artscapeレビュー

2011年08月01日号のレビュー/プレビュー

映画『テンペスト』

会期:2011/06/11

テアトル梅田ほか[大阪府]

ウィリアム・シェイクスピアの最後の戯曲といわれる『テンペスト』。筆者が記憶するだけでも二回映画化されている。デレク・ジャーマン監督の『テンペスト』(1979)とピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペローの本』(1991)。上記の二作は、監督の知名度もあって話題になったもので、映画化された作品はもっとあるはずだ。文学作品の映画化はそれほど珍しいことでもないが、400年も前の作品が繰り返し映画化されるにはそれなりの理由があるだろう。ジュリー・テイモアがメガホンをとった、今回の『テンペスト』は、主人公のプロスペロー(ヘレン・ミレン扮)を女性に変えたこと以外、粗筋から台詞に至るまで原作(原文)に忠実である。シェイクスピア戯曲独特の台詞を(現代人にとっては冗長かもしれない)、観客は延々と聞かされる。もちろんそこには言葉の美しさや、時代を超え人間の本質を暴く鋭さがある。だが、それはあくまでもシェイクスピアの力量であり、戯曲の魅力である。映画としての『テンペスト』は、空気の妖精エアリエルの表現など、CGを駆使したファンタジックな映像作りが試みられたものの、映画という媒体の特性が十分に活かされているかについて疑問が残る作品だ。アカデミー賞の衣装デザイン賞にノミネートされるだけあって、ゴージャスな衣装は見応えあり。[金相美]
図版クレジット=テンペスト �2010 Touchstone Pictures

2011/07/03(日)(SYNK)

中岡真珠美 展

会期:2011/07/04~2011/07/16

Oギャラリーeyes[大阪府]

風景を独自の視点で換骨奪胎させ、オリジナリティのある画面をつくり出す中岡。今回はそうした作品と共に、紙に水彩で描かれた32点組の連作を出品した。今までとは異なる画材を使いこなし、過去作との連続性を保ちつつ新たな作風に仕上げたのはお見事。連作でありながら単体でも成立する組作品という形式は、今後の彼女の作風に少なからず影響を与えるかもしれない。

2011/07/04(月)(小吹隆文)

もてなす悦び──ジャポニスムのうつわで愉しむお茶会

会期:2011/06/14~2011/08/21

三菱一号館美術館[東京都]

三菱一号館美術館がコレクションするジャポニスムの器を愛でる展覧会。19世紀後半、明治政府は外貨獲得のため、日本の工芸品を積極的に輸出してゆく。展示・商談の場として重要であったのが当時各国で開催されていた万国博覧会で、1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会で、日本政府は初めて公式に参加している。欧米に渡った日本文化は、同時代の芸術家たちの創造の源泉ともなり、西欧の絵画や工芸に多くの影響を与えた。この展覧会ではガラス器、銀器、絵画などさまざまな工芸への影響を取り上げているが、タイトルに「お茶会」とあるとおり、中心となるのはカップ&ソーサーなどティ・ウエアのコレクション。大きな展示室に再現されたティー・テーブルと、特設ケースに配されたカップ&ソーサーの数々。器の魅力が伝わる美しい展示である。
ひとくちにジャポニスムといっても、なにを日本的なものとするか、その解釈は直接的な引用から、メンタリティにまで遡るものなどさまざまである。19世紀後半にリチャード・ウィリアム・ビンズがデザインを統括したロイヤル・ウースターの製品には、ビンズが日本美術のコレクターであったこともあり、日本磁器の写しや文様のアレンジが多く見られる。1860年にクリストファー・ドレッサーがデザイン主任を務めたミントンのジャポニスムには、ドレッサーの日本美術に対する深い理解が反映されている。また、展示にはティファニーのガラス器などに現われたように、「朝顔」というモチーフ自体が日本趣味を象徴する例も挙げられている。ただ様式を追うばかりではなく、ジャポニスム誕生の背景、欧米における受容までを視野に入れ、展示にも工夫を施した優れた展覧会である。[新川徳彦]

2011/07/06(水)(SYNK)

BIUTIFUL ビューティフル

会期:2011/06/25

ヒューマントラストシネマ渋谷[東京都]

残された人生の時間をいかに生きるのか。あるいは生きようと努めるのか。若者であれ老人であれ、人生が有限であるかぎり、これは誰にとっても妥当する普遍的な問いである。本作は、末期がんに侵された男が、この自問自答を繰り返しながら、やがて死を迎え入れるまでを描いた物語。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督にとっては十八番ともいえる「生と死」をテーマとした映画だ。バルセロナの下町を舞台に、闇の仕事によって2人の子どもを養う男が次第に追い詰められてゆく様子は痛々しく、とてもやり切れない。離婚した妻やアフリカ系・中国系移民との神経をすり減らすようなやりとりも、その切迫感を倍増させている。ただその一方で、この映画は「死」に向かう恐怖より、むしろ「死」を受け入れる受動性に重点が置かれているせいか、圧迫されるにしても、その先に抜ける道が用意されることも事実だ。たとえば主人公の男は霊媒師として死者の霊の声を代弁したり、死者の魂を目撃することができたりと、ある種の霊能力に恵まれているという設定で描かれているが、この仕掛けによって、死に向かって残酷に進む「生」の時間を描きながらも、目に見えない「死」の空間を巧みに視覚化しているのである。それゆえ、主人公の男にとって、死はわが子との別れであると同時に、かつて若くして亡くなった父との再会でもあった。この世とあの世の境界がさほど明確ではなく、双方が互いに入り組んだ世界観。それが、現実の重い足かせをひとまず外してくれるように思わせるところに、今日的なリアリティーがあるような気がした。

2011/07/06(水)(福住廉)

プレビュー:ミラル

会期:2011/08/06

ユーロスペース[東京都]

ジュリアン・シュナーベルがパレスティナの歴史を綴った映画。1948年から1994年までの46年間にわたる激動の歴史を、孤児院を中心にして叙事詩のように物語る。殺戮の応酬という血塗られた歴史であることはたしかだが、この映画の特徴は、それを男性の視点からではなく、すべて女性の視点から描いていることだ。闘争する男性を尻目に戦災孤児を受け入れる活動に邁進する女性、逆に止むにやまれずインティファーダへ身を投じてゆく女性、あるいは継父からの性的虐待から逃れるも、その傷が癒えぬまま死を選ぶ女性。時系列に沿いながらも、それぞれの時代を4人の女性の人生から物語る構成だから、抽象的で一般的な歴史としてではなく、あくまでも個人が介在した具体的な歴史としてパレスティナの歴史を理解することができるわけだ。だからこそ、他者を傷つけ、あるいは傷つけられながら、歴史に翻弄され、あるいは歴史をつくり上げていく人びとの痛みや怒り、苦しみが深く伝わってくるのである。歴史とは、切れば血が出る生身の肉体にもとづいた物語であることを、この映画はみごとに体現している。

2011/07/08(金)(福住廉)

2011年08月01日号の
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