artscapeレビュー

2013年11月01日号のレビュー/プレビュー

海野厚敬 展「the right」/「the left」

会期:2013/10/01~2013/10/06

「the right」:ギャラリー恵風、「the left」:ギャラリーヒルゲート[京都府]

具体的な情景を描くのではなく、かといって抽象画でもない。図柄やモチーフの質感をコントロールすることで、兆しや気配といった感覚的な領域を描き出すのが海野の特徴だ。近年の彼は創作意欲が爆発的に加速しており、本展でも2つの画廊の3フロアを使用して何とか作品を収容した。これでもまだ空間的に十分とは言えないが、画業の充実ぶりは観客にも十分伝わったはずだ。おそらく彼は、画家として最初のピークを迎えている。このタイミングで美術館クラスの空間を与えてやれば、更なる伸びが期待できるだろう。近々にその機会が訪れることを期待している。なお、一見意味深な展覧会タイトルには、実はさほど深い意味はないらしい。ならば単純に「海野厚敬展」としておくべきではなかったか。

2013/10/01(火)(小吹隆文)

超京都2013「現代美術@平成の京町家」

会期:2013/10/05~2013/10/06

平成の京町家モデル住宅展示場 KYOMO[京都府]

京町家の大商家や、東本願寺の飛地境内地といった京都の歴史的建造物を会場に、現代美術の作品展示を行なってきた「超京都」。3回目の今回は、過去2回から一転して現代の住宅展示場を会場に選定。と言ってもありきたりなショールームではない。「平成の京町家」を提案する極めて珍しい住宅展示場なのだ。伝統的な意匠や設計思想を継承しつつ、室内は現代のライフスタイルにも合致した平成の京町家は、現代美術との相性も抜群。美しい生活空間と作品がマッチして、ほかでは味わえないユニークな美術体験ができた。しかし、住宅5棟に7画廊と1美術大学が集ったこのイベントで、入場料2,000円が妥当かと言われるとやや疑問。主催者の苦労を知るだけに言いにくいが、この点だけは改善の余地ありだ。

2013/10/04(金)(小吹隆文)

秋山正仁 展 CROSSROADS

会期:2013/09/30~2013/10/05

Gallery K[東京都]

山梨県在住の秋山正仁の新作展。長大なロール紙に色鉛筆だけで都市風景を緻密に描き出す平面作品を、年に一度東京の画廊で発表している。
今回展示されたのは、主に50年代から60年代のアメリカ文化をモチーフにした作品。絵巻物のように横に長いので右から順に見ていくと、さまざまな色合いで細かく描かれた街並みを貫くクロスロードの随所に、アメ車に乗ったマリリン・モンローやジョン・F・ケネディー、ジェームス・ディーンらが次々と現われてくるのが面白い。
映画や音楽が輝いていた古きよきアメリカ。それらを描き出した画面の奥底に、追慕や憧憬が強く作用していることは間違いない。けれども、秋山の描き出す平面作品には、そうした中庸な言葉には到底収まりきらない迫力がみなぎっている。ノスタルジーと言うには、細部を執拗に描写する執着力が凄まじいからだ。しかし、それらは色鉛筆による柔らかい質感で表現されることによって、執着力がしばしば伴う攻撃性を巧みに回避している。結果として、秋山の絵は見る者の視線をやさしく内側に誘い込むのである。
いつまでも見ていたい。そして絵巻物のように果てしない時間に身を委ねたい。そのように思わせる絵は、思いのほか少ないという点で、秋山の平面作品を高く評価したい。

2013/10/04(金)(福住廉)

増山士郎 毛を刈った羊のために、その羊の羊毛でセーターを編む

会期:2013/10/02~2013/10/13

ArtCenterOngoing[東京都]

アイルランドを拠点に活動している増山士郎の個展。同時期に催されていた「あいちトリエンナーレ2013」で発表した新作と同じ作品を発表した。
新作の概要は、読んで字の如し。一匹の羊の羊毛を刈り取り、紡ぎ出した羊毛で1枚のニットを編み、それを同じ羊に着せるというプロジェクトだ。羊牧場の協力を仰ぎ、アイルランド人のおばあさんたちの教えを請いながら糸車で糸を紡ぎ、編み物を編む。会場には、そうした共同作業のプロセスを記録した映像と、元の羊とニットを着た羊をそれぞれ写した写真が展示された。
ニットを着せられた羊の姿を見ると、どうにもこうにも可笑しみを抑えることができない。ニットの首回りが若干大きすぎるからか、あるいは毛量が増減したわけではないにもかかわらず、全体的にボリュームが圧縮されているからか、いずれにせよ不細工で不格好だからだ。群れに帰っていくその背中には、哀愁が漂っていたと言ってもいい。
だが、こうしたユーモアが、ある種の偏った見方から動物虐待と指弾されかねない危うさをはらんでいることは否定できない。人間の営為のためならまだしも、ただ動物の身体を改造して楽しんでいるようにも見えるからだ。
けれども、改めて画面を見渡してみれば、そもそも羊牧場で飼育されている羊たちの羊毛には、管理のための記号が色とりどりのスプレーで乱暴に描きつけられていることに気づく。今も昔も、人間は家畜に働きかけることによって暮らしを成り立たせてきたのであり、増山が見ようとしているのは、おそらくその働きかけるときの手わざの触感ではなかろうか。スプレーで一気に済ますのではなく、時間をかけて丁寧に紡ぎ、編む、その手わざのリアリティーを求めていたに違いない。
社会の労働環境が工業化され情報化された現在、羊毛産業自体が斜陽になりつつあるという。手わざの手応えやリアリティーは失われ、由来の知れない商品が私たちの暮らしを満たしている。そうしたなか、ユーモアとともに手わざの触感を回復させる増山のプロジェクトには、社会的な批評性が確かに含まれている。

2013/10/05(土)(福住廉)

イデビアン・クルー『麻痺 引き出し 嫉妬』

会期:2013/10/05~2013/10/07

KAAT 神奈川芸術劇場・中スタジオ[神奈川県]

イデビアン・クルーの舞台が他のダンス舞台と比べて際立って面白いのは「クール」だからで、それはなにより、舞台に客席の観客とは異なる「観客」がいるというところにある。誰かのダンスに誘惑されて、井手茂太(扮する男)がノリノリになって踊ろうとしたら、一寸早く割って入って来た男にステージを取られた。そんなとき、井手(扮する男)は醒めた1人の「観客」として呆然と佇んでいる。井手の振り付けが素晴らしいのは、なんと言おうか、たんなる振り付けではなく、踊ってしまう人間の踊りへ至る心情が表現されているところだろう。日常のテンションからわずかに浮き足立つ瞬間、そこに起こる心情。ブレることなくそこを見定めているからこそダンスは自然と批評性を帯びる。しかも、今作では照明や音響との相乗効果が緻密な仕掛けによって引きだされていた。魚市場の競りでの早口がスピーカーから流れると、井手はまるで音楽にあわせるように、早口のリズムに体を合わせる。あるいは、ただ歩くだけのシーンで轟音の足音がステップに合わせ鳴ったり、勢い込んで目の前の男2人のあいだに割って入ろうとすると、音楽が急に小さくなり、そのためか、2人に拒まれ、勇気を振り絞って出した勢いが削がれてしまったり。照明も同じように、スポットを踊るダンサーからちょっとずらしたりして、「浮き足立つ」気持ちに合わせたり、そっぽ向いたりする。ダンスに必須なものに「ノリ」がある。そして「ノリ」とは日常からちょっと逸脱する内発的なエネルギーだとすれば、ダンサーたちが幾通りにも交錯し、関係のバランスをさまざま変化させるなかで、井手が描き出すのはこの「ノリ」がどう生まれ、どうしぼんでしまうかなのだ。タイトルは作品の構成を示すと同時に、ひとつながりのしりとりになっているが、まさにしりとりのように、つき合わされ、乗せられ、乗っ取られる人々の心情。その揺れるさまを見ていると、この舞台で起きていることの多くは、素直に「ノル」ことというよりは、「ノレナイ」ことだったりするのに気づく。誘惑と幻滅、踊りの裏と表が同時に明かされた。20個ほどの和室用ペンダントのついた蛍光灯が舞台を照らしたラストシーン。次々消えて、最後に一個だけ残った真ん中の蛍光灯。その紐をカチッカチッとやると、オレンジの光が鈍く光った後暗転した。暗転で引き離されるのだが、紐の手に観客の目が集中して、一瞬観客は踊り手たちの和室に吸いこまれた。

2013/10/06(日)(木村覚)

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