artscapeレビュー
2013年11月01日号のレビュー/プレビュー
奇想の女子陶芸 超奇想!超デコ!超手しごと!~関西発21人展~
会期:2013/10/15~2013/10/22
阪急うめだ本店 9階アートステージ[大阪府]
超細密な手仕事の集積、本体を超えんばかりの装飾、異様な外見、独自の制作法といった特徴を持つ女性陶芸家たちが集結した。作家の半数以上は1980年代生まれだが、その頃にデビューしたベテランも2名含まれる。百貨店での展示だけに販売面への配慮もあり、純粋なオブジェは少数。基本は器の展覧会であった。それでも彼女たちの仕事の特異さを見るには十分で、現代の陶芸界で起こっている地殻変動を垣間見られた。彼女たちの仕事はどこまで行っても陶芸のメインストリームにならないかもしれない。しかし、そのしがらみのなさ、自由さは特筆すべきものであり、いまを全力で生きる風情が少なからず支持を集めている理由であろう。出品作家を50音順に記す。植葉香澄、内田恭子、馬岡智子、梅本依里、大江志織、大槻智子、篠崎裕美子、新宮さやか、高間智子、田中知美、谷内薫、堤展子、津守愛香、楢木野淑子、花塚愛、原菜央、服部真紀子、藤信知子、村田彩、山極千真沙(直前に1名の出展がなくなったため、実際には20名の展示となった)。
2013/10/15(火)(小吹隆文)
えっ?『授業』の展覧会ー図工・美術をまなび直すー展
会期:2013/09/14~2013/10/27
うらわ美術館[埼玉県]
美術教育の何が問題なのか。それは、美術の制作に重心を置くあまり、鑑賞教育がないがしろにされている点にある。制作と鑑賞が分断されたまま美術が教育されていると言ってもいい。こうした偏重は、大量のアーティスト予備軍を排出することで美術大学や美術予備校の経営的な基盤を確保している一方、結果的に「制作」を「鑑賞」より上位にみなす権威的な視線を制度化した。美術館における鑑賞者教育のプログラムは充実しつつあるが、それにしても「制作者」や「アーティスト」(あるいは、ここに「企画者」ないしは「キュレーター」を含めてもいいかもしれない)に匹敵するほど「鑑賞者」という立ち位置が確立されているわけではない。質的にも量的にも、鑑賞者を育むことを蔑ろにしてきたからこそ、市場を含めた美術の世界はことほどかように脆弱になっているのではないか。
本展は、小学校における図画工作および中学校における美術をテーマとした展覧会。明治以来の美術教育の変遷を貴重な資料によって振り返るとともに、現在、美術教育の現場で試行されているさまざまな実験的な授業を紹介した。展示されていた文科省による「児童・生徒指導要領の評価の変遷」を見ると、「鑑賞能力」は昭和36年から現在まで一貫して評価軸に含まれているにせよ、それが「表現能力」や「造形への関心」と交わることは、ついに一度もない。すなわち、制作と鑑賞の分断は制度的に歴史化されてきたのだった。
しかし、改めて振り返ってみれば一目瞭然であるように、制作と鑑賞の分離政策は美術に決して小さくない損害を与えてきた。従来の鑑賞教育は、「自由」という美辞麗句の陰に鑑賞を追いやり、方法としての鑑賞を練り上げることを放棄してきたため、結果として鑑賞と本来的に分かち難く結びついている批評を育むこともなかった。言うまでもなく批評とは批評家の専売特許ではないし、批評的視線を欠落させた鑑賞は鑑賞行為としても不十分であると言わざるをえない。批評の貧困は、批評家の力量不足もさることながら、鑑賞教育の乏しさにも由来しているのだ。
必要なのは、おそらく鑑賞=批評を「表現」としてとらえる視座である。制作と鑑賞を分離する従来の考え方では、制作は表現という上位概念に含まれることはあっても、鑑賞はそこから周到に排除されていた。しかし、批評が作品との直接的な出会いを契機として生み出される言語表現だとすれば、批評と直結した鑑賞もまた、そうした表現の一部として認めなければなるまい。「表現」という概念をいま以上に練り上げることによって、鑑賞を制作より下位に置くフレームを取り払うこと。そこに美術の未来はあるのではないだろうか。
2013/10/16(水)(福住廉)
中原浩大 自己模倣
会期:2013/09/27~2013/11/04
岡山県立美術館[岡山県]
筆者にとって中原浩大は、1980~90年代を代表するスター作家であり、同時に巨大な謎であった。残念ながら彼の1980年代の仕事には立ち会えなかったが、1990年代以降は多数の作品を直に見ている。なのに、いまだ自分なりの解釈すら構築できないのだ。だから本展は、遂に現われた助け舟のような存在だった。展覧会図録に載っている担当学芸員のテキストを頼りに、やっと自分なりの中原浩大像をつくれると期待したからだ。しかし、筆者の身勝手な期待は脆くも崩れ去った。図録(見本)には、過去の中原の発言やテキスト、担当学芸員による本展開催までの経過説明はあったが、肝心の中原浩大論は記されていなかった。プロの学芸員にとっても、中原は扱い難い存在なのだろうか。しかし、本展と図録を通して、彼の仕事のかなりの部分に「子ども時代にできなかったこと」が関与していることが分かった。今後はそこを切り口に中原の仕事を見ることにしよう。なお、本展では再制作品も含め、中原浩大のこれまでの仕事を網羅的に見ることができる。現代美術ファン必見の機会と言っておこう。
2013/10/17(木)(小吹隆文)
関東大震災から90年─よみがえる被災と復興の記録─展
会期:2013/10/12~2013/10/20
湘南くじら館スペースkujira[神奈川県]
関東大震災直後に発行された新聞や雑誌、写真集、絵葉書などを見せた展覧会。大変貴重な資料の数々が、決して広くはない会場に所狭しと展示された。関東大震災関連の展覧会といえば、「関東大震災と横浜─廃墟から復興まで」(横浜年発展記念館)や「被災者が語る関東大震災」(横浜開港資料館)、「レンズがとらえた震災復興─1923~1929」(横浜市史資料室)、「横浜港と関東大震災」(横浜みなと博物館、11月17日まで)などがほぼ同時期に催されたが、本展の醍醐味は、展示された資料をガラスケース越しにではなく、肉眼で間近に見ることができるばかりか、部分的には直接手にとって鑑賞することができる点にある。古い資料が発するオーラを体感できる意義は大きい。
そのなかで気がついたのは、当時のメディアが現在とは比べ物にならないほど直接的に震災の被害を伝達していることである。新聞には現在では必ず回避される被災者の遺体を写した写真が掲載されているし、震災で破壊された街並みを印刷した絵葉書も飛ぶように売れたらしい。むろん、当時はメディアをめぐる社会的なコードが未成熟だったことや、そもそもメディアの種類が乏しかったことにもその一因があるのだろう。
けれども、同時にまざまざと実感できたのは、当時の人びとにとって震災は、伝えたい出来事であり、知りたい出来事でもあったという、厳然たる事実である。より直截に言い換えれば、当時の写真家や絵描きたちは、関東大震災によって、身が震えるほど表現意欲を掻き立てられたのだ。展示された資料の向こうには、夢中になってシャッターを切る写真家や、嬉々として絵筆を振るう絵描きたちの姿が透けて見えるようだった。かつて菊畑茂久馬は戦争画を描いた藤田嗣治の絵描きとしての心情を想像的に読み取ったが、それは関東大震災を主題とした写真家や絵描きたちの心の躍動と重なっているのかもしれない。
「私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に慄きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにもかかわらず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする」(坂口安吾「堕落論」)。もちろん震災と戦争は違う。時代も同じではない。けれども安吾もまた、破壊された都市を眼差す心の内側に、同じ熱量を感じ取っていたに違いない。それは、被災者を慮る同情や共感、あるいは復興のための努力や善意とはまったく無関係な、しかし、表現にとっては必要不可欠であり、それゆえ歴史を構築しうる、剥き出しの欲望にほかならない。
2013/10/18(金)(福住廉)
マイケル・パリー『モリス商会──装飾における革命』
発行日:2013年7月30日
発行所:東京美術
価格:2,000円(税別)
サイズ:232x226x14、64頁
美しい本である。著者は、現在モリス商会のブランドを継承している、英国のサンダーソン社の社長。本書は、モリス商会の設立150周年を記念して出版されたもので、ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動の遺産、そして同商会がもたらした壁紙・ファブリックの魅力を余すことなく伝えている。サンダーソン社が保有する貴重なモリス商会のコレクションは、同社のデザイナーたちのインスピレーションになってきたという。インテリア・デザインに興味がある人にとっては、サンダーソン社が現代に甦らせたアーカイヴ・コレクションを撮影した、室内セットのコーディネートに触発されるだろう。また、19世紀のデザインを学ぶ人にとっては、同時代の史実に関する記述は言うまでもなく、モリス商会の行く末に興味を引かれるだろう。本書では、1940年まで存続したモリス商会とその製品が、21世紀に形を変えどのように生まれ変わり、現在に至るのかについても知ることができる。[竹内有子]
2013/10/19(土)(SYNK)