artscapeレビュー

2011年03月01日号のレビュー/プレビュー

隠れマウンテン&ヴォルカノイズ Vol.1

会期:2010/11/18~2011/02/20

VOLCANOISE[東京都]

鴻池朋子の未公開ドローイングを見せる展覧会。わりと底の深いケースに一枚ずつ入れたドローイングを壁や床に並べ、空間の中央に敷かれた畳の上で、来場者に作品についての会話を促す設定だ。大半は鉛筆で描かれたものだが、大作のためのラフドローイングから、それ自体で非常に完成度の高いエスキースまで、一口にドローインクといえども、その絵の幅は広い。一つひとつを丁寧に見ていくと、制作の過程を目撃できることはもちろん、新たな発見もあって、かなりおもしろい。《みみお》の原型となった初期のドローイングに見られる柔らかい描線は手塚治虫を彷彿させるし、《ナイファーライフ》の当初の構図は青木繁の《海の幸》のようだ。しかも後者の余白には鴻池による手書きの文字が残されているから、それらを目の当たりにすると、まるで鴻池の脳内活動を追跡するかのような錯覚を起こし、スリルと気恥ずかしさがないまぜになった不思議な感覚に陥る。アーティストにとって素描や習作は進んで見せるものではないのかもしれないが、鑑賞者にとってはもっともっと見たくなるものである。ただ、そこでとどまっていてはもったいない。そこからどんな言葉を紡ぎ出すことができるのか。鴻池朋子にかぎらず、アートを楽しむ醍醐味と難しさは、きっとここにある。

2011/02/20(日)(福住廉)

シー・シー・ポップ『TESTAMENT(遺言/誓約)』

会期:2011/02/19~2011/02/20

神奈川芸術劇場[神奈川県]

題材はシェイクスピアの『リア王』。ただし、戯曲をそのまま上演するのではなく、リハーサルの光景が再現されなどしながら「演劇をめぐる演劇」が舞台で展開される。しかもたんにメタ演劇というだけではない。本上演の肝は、三人の娘たちに領土を譲り渡す王の物語を演じるのが、戯曲の役柄と似た境遇にある本物の親子だということで、まず思ったのは、役者と役柄の反省的な関係が仕掛けとしてうまいな、ということだった。リタイア族の父親三人は舞台脇のソファーに鎮座し、ムービーカメラが彼らをとらえると肖像画のようなイメージを舞台奥に映す。その前で、若者たち(といっても外見からして30代)四人はスタンドマイク越しに父親への積年の不満を噴出させ、戯曲と絡めながら相続と介護をめぐる不安と恐れを代わる代わる口にしてゆく。元の戯曲にあるはずの劇的カタルシスは消失し、演劇(ドラマ)は生々しい現実の生活(リアル・ストーリー)へ引きずり込まれてゆく。ドイツの劇団シー・シー・ポップは、こうして今日の日本でも盛んに論じられている世代間格差の問題を照らし出す。ドイツも日本と同様に世代間の(とくに経済的)格差ははなはだしいようだ。ジェンダーに関する見識の違いにもしばしば話題がおよぶ。本物の親子はもちろん世代の異なる役者たちが舞台をつくるなんて、日本ではなかなか見られない光景である(チェルフィッチュの役者山縣太一が家族と組む山縣家は希有な例だろう)。さいたまゴールド・シアターとチェルフィッチュが共作するのを想像してみても異様だが、さらにその二組が肉親なのだ。相続と介護の現実に向き合う親子の思いはずれ、そのこっけいさは笑いを誘うが、状況はシビア。やがて父親たちは衣服を脱がされ(それにしても、なぜヨーロッパの舞台表現では「裸になること」がかくも重要な表現行為になっているのだろう)、老いたからだを観客にさらし、しまいには棺桶に入れられる。「きついな」と思わされるが、深刻な決裂へ至ることなく、最終的に親子は互いに許しの言葉を交わすことになる。この流れに寄与した最大の調停役は歌で、一緒に歌うことを通して親子はかりそめの和解に達する。そうして現実の生活はミュージカルの様相を呈し、舞台はハッピーエンドを迎えるのだが、それが可能なのは、裕福なヨーロッパの国の家族だからであろうし、なかでも中流以上の家庭の話だからだろう。この舞台が他の国の家族によって上演されたらこうはいかないはずだと思うと、それが可能なドイツという国がひとつのローカルとして浮かび上がってもくる。ちなみに本作は、世界の演劇シーンを紹介するイベント「世界の小劇場 Vol. 1 ドイツ編」の一本である。

2011/02/20(日)(木村覚)

岡崎藝術座『街などない』

会期:2011/02/13~2011/02/20

のげシャーレ[神奈川県]

神里雄大の芝居は乱暴な印象を与える。緻密に、丁寧にしつらえられた、美しいとさえ思わせる、“乱暴さ”。それは、例えば、四人の女の子(20代半ばに見える)が横に並んで延々とおしゃべりするのだけれど、その内容がセックスであるといったところに示される。役者たちのルックスはみな普通というよりも地味めで、なのに彼女たちが連呼する言葉は「セックス」。男と同棲する二人に対し、一人が執拗に回数とか快楽のありようについて問いかける。「セックス」の言葉が空間に響くたび、その発話行為が異物のように空間に漂う。観客の心情がかすかに揺れる(具体的には失笑があちこちで漏れる)。役者に言わせている演出家の悪意さえ感じ、あらためて役者に注目すると、カラフルなサテン地の衣装は異国の女性たちのコスプレのようで、シンプルな舞台(というよりもスタジオ)の空間にそぐわない。乱暴さはちぐはぐさである。黙って三人の会話を聞いていた一人が突然処女であると告白すると、場面は急にその一人のセックスシーンへころがった。突然ペーストされた処女喪失の場面、処女が王に変身すると、さらにその上に、娘たち三人に領土を譲り渡す『リア王』の物語がこれまた突然ペーストされた。こうしたあたりも乱暴だ。乱暴さは突然でもある。登場人物たちの振る舞いには、傲慢さ、ひとりよがり、他人の蔑視が見え隠れしていて、この芝居において乱暴さは他人への態度の核をかたちづくっている。いや、真に核となっているのは領土の問題であり、アイデンティティの問題だ。四人の名前「横子」「浜子」「川子」「崎子」は、劇場のある横浜を意識した名称であると同時に、その隣接地域との関係を示唆し、それぞれの街の内部にある小単位も暗示している。ときおり会話に出てくるエジプトのニュースの話題も、領土を区切る国という単位に対する疑問へ向けられている。“乱暴さ”はだから、自分の境遇に対するいらだち、自分への他人の不理解に対する、他人への自分の不理解に対するいらだちの表明でもある。その“乱暴さ”が美しく見えたのは一貫していたから。移動するときにかならず役者が横歩きなのはその一例で、それも「横浜」にちなんでのだじゃれらしい(一貫していると言えばこうしただじゃれが頻出することもそうだ)。露悪的にも見える振る舞いに頑固な姿勢が貫かれている。頑固さも“乱暴さ”のひとつだろう。それが徹底されていて、美しく見えたのだ。

2011/02/20(日)(木村覚)

プレビュー:大駱駝艦『灰の人』/「Action Sound Conflict」

二月は横浜でTPAMやWe Danceがあるなど公演が盛りだくさんで、あれもこれもと見られなかったものが続出しましたが、台風一過、三月は公演数で言えば穏やかです。一番の注目株は、大駱駝艦『灰の人』(2011年3月17日~21日@世田谷パブリックシアター)でしょう。本レビューで何度も取り上げてきたように、大駱駝艦の若手(と言ってもリーダー格のメンバーたちは中堅の貫禄と実績を有しています)による壺中天公演はいま見られる舞踏公演のなかでもっともキャッチーかつ今日的リアリティをおびたものだと言っても過言ではないでしょう。彼らのボスである麿赤児が中心となって上演される本作は、きっと麿と若手(中堅)のあいだでの緊張感みなぎる舞台を生み出してくれることでしょう、ぼくはそこに期待をかけています。ほかにはイベントですが「Action, Sound, Conflict」(2011年3月21日@六本木Super Deluxe)も要注目。大橋可也&ダンサーズがアグレッシヴなバンド・空間現代と組んで新たな一面を見せてくれることでしょう。それにゲストがすごい。ECD、OFFSEASON(伊東篤宏+HIKO+黒パイプスターダスト)はもちろんのこと、若手劇団注目株のロロ、小林耕平とのセッションでも話題のバンドcore of bellsが出演となれば、見過ごすわけにはいきません。

2011/02/28(月)(木村覚)

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