまちがいなくアーティストである。破天荒な風来坊、もっと平たくいえば、かなりヤバいやつ。主人公の少年の自宅に突然押しかけて居座るばかりか、家族のデリケートな問題にズカズカと入り込み、挙句の果てに少年を車で跳ね飛ばしてゲラゲラ笑うありさまには、悪魔とスレスレの魅力があふれている。その怪しい魅力を存分に描きながらも、同時にその背後に魂の喪失感や虚無感をあぶり出し、それを子どもであろうと大人であろうと、男であろうと女であろうと、本作の登場人物たちに共通する精神的な痛みとして示しているところに、本作ならではの大きな特徴がある。あるいは、へヴィメタルというジャンルには、そうした二重性が本来的に備わっているのかもしれないが、仮にそうだしても、やはりそこにこそ芸術という価値を与えるべきである。なぜなら、登場人物たちが内側に抱えている暗い喪失感は、いま私たちがその取り扱いに苦慮している痛みとまちがいなく通底しているからだ。同時代のアートとして評価するべき映画である。

2011/06/29(水)(福住廉)

吉行耕平 The Park

会期:2011/06/29~2011/07/18

BLD GALLERY[東京都]

これはおもしろい。赤外線フィルムで夜の公園の模様を撮影した写真で、カップルによる愛の行為や、それを覗き見る男性の群れ、さらには男性同士が戯れる光景を映し出している。いずれも背後から撮影しているが、おもしろいのは徐々に被写体との距離が近づいてゆき、やがて至近距離まで接近するところだ。カメラマンとしての客観的な立ち位置が、いつのまにか覗き見集団の一員にまでポジショニングを移動させていくといってもいい。ここにあるのは、外部の視点をもって内部に潜入するフィールドワーカーが直面しがちな、対象と同一化する寸前で辛うじて身を引き離す、独特の緊張感だ。それは、たとえば石川真生や森山新子の写真にも通じる特質だが、これらの写真家に共通するのは撮影の方法論だけではない。それ以上に、「ルポルタージュ」というより「体当たり」という言葉がふさわしい手法による写真そのものに、肉体の手触りや温もりが感じられるというところに大きな特徴があるのだ。これは、無機質な光と色彩によって代表される昨今の写真にはほとんど見受けられないアナクロニズムなのかもしれないが、かりにそうだとしても擁護しなければならないのはこちらのほうだ。なぜなら、肉体が内側から破壊される潜在的脅威を多くの人びとが抱えてしまった今、実在の根拠としての肉体に、これまで以上に関心が集まっているからだ。

2011/06/30(木)(福住廉)

壺中天(振鋳・演出・美術:高桑晶子+鉾久奈緒美)『日月花』

会期:2011/06/27~2011/07/03

大駱駝艦・壺中天[東京都]

壺中天の男子(「男性ダンサー」なんて書くよりもふさわしい気がするので、あえて)たちに比べると、女子たちの作品はぼくには掴みがたかった(ちなみに、近年の壺中天の公演では、男子中心か女子中心かに分かれることが多く、均等に男女が混合される公演は少ない)。とくに男子たちが「路上に並んで立ち小便する」みたいに幼児的な情動を勢いよく放出しているのに対して、女子たちはやや「ふっきれて」いないと感じさせられてきた。「晴れの舞台で憧れの妖精になりたい!」というなどといった「乙女心」が見え隠れすることもある。バレエの舞台ならいざ知らず、舞踏においては無用の長物ではないか、あるいは一般の女性たちを見ていると「乙女心」に窮屈さを感じ、そこから解放されたいと願うなんてことが起きているのでは、などと思ってしまう。例えば、変顔でプリクラ撮るなんて遊びは、そうした窮屈さからの解放感をえたいがための振る舞いではなかろうか。
 そんなこと思って見ていたぼくにとって、本作の白眉は中盤の女三人組の登場シーンだった。見事な変顔だった。正直言って「ぶさいく」だった(そう呼ぶ失礼を詫びるべきか迷う、ただ、あれが意図ある表現だったら詫びてはならないはずだ)。見ながら「ぶさいくだなー」と漏らしたくなるくらい、見事に突き抜けていた。toto BIGのCMで踊り歌う森三中を連想させる、不格好であるが故に生じる解放感に酔った。白塗りの全裸に近い姿故に女子たちを愛する男性客もいるだろう。けれども、変顔もできる壺中天女子たちのダンスは女性客にこそアピールするのではないだろうか。これで壺中天の女子が男子の「バカ」(もちろん賛辞として用いています)に拮抗してきた気がする。ぜひ近い将来、この「バカ」を競う「壺中天・紅白踊り合戦」をやってもらいたいと強く希望する。

2011/07/01(金)(木村覚)

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