artscapeレビュー

2011年03月01日号のレビュー/プレビュー

豊富春菜 展 drops

会期:2011/02/05~2011/03/05

ギャラリーノマル[大阪府]

約7年ぶりの個展となった本展。以前の作品は、写真に大胆なトリミングやコラージュを施すことでイメージの意味を解体するものだったが、新作は、階調を粗くした写真をトレースし、線に沿って樹脂を垂らした平面作品へと変化を遂げていた。半透明の樹脂がつくり出す光に満ちた世界は、たいへん美しい。特に、樹木をモチーフにした2点の大作に魅了された。アートフェアなど多数の目に触れる機会を得れば、たちまち注目を集めるのではなかろうか。今後の活動ペースにもよるが、大きな飛躍が期待できる。

2011/02/05(土)(小吹隆文)

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」(オープニングトークと特別シンポジウム)

会期:2011/02/02~2011/05/08

オープニングトーク:21_21 DESIGN SITE、特別シンポジウム:東京ミッドタウンホール[東京都]

東京の「21_21 DESIGN SITE」で開催中の「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」の関連企画として、ふたつのトーク・イベントが実施された。筆者は本展図録に関わった者としてトークを聴講したため、その一端をレポートしておきたい。
 第1回目として、2月5日にバルバラ・ラディーチェ・ソットサス氏(以下、ラディーチェ氏とする)と佐藤和子氏によるトークが行なわれた。ラディーチェ氏は30年以上にわたりエットレ・ソットサス(1917-2007)のパートナーであったライターであり、佐藤氏は1960年代からミラノを拠点として活動するジャーナリストである。
 トークは、ラディーチェ氏による講演「ソットサスの生きた時代とデザイン」を中心に構成され、ソットサスの仕事がスライドで多数紹介されたが、なかでも印象深かったのは、1970年代以降のラディカルなプロジェクトだ。彼は、1976年にハンス・ホラインがキュレイターを務めた「変容する人類」展(ニューヨーク、クーパー=ヒューイット美術館)に、「人間の権利のためのデザイン」などの写真連作を出品した。これは、山や海辺などの野外に家具などを置いた光景をモノクロ写真で撮り、それを「あなたは芝生の上で寝たいか、それともベッドの上で?」といった警句とともに展示した作品である。その後、1970年代末にはアレッサンドロ・メンディーニらと「アルキミア」に参加。しかし、すぐに袂をわかち、1981年に「メンフィス」を結成する。理由のひとつはソットサスが、プロトタイプを志向したメンディーニとは異なり、デザインとは製造可能なもの、肯定的・楽観的なものであるべきと考えたためだという。1980年代末には広範なテーマを扱った雑誌『Terrazzo』を刊行した。ラディーチェ氏によれば、ソットサスは「デザインのフォルムは機能だけでなく、感情でもある」と語り、「感覚作用はコミュニケーションの手段」「デザインは幸運をもたらすものであるべき」と述べていた。筆者にとってソットサスの作品はモダニズムに対する過激かつ知的な攻撃という印象があったのだが、講演を聞いて、そのような表層的理解では遠く及ばない、人間に対する愛のようなものが彼の作品の底流にあることを知った思いがした。
 第2回目は、2月11日に建築家・磯崎新氏を招いて特別シンポジウムが催された。初めに磯崎氏による「post festum──エットレ/シローの1975年」と題された講演が行なわれ、次に公募で選ばれた30代のデザイナーやプロデューサーら5名と磯崎氏によるシンポジウムが短時間ながら行なわれた。
 「post festum」とは元来、精神病理学の用語で「祭りの後に」生じる気分を意味し、ここでは1960年代のラディカルな動きの後、日本でいえば、1970年の万博後の喪失感に例えられる。講演ではこの観点からソットサスと倉俣の仕事が分析され、磯崎氏が採り上げたのもまた、1976年のホライン企画の展覧会にソットサスが出品した写真連作だった。氏によれば、同連作は人間が自然においてどこからデザインし始めるかという、デザインに対する疑いを表現しており、新たなデザインの背後にあるものを詩的に表わしたものだという。倉俣史朗(1934-1991)の仕事でクローズアップされたのは、磯崎氏が企画し、1978年に開催された「間」展(パリ、装飾美術館)の出品作《橋》である。板ガラスを重ねたのみの同作品は、氏の解釈では、「橋」や「端」と読み替えられる「はし」、すなわち、世界の境目や繋ぎ目という、空間で線が発生するものの意味をぎりぎりのところで表現している。つまり、お祭り騒ぎの後にソットサスや倉俣が向かったのは、デザインをこれ以上削ぎ落せない状態にまで追い詰めることだった。だが、シンポジウムで磯崎氏が若者たちに語ったのは、単に先人の教えに学べということではない。氏が温かな口調で語ったのは、技術も社会も以前と異なる現代においては、70年代とは問いややり方も異なるのであり、新世代に託された課題とは、自ら新しい問いややり方を開発することなのである。それは難題極まりないが、少なくとも新しい世代が、例えば思いつきでデザインする前に、ソットサスや倉俣、磯崎氏と同様の真摯な態度を今一度デザインに対して持とうとすることは必要だろう。バルバラ氏も磯崎氏もそれを心からの言葉を以て示してくれたのである。[橋本啓子]

2011/02/05(土)(SYNK)

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チャンキー松本 おいてけぼりの町

会期:2011/02/07~2011/02/20

ギャラリー月夜と少年[大阪府]

彼が近年精力的に取り組んできた貼り絵のシリーズを中心に、ドローイング作品も併せて出品。貼り絵は手でラフに裂いた紙を貼り付けたもので、水平線を強調した風景画が多い。絵柄は作者の心象を反映しており、メランコリックな風合いが持ち味だ。また、作品は1点ずつポートフォリオ仕立てになっており、観客は作品を手に取り、一対一で向き合うことになる。それはまるで作家の独白を聞いているような感覚で、額装された作品を見るのとは全然違う濃密な体験だった。この展示方法こそが本展のキモである。

2011/02/07(月)(小吹隆文)

平成22年度(第14回)文化庁メディア芸術祭

会期:2011/02/02~2011/02/13

国立新美術館[東京都]

デジタル技術が映像文化を著しく成長させている一方、私たちの感性は依然としてアナクロニズムにとどまっているのではないだろうか。映像は日進月歩で進歩するが、それを映す眼球が追いつけないといってもいい。テクノロジーの進歩によって身体感覚を思いのままに拡張させることが容易になった反面、かえって肉体の物質性が際立ち、その不自由なリアリティの求心力が強まるという逆説。現在の映像表現が直面しているのは、このパラドクスにほかならない。今回のメディア芸術祭でいえば、Google earthやインターネットの情報セキュリティを主題とした作品がおもしろくないわけでないが、どうも理屈が先行している印象が否めず、眼で楽しむことができない。むしろ、素直に楽しめるのはサカナクションのミュージック・ビデオ《アルクアラウンド》。関和亮監督によるワンカメラ・ワンカットで撮影された映像は、CGを一切用いることない愚直なアナクロニズムに徹しているが、楽曲の進行にあわせて移動する画面に歌詞を視覚化したタイポグラフィーが次々と現れる仕掛けがたいへん小気味よい。ある一点によってはじめて文字が成立して見えるという点では、ジョルジュ・ルースを動画に発展させた作品といえるかもしれない。

2011/02/07(月)(福住廉)

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マームとジプシー『コドモもももも、森んなか』

会期:2011/02/01~2011/02/07

STスポット[神奈川県]

アングルを変えながら同じ場面を執拗に繰り返す独特の方法は、すでに前作『ハロースクール、バイバイ』でもその機能や魅力を感じてはいたものであり、一年振りに同名作を再演した今作でもおおいに堪能できた。妊婦の女性以外は、十人ほどの小学生たちが織りなす心模様。母も父もいない三人姉妹を中心に一週間の出来事のいくつかが、何度も繰り返される。思わず漏れた一言で絶交状態になってしまう場面や、三女の幼稚園児がいなくなる直前の友達とプールの準備をしている場面など、どの瞬間にも、小さな後悔ややるせない思いが詰まっている。「リプレイ」と称したくなるほどそっくりそのまま繰り返す方法は、映像的だと言えなくもない。全員が猛烈に早口なのも、「早送り」のようではある。けれども、だからと言って、この舞台を映像化することは無意味ではないかとも思わされる。登場人物が目の前に実際に存在している演劇だからこそ、反復された場面に、観客は登場人物と一緒に経験した一回目を“思い出”として想起しながら見てしまう、そこがなにより重要だと思わされたからだ。この“思い出”は、ある場面を通して観客が自分の個人的な思い出を想起しているという意味ではないし、たんに隠喩として一回目を“思い出”と便宜的に呼んでいるということでもない。本当に“思い出”という他に形容のできない感覚を、場面の反復を通して、観客は手にしてしまう。演劇内でのみ成立している“思い出”が観客の内に育まれ、それは「懐かしさ」さえ抱かせる力を有している。観客はここで「登場人物たちの友達」に類する役割を担ってしまうのかもしれない。マームとジプシーは「人間の記憶の機能」を演劇化したという以上に「演劇内にしか成立しえない思い出」を発明した、そう言うほうがより正確だろう。それが可能なのは、先述したように、恐ろしいほどに正確な「リプレイ」の演技にほかならない。ほとんど「フォーム」と化している個々の演技の自然さは、各登場人物があたかも目前に実在しているかのような錯覚を与えることに成功している。とりわけすばらしかったのは三女「もも」の演技で、こんな(やはり身長などから大人の俳優であることは自明なのだから)幼稚園児がいないのは理性ではわかってはいるのだが、催眠術にかかったように上演中「もも」の実在を疑わなくなってしまうほどだった。

2011/02/07(月)(木村覚)

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