artscapeレビュー
2011年03月01日号のレビュー/プレビュー
松田啓佑 個展 WORDS LIE II
会期:2011/02/04~2011/02/27
eN arts[京都府]
私が松田の作品を知ったのは、2009年の「京都市立芸術大学作品展」だった。その時の正直な感想は“巨大なウンコ”。今までの批評軸が通用しない別世界から現われたかのような作品を前に、ただただ当惑したことを覚えている。2年ぶりに見た彼の作品は、相変わらず強烈だった。それは何かと問われても、今の私には答えるすべがない。しかし、作品が放つ野太い存在感が代替不可能なものであることだけは確かである。
2011/02/04(金)(小吹隆文)
「日本画」の前衛 1938-1949
会期:2011/01/08~2011/02/13
東京国立近代美術館[東京都]
前衛とは何か? 平たく言えば、それはジタバタすることではなかったか。1938年の歴程美術協会から1949年のパンリアルまで、日本画の前衛を集めた展覧会で、思い至ったのはこの点だ。丸木位里や山岡良文、船田玉樹などによる日本画は、花鳥風月に終始する日本画とは対照的に、シュルレアリスムの要素を取り入れたり、構成主義的だったり、たしかに前衛的には見える。けれども、しょせん「日本画」や「美術」という既成の枠内で標榜された前衛だったことを思えば、その実態はたかが知れているし、肝心の絵も、前衛的ではあっても、それ以上でも以下でもない代物が多い。そうしたなか、唯一眼を惹いたのは、山崎隆。戦時中の茫漠とした大陸の地平線を描いた大作から構成主義的な画面まで、その画業は幅広く、戦後になるとさらにシュルレアリスムに展開していく。手広く器用に手がけたと思えなくもないが、右往左往して何かをまさぐり続けているようにも見える。唯一無二の画風を確立してよしとするのではなく、たえず自己否定を繰り返しながら前進していく、まことの前衛の姿を見たような気がした。
2011/02/04(金)(福住廉)
八木マリヨ展 縄の森をくぐりぬけると…
会期:2011/01/14~2011/03/10
GALLERY A4[東京都]
会場にあるのは、縄である。八木マリヨは徹底して縄の作品を制作するアーティストで、巨大な縄を空間に配置したインスタレーションにしろ、観客参加型のプロジェクトにしろ、表現形式は異なるものの、主題が縄から離れることはない。縄といえば自然環境や原始社会、あるいは縄文的なものを連想するが、八木の作品には岡本太郎のそれ以上に縄文的なものが強く立ち現われているように見える。太郎の縄文論は思想としては強かったが、それが必ずしも作品と対応していなかったところが弱みである。大衆的な人気とは裏腹に、太郎の絵画はまったくチンケでつまらない。けれども、作品がダメだからといって思想も退ける必要はない。太郎の縄文論をマリヨの作品で甦らせてしまえばよいのだ。これからの時代を生き抜くヒントがあるとすれば、それは太郎を再び呼び出して消費することにあるのではなく、そうした、ある意味で節操のない異種混交にあるのではないか。
2011/02/04(金)(福住廉)
マイセン磁器の300年──壮大なる創造と進化
会期:2011/01/08~2011/03/06
サントリー美術館[東京都]
2010年に開窯300周年を迎えたドイツのマイセン磁器製作所の歴史を約160点の作品により辿る展覧会。時代順に5つの章にわけられて作品が展示されており、各章に時代背景についての解説があるため、たとえ陶器に関心がなくとも文化史として十分に楽しめる。その点で興味深かったのは、やはり西洋磁器の最高峰としてのマイセンの地位を不動のものにした第1、2章の時代の展示だろうか。
第1章では、まず17世紀から続くヨーロッパの王侯貴族の東洋磁器収集の背景が語られる。熱狂的な収集家であったザクセン選帝侯アウグスト強王(1670-1733)が、錬金術師ベトガー(1682-1719)を幽閉してまで硬質磁器の解明を渇望したという史実は、のちの西洋近代主義の精神を予見するものだろう。実際、ヨーロッパ初の硬質磁器の誕生には、哲学者・数学者・科学者チルンハウス(1651-1708)の貢献もあった。展示作品は、赤い「ベトガー 器」に始まり、ドレスデン近郊で発見されたカオリンを用いた白磁の作品がそれに続く。この白磁は東洋の青味がかった磁器よりも白く、この白さは西洋磁器を特徴づける要素となる。続いて絵付師ヘロルト(1696-1775)によるシノワズリ(中国風)などの華麗な作品が登場する。愛らしい絵付けは今日のマイセン磁器にも受け継がれている。
第2章では、バロックとロココの時代に特有な文化であった「メナージュリ(宮廷動物園)」の発想を中心とした展示内容となる。アウグスト強王は、東洋の品やマイセン磁器で埋め尽くした「日本宮」の造営を計画し、その大広間に磁器の動物によるメナージュリをつくることを夢みた。計画は王の死により挫折したが、この時期、彫刻家ケンドラー(1706-1775)の原型になる動物彫刻が多数製作された。本章ではケンドラーの原型に基づき製造された代表作《コンゴウィンコ》(原型1732、製造1924-1932頃)や、やはりケンドラーが得意としたフィギュリン(小立像)が出品されており、磁器による精緻な彫刻を可能にした当時のマイセンの抜きん出た技法は無論のこと、他国に比べて自然主義的傾向が強かったドイツ・ロココの特徴も伝えてくれる。
第3章から第5章までは、19世紀の万国博覧会時代以降、アール・ヌーヴォー、アール・デコの時代を経て、現代のアーティスティックな作品に至るまでの作品が展示されており、おのおの当時のヨーロッパの流行を映し出している。もっとも、1960年に製作所内でアーティストたちにより結成された「芸術の発展をめざすグループ」の幻想的な作品群は、当時のポップの流行とは異質であるかもしれない。シュトラング(1936-)が1969年に原型・装飾を手がけた《真夏の夜の夢》とツェプナー(1931-)の1974年の原型による《アラビアン・ナイト花瓶》が放つ奇妙なエキゾチックさは、社会主義体制という状況があってこそ生まれたものなのか、あるいはそれとはまったく無関係なのか。もし解説パネルにそのような背景との関わりが記してあれば、不勉強の身にはありがたかった。同時にまた、東西の壁が崩壊して20年を過ぎたいま、19世紀以降のマイセンの展開に関してはさらなる研究が求められる時期に来ているのだろうと思った。[橋本啓子]
2011/02/04(金)(SYNK)
金魚(鈴木ユキオ)『HEAR』
会期:2011/02/04~2011/02/06
青山円形劇場[東京都]
アンビヴァレンスの内にダンスは存在する。「特定のなにか」として同定する固定観念をすり抜け、同定したい/同定されたい欲求をかすめ通りつつ、その欲求を不断にはぐらかす。そこにダンスは棲んでいる。空間化にも、時間化にも、言語化にも抵抗して、それでいて空間と時間のなかに存在し、言葉に結晶化したい欲求をかきたてる。これは、ぼくがダンスへ差し向けるひとつの思想(あるいは偏見)である。アンビヴァレンスの躍動を期待せずにはいられない日本の若手振付家・ダンサーの一人に鈴木ユキオがいる。足を運んだのはそれを期待したから。帰り道、思いがけず、共作という形式の難しさに心が囚われてしまった。アニメーションに辻直之、音楽に内橋和久を招いた今作は、共作という点にかなりの比重があったようだ。普段は別々に活動する作家たちが集まり、重なりうるところを模索し合ったに違いない。しかし、観客の欲望はかならずしも「重なること」にはない。そうした意識のずれに遭遇するたび、ぼくは戸惑ってしまう。上演で印象的だったのは「分身」「影」といった要素。衣装もそうだが身長も髪型もそっくりな安次嶺菜緒と福留麻里は、互いが互いの分身のようだ。白いシャツに黒いパンツの姿の鈴木に対して、似たような衣装の若い男性ダンサー二人も分身的な存在。鈴木ユキオの身体が圧倒的に魅力的である分、二人の若い男性ダンサーたちは鈴木をなぞる存在に見えてしまい、もどかしい。安次嶺のダンスはやや演劇的な記号化を身体に許して、ダンスの危うさを身体に引き寄せない。終幕の手前で、鈴木の胸の上に辻のアニメーションが映される。機械のごとき臓器が運動する映像は、身体の内側がむき出しにされているようではっとなる。踊る身体はスクリーンとなって映像の臓器に重なろうとする。アニメーションとダンスの関係が互いに対してとても誠実で真摯だ。そうした姿勢がまとまりある舞台を成就させているのは間違いない。その分、ぼくが見たかったアンビヴァレンスはぼやけてゆく。舞台奥のスクリーンに映る文章がスクロールしている。その一部(単語)をぱっと捕まえるみたいに、もうひとつのスクリーンとなる白い風船を女性ダンサー二人が何度も掲げた。そのたびに風船に文字が浮かぶ。文字とともににじみ出てくるのは重ねようと努める誠実さ。そうした姿勢を素直に評価できないぼくはひねくれ者なのかもしれない。けれども、そうだとしても、ぼくは躍動的なアンビヴァレンスの味方でいたいと思ってしまった。
2011/02/04(金)(木村覚)