artscapeレビュー

2020年08月01日号のレビュー/プレビュー

シアターコクーンライブ配信『プレイタイム』

会期:2020/07/12

シアターコクーン[東京都]

コロナ禍で約4ヶ月休館していた劇場、シアターコクーンの「再始動」プログラムとして企画された「ライブ配信のための演劇」。観客席も用意されているが、筆者は企画主旨のライブ配信を鑑賞した。照明・音響装置、オーケストラピットの昇降、裏方スタッフの労働など、劇場の物理的機構それ自体のオーガニックな運動を作品化する、梅田哲也の『インターンシップ』が原案。本企画では、演出家の杉原邦生を迎え、岸田國士の戯曲『恋愛恐怖病』(1926)を森山未來と黒木華が演じ、ダンサーの北尾亘(Baobab)やミュージシャンの角銅真実が加わった。


冒頭、懐中電灯の光が暗闇をまさぐり、無人の劇場バックヤードの機材が照らし出される。小さな星のような灯がポツポツと灯り、やがて眩いライトが強烈な光を投げかける。それは、休館の仮死状態の眠りから劇場を目覚めさせる、(疑似)太陽の光だ。低いモーター音のうねりとともに、歯車が回転し、規則正しく並んだロープが巻き上げられ、バトンに吊られた照明機材が上昇していく。それは、劇場の巨大な体内に張り巡らされた、血管、神経、内臓組織だ。カメラは、胎動の音とともに、巨大な体内のなかを迷路のように進んでいく。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


舞台袖の暗闇で、劇場の模型をライトで照らしながら眺めている男(森山未來)がいる。彼は台詞を発しながら、狭い通路や階段をライトで照らして探検のように進み、彼の台詞を引き取って続ける女の声に導かれるように、舞台の上へ姿を現わす。そこは、裏方スタッフが打楽器や木琴を運び込み、台本を持った女(黒木華)が歩き回っている、「準備中」の運動に満ちた空間だ。「南京豆が食いたくなった」「燈台に灯がつくまで、ここにいましょうね」「今日はなんだか重大な日だ。胸騒ぎがします」。台詞をリフレインさせ、台本の「読み合わせ」をする二人の周りを、モップ掛けするスタッフが行き交う。上昇と下降を繰り返す吊り照明から身をかわす男の動きはダンス的なムーブメントに接近し、一方その傍らでは、裏方スタッフの恰好をした別の男(北尾亘)がスポットライトのテストの下で回転している。無機的な機械音のノイズ、スタッフの業務連絡、マイクチェックなどの作業音が楽器のチューニングやハミングと交じり合い、ハーモニックに調和していく。ゆっくりと旋回するカメラは、薄暗い客席通路の階段を降りて座席につく観客の姿を映し出す。その反対側の、半透明の幕で遮られた舞台上では、「海面」を演出する青いシートがふわりと掛けられ、生き物のように呼吸する。チューニングの延長のような優しい音響が包み、夜明けを告げる鐘のような音が響き、深い霧笛を思わせる音が舞台上に「海」を目覚めさせる。「開演」、そして衣装を着替えた男と女は、海を見下ろす桟橋のような空中のブリッジに立ち、互いの恋愛観と結婚観を語るなかに恋の駆け引きとプライドが入り混じる会話劇が始まる。煮え切らない男を残して女は立ち去り、傷心の彼は、自己の分身のようなもう一人の男にモノローグを吐露し、シンクロしたダンスムーブメントを展開する。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


「演劇」が息づき始める空間を、映像ならではのカメラの運動性を活かして見る者を惹き込み、俳優・ダンサーを脱中心化し、光と影、さまざまな人や機材が交通する活性化された空間として捉え、フィクションの立ち上げをワンカットの「ドキュメンタリー」として撮る。ここで本作の賭け金は、梅田哲也の『インターンシップ』を原案として発展的に拡張させたことにある。劇場の物理的機構の運動や裏方スタッフの作業そのものを作品の素材として用いる『インターンシップ』のサイトスペシフィック性は、「どの劇場で上演しても『コンテンツ』は同じ」という同一性の担保を批評的に解体し、(国内ではKAATに次ぐ)新たな劇場での上演には意義がある。それは、「コロナ禍後の再始動」という面では成功した一方で、「上演批判・劇場批判という作品の本質的要素を、ドラマの充填によって上書きし、損ねてしまう」という両義的な結果となった。また後述するが、秀逸なカメラワーク(渡邉寿岳)は本作の特筆すべき点である一方、「オンライン配信」と「劇場での観劇」の両立は可能かという新たな課題を突き付けた。


私見では、『インターンシップ』のコアは、「舞台上に見るべきものは何もない」という表象批判・劇場批判をリテラルに遂行しつつ、劇場の物理的機構そのものを用いて圧倒的な感覚的体験の強度をつくり出した点にある。通常は不可視の劇場機構や裏方スタッフの作業という「日常」を見せたあと、俳優やダンサーが一切登場しない空っぽの舞台を、即興的なチューニングから不協和と美しさの併存した音響世界が満たし、光と影の交替劇が、夜と死を潜り抜けて再び朝と復活を迎える、壮大で抽象的なドラマなきドラマの非日常性を体感させる。だが本作では、中盤=「開演」以降、「『恋人』と『友達』の境界線をめぐる、男女の駆け引き」「女に翻弄される男」「恋に破れた男のナルシスティックな苦悩」というドラマの充填に取って替わられ、照明や音響の有機的な運動性は劇伴的に退行してしまった。また、岸田國士の戯曲の採用も、「生誕130周年」という祝祭性しかなく、戦前に書かれた戯曲と現代との時代差―「自由恋愛」の登場した大正期/既存の結婚観の残存とのジレンマや、潜在的なホモソーシャルな欲望は掘り下げられず、ファンタジックな演出のなかに曖昧に溶かされてしまう。



[撮影:渡邉寿岳 写真提供:Bunkamura]


また、「定点」も「全体を見渡せる一望」も放棄し、巨大な器官としての劇場空間に潜り込み、洞窟か迷路のような内部を探査し、生きもののように蠢く劇場を捉えるカメラの運動感や流動性は、『インターンシップ』における(ドラマという)中心の欠如と、舞台上を自由に歩き回りながら体感する観客の運動性や移動の自由さとリンクする。その一方で、時折カメラに映り込む「劇場で本作を鑑賞する観客」は、客席に身体を固定され、古典的なプロセニアム舞台との対面を余儀なくされており、身体性の縮減は『インターンシップ』(の発展的展開)の鑑賞体験としては不十分さが残る。感染症が完全に収束するまでは、本作のように、オンライン配信と劇場での上演の並行が(実験性としても収益の面からも)摸索されていくだろう。本作は、「オンラインのライブ配信」の試みとしては成功していたものの、「実際の劇場での鑑賞体験」とのバランスをどう取るか、という困難な課題を改めて浮き彫りにしていた。

なお本作は、7月31日~9月2日の期間、オンデマンド配信が予定されている。


公式サイト:https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/20_playtime/

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TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年03月15日号)

2020/07/12(日)(高嶋慈)

須藤崇規『私は劇場』 week7

会期:2020/07/14~2020/07/17

パフォーミング・アーツを中心に記録映像を手がける映像ディレクター、須藤崇規によるオンラインパフォーマンス。5月25日より開始され、毎週複数回、YouTubeで生配信され、内容は毎回異なる。本評では、7週目の7月14日の配信内容を取り上げる。

黒画面に白い文字がリアルタイムで入力され、キーボードを打つ音や車の走行音などの環境音が聞こえてくる。本作の構造はいたってシンプルだ。だが、配信時刻が近づくと日付の下の現在時刻が1分ごとに入力/修正され、アーカイブは非公開という「リアルタイム」の重視、ラフなようで周到に計算された音響、「私からあなたへの語り」という親密性、そして思索的な文章と「文字」の入力/黙読/消去という行為そのものによって、「主体」の所在や交換、簒奪の暴力性について問いかける。それは、「演劇」のフィクショナルな仮構の基盤をメタ的に問いつつ、ディスプレイの「向こう側」とこちら、「いまここ」とアクチュアルな世界的出来事とを隔てる距離を再想像/架橋しながら、「劇場」を再定義し直す深い射程を備えていた。

冒頭、現在時刻の表示に続き、「私は文字です」という文言が入力される。この自己言及的な一文は、それをディスプレイ上で「あなた」が読むとき、入力する「私」と黙読する「あなた」とのあいだで、主体の入れ替えや曖昧化が起こっていることについての思索へと展開する。また、手紙(物質)とは異なり、メールの送信は「情報のやりとり」のようだが、実際は「コピーの送信=自己複製」であるとも述べられる。ここで、本作のタイトルおよび題字デザインにも注意を払う必要がある。日本語タイトルは「私は劇場」だが、それは反対側から読まれる鏡文字として裏返っており、さらに英語で表示されたタイトルは「The Theater is You」と、意図的な(私/Youという訳語および主語の)ズレをはらんでいる。この二重性とズレは極めて示唆的だ。「私」と「あなた」の交換可能性、「翻訳」がはらむ(言語に加え)発話主体の置換、鏡像と反転、透明なディスプレイを介して向き合う「こちら」と「向こう側」、その共有可能性とズレ。ここで、黒画面はすなわち劇場のブラックボックスの謂いであり、そこに浮かび上がる白い文字は「台詞」や「字幕」であるとすれば、本作の問題意識はまずもって、「演劇」と発話主体の問題を扱うことにあると言える。



『私は劇場』スクリーンショット(提供された映像から筆者が作成)


だが、こうした「遊戯(Play=演劇をめぐるメタ的思索)」ではいられない事態になってきたと、「文字」は告げ始める。「世界は文字であふれている」と述べたあと、話題は、香港で国家安全維持法が施行され、「香港独立!」という言葉がデモで使えず、白紙のプラカードを掲げる抗議に変わったことへと移る。この抗議について「私」が何か書けば、「配信」すなわちコピーの拡散を通じて「安全」ではなくなるかもしれないと、「私」は怯え、逡巡し、入力した文章を何度も修正し、口ごもる。いつの間にかキーボードの入力音も環境音も消え、無音が緊迫感を高める。カーソルが震えながら「今まで打ち込まれた入力画面」を辿り直し、もう一度書き出し部分に戻り、書かれた内容を「消去」する。



『私は劇場』スクリーンショット(提供された映像から筆者が作成)


「消去」の暴力を自ら実行したあと、再び「こんばんは 私は文字です」という一文の入力が反復される。そして、この「暗いディスプレイ」が「私」と「あなた」の出会う場所であったこと、すなわち束の間でも「劇場」へと変容していたことが語られる。再び、キーボードの入力音と環境音が流れ始め、現実世界の手触りを取り戻していく。「もう知っているもの、すなわち過去に出会い直すためだけなら、あなたはもう劇場へは行かないだろう」「でも、劇場は、まだ知らないものに出会う場所です」。「ここが劇場」、すなわち「私」と「あなた」が共に立ち合い、出会う場所を「劇場」として希望的に肯定し、再定義しようという、ささやかだが高らかな宣言で締めくくられる。ノイズの音量が、祝福するように加速していく。



『私は劇場』スクリーンショット(提供された映像から筆者が作成)


須藤によって「限界劇場 Marginal Theater を作る試み」と定義された本作は、「主体」の変換や転移という「演劇」の原理的要素に自己言及し、香港の白紙デモというアクチュアルな事態とその距離感をディスプレイを隔てた「私」と「あなた」のそれへと敷衍したのち、「劇場」の概念的拡張を試みる。「限界劇場」、すなわちミニマルに切り詰めた手法によって概念的・物理的限界の拡張を同時に推し進める、優れた試みだった。

題字:内田圭


公式サイト:http://sudoko.jp/theaterisyou/

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2020/07/14(火)(高嶋慈)

鬼海弘雄作品展「王たちの肖像」

会期:2020/06/30~2020/08/02

日本カメラ博物館(JCIIフォトサロン)[東京都]

鬼海弘雄は1973年頃から、法政大学文学部哲学科時代の恩師、福田定良に「買ってもらった」という6×6判の一眼レフカメラ、ハッセルブラッド500C/Mで、浅草の浅草寺境内に集う人々を撮影し始めた。最初はいろいろな場所、撮り方を試していたが、次第に寺院の赤い壁をバックに、半身、あるいは4分の3身で撮影するスタイルが固定していく。それらの「浅草のポートレート」は、1987年に写真集『王たちの肖像 浅草寺境内』(矢立出版)にまとめられ、同年度の日本写真協会賞新人賞を受賞した。今回のJCIIフォトサロンでの個展には、同書におさめられた作品を中心に41点が出品されていた。

鬼海が撮影したのは無名の庶民であり、歴史に名を残す人物とはとても思えない。にもかかわらず、堂々たる威厳を保ち、固有のオーラを纏ってカメラを見返すポートレートを見ていると、彼らが「王たちの肖像」というタイトルにふさわしい存在であることに納得してしまう。鬼海はインタヴューで、彼らは「自分の領土を持つ王」であり、「自分の生に自分で責任を取っている」と語っているが、たしかにこれらの一癖も二癖もありげな男女は、「自分の領土」に誇り持って君臨しているように見えてくる。逆にいえば、浅草を行き交う砂粒のような人の群れから、「王たち」を見つけ出し、声をかけ、写真におさめていく作業には、恐るべき集中力と忍耐力が必要なわけで、その作業の厚みと重みが、これらの初期作品からも充分に伝わってきた。

鬼海は、2019年に『PERSONA最終章 2005-2018』(筑摩書房)を刊行し、1970年代から続けてきた「浅草のポートレート」に一応のピリオドを打った。20世紀から21世紀にまたがる時期の日本人の肖像写真のシリーズとして、これだけの大作はほかにはない。そのたぐいまれな人間探求の成果を、一堂に会する機会をぜひ作ってほしいものだ。

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2020/07/14(火)(飯沢耕太郎)

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洋風画と泥絵 異国文化から生れた「工芸的絵画」

会期:2020/06/09~2020/09/06

日本民藝館[東京都]

おもしろそうだな、いずれ行こうと思っていたら、来週から予約制になると聞いて早めに訪れる。初めはなぜ民藝館で洋風画を? と思ったが、創設者の柳宗悦は江戸時代の洋風画を「工芸的絵画」と呼び、民画に位置づけて収集したという。確かに舶来の異国風物を描いた洋風画には作者名がなく、工夫を凝らしてはいるものの妙な芸術的作為は感じられず、長崎港から得た西洋版画の模写を通じて、遠近法や陰影法を見よう見まねで学んだ成果が愚直に表われている。

ひとくちに洋風画といってもいろいろあって、技法別に見ると、ガラスの裏面に油性顔料で描いたガラス絵、安い顔料を使った泥絵、レンズと鏡越しに見ることで遠近感を強調する眼鏡絵など。モチーフ別だと、長崎港に停泊する外国船を描いた《阿蘭陀船図・唐船図》や《長崎港図》、オランダ人を描いた《紅毛人図》、外国の風景を想像で描いた《異国風景図》などがある。特に数が多い名所を描いた泥絵などは、土産物として安く売られていたらしい。そんなわけで柳が「民画」として位置づけるまで、芸術としての価値を認められず、絵画史からも取り残されていたのだ。レベルは違うけど、遠近法を強調してヴェネツィアの街並を描いたカナレットのヴェドゥータ(都市景観図)を思い出した。

2020/07/15(水)(村田真)

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ウンゲツィーファ『一角の角(すみ)』

会期:2020/07/15~2020/07/19

吉祥寺シアター[東京都]

『一角の角』(作・演出:本橋龍)はウンゲツィーファによる「連ドラ演劇」。新型コロナウイルスの影響で休館していた吉祥寺シアターの再開後、最初の企画として7月15日から19日まで1日1シーンずつ制作、その成果を毎日20時からライブ配信したものだ。

劇場に観客を入れないという条件を逆手に取り、吉祥寺シアターのさまざまな場所に配置された舞台美術が劇場内部に「街」をつくり出す。俳優たち自ら撮影者となりひとつのカメラを手渡していくことで、1日1カット1シーンの映像作品は紡がれていく(映像:和久井幸一)。登場するのはコウモリ(豊島晴香)、タヌキ(畦道きてれつ)、イヌ(石指拓朗)、ネコ(近藤強、黒澤多生、星美里)、ハト(松井文)、そしてヒト(西留翼)。各話の冒頭とラストには宇宙人(?)らしきものも映し出され、1カットのなかにさまざまな生物の視点が混在する。それは自らとは異なる複数の視点から世界を捉え直す試みであり、そうできたらいいのにという願いのようでもある。他者の視点は誰か/何かを「演じる」ために必要な能力でもあるだろう。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

劇場のなかに出現した、動物たちの生きる「街」。それを構成する舞台美術は作品参加メンバーが持ち寄ったモノらしい。劇場に「外」が持ち込まれ、内と外とが反転する。劇場は宇宙の缶詰か。しかし考えてみれば「街」も「劇場」もヒトの設けた勝手な区分に過ぎない。動物たちは「森」と同じように「街」や「劇場」にテリトリーを広げもするだろう。ヒトにとって舞台の上はどこにでもな(れ)る空間だが、動物にとってのそこはほかの空間とことさらに区別されるような場所ではない。棲みやすさの程度の差だけがそこにはあり、ある種の動物にとって劇場は比較的棲みやすい場所ですらあるかもしれない。だから、ヒトがいなくなった後の劇場に動物が棲みつくというのは十分にあり得る話だ。『一角の角』で映し出される吉祥寺シアターはヒト不在の劇場の、現実にあり得る姿なのだ。

[撮影:上原愛]

『一角の角』の配信と同じ時期、無観客の劇場そのものを「舞台」とした上演の映像がほかにもいくつか配信されていた。それらを観た私が改めて感じたのは劇場という場所の特別さと、そこで演劇ができる/観られることへの悦びや感謝だった。『一角の角』の感触はそれらと異なっている。この作品でもっとも長く映し出されるのは劇場のロビーだ。舞台や客席といった劇場らしい場所は僅かな時間しか映し出されない。『一角の角』は劇場を劇場という機能を持つ場所としてではなく、単にそのようなかたちの、あるいは劇場としての機能を失ってしまった空間として映し出しているようですらある。今回のコロナ禍で多くの演劇関係者は劇場という場所の抱える脆弱性を痛感することになった。だが、そもそもウンゲツィーファ/本橋はこれまでもほとんどの作品をギャラリーや自宅などの非劇場空間で上演してきたのだった。だから、たとえすべての「劇場」という場所がなくなってしまったとしても、「劇場」に集まるという演劇の「かたち」が失われてしまったとしても「野生の演劇」は強かに生き残るだろう。

『一角の角』は和久井による編集と映像の追加を経た有料版が8月7日から配信される予定だ。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

公式サイト:https://ungeziefer.site/


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2020/07/15(水)(山﨑健太)

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