artscapeレビュー

2011年03月01日号のレビュー/プレビュー

手の中の世相──マッチラベルコレクション展

会期:2011/01/24~2011/02/24

京都工芸繊維大学 美術工芸資料館[京都府]

こぢんまりとした展示場にレトロなマッチ箱がいっぱい。レトロと思ったのは「マッチ」そのものに対する印象かもしれない。いまではあまり使わなくなったマッチだが、かつては日常生活に欠かせない必需品であったし、喫茶店や居酒屋、旅館などには、必ずと言っていいほどその店の名前を入れたマッチが置いてあった。マッチ箱は間違いなく小さな広告塔であり、デザインの実験場であった。客の記憶に残る、印象的な絵柄や字体を考案するだけでなく、手のひらよりも小さいマッチ箱の表面にそれらを施す工夫も必要だったからだ。実際、展示のなかでも同じ広告(デザイン)がポスターになった場合と、マッチ箱に施された場合を比較している。興味深い。時代の最先端をゆく斬新なデザインと技術、一方で、定番化した古典的なデザインも多いのがマッチ箱のラベル。無料で配るものだから、安価につくる必要があったからだ。同じ型をつかって、色だけを変えるといった具合だ。並べてみると結構面白い。普通なら使い捨てられるマッチ箱、そこには時代の世相や風俗、さらにはデザインにおけるさまざまな工夫が凝縮されており、デザイン史を振り返る上で貴重な資料となる。[金相美]

2011/02/12(土)(SYNK)

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アート・アクアリウム展

会期:2011/01/29~2011/02/14

大丸ミュージアムKOBE[兵庫県]

暗闇のなか、さまざまなガラス水槽に入った金魚が、鮮やかな色彩でライトアップされて浮かび上がる。アクアリスト・木村英智氏は、ガラス水槽だけでなく色と光の演出によって、アクアリウムを人間の住環境へ拡張するアート空間へと仕立て上げた。それは、見慣れた水族館の展示とはかけ離れた、過剰に人工的な空間である。水族館での展示は、生態展示や行動展示といったかたちで、生物を自然に近い状態で見せる。つまり、海・川の水中環境を再現した空間演出がなされる。しかし「アート・アクアリウム展」では、和をモチーフに、花魁をイメージした巨大な金魚鉢・模様の浮き出た行燈・額縁・花瓶など多様な形をしたカラフルな水槽の中で、金魚が群れ泳ぐ。それというのも、金魚が天然には存在しない、愛玩用に作りだされた生物であるという「人工性」が基本コンセプトになっているからだろう。同展では、金魚はもはや生き物というよりも、和物の生活道具に見立てられた水槽とともにある、インテリア・デザインの一部なのだ。会場にいると、昔懐かしい風情漂う金魚鉢が恋しくもなったが、最後の展示《ビョウブリウム(屏風水槽)》には眼が吸い寄せられた。屏風型の水槽に投影された水墨画のような映像が時間と共に変化し、赤と黒の金魚が点景となって浮遊する。ここには、複合現実の空間、時間と運動を導入したアート作品が出来上がっていた。[竹内有子]

2011/02/12(土)(SYNK)

池田高広 展─Wonderful Choco─

会期:2011/02/14~2011/02/19

番画廊[大阪府]

ココアパウダーやチョコレートをインクに溶かして、特異な版画作品を制作している池田高広。今回は版画だけでなく、絵画や陶芸にも挑戦し、その方法論をより進化させていた。特に絵画の出来は良く、とても初出品とは思えないほど。作品の特徴を考慮すれば異業種とのコラボレーションも不可能ではなく、制作ジャンルを拡張したことも相まって、今後の展開に期待が持てる。

2011/02/14(月)(小吹隆文)

愛する人

会期:2011/01/15~2011/02/25

TOHOシネマズシャンテ[東京都]

「孤独と悔恨」。誰もが生きていくうえで必ず身につまされる厄介な代物だ。それらを克服するには「忘れる」か「強がる」か、あるいは「祈る」ことなどが考えられるが、どうあがいたところで「なかった」ことになるわけではないから、どっちにしろ人はそれらを心の底に折り畳みながら何とかやっていくしかない。この映画は、若くして産み落とした娘を養子に出してしまった悔恨にいまも苛まれる母と、その母に捨てられた孤独を胸に秘めて強くたくましく生きてきた娘が、30数年の後、それぞれのやり方で互いを探し出そうとする物語。両者の物語とは別に、もうひとつの物語を同時に描きながら、それらを一気にまとめあげていく脚本がよくできているし、何よりアネット・ベニングとナオミ・ワッツの演技がとてつもなくすばらしい。物語の設定から言えば、たしかに特殊な条件における悲劇なのかもしれない。けれども、この映画の醍醐味が私たち凡庸な観覧者のもとにしっかり届くのは、悲惨な境遇を哀れむ同情に由来しているからではなく、この母娘を演じた2人がともに不器用な人間、いや正確に言い換えれば、人間の不器用さを見事に体現しているからだろう。孤独と悔恨に苛まれる人は、他者との適度な距離を保つために身の回りに壁を打ち立てるほかない。そうやって囲い込んで孤独と悔恨を飼い慣らさなければ、自分が内側から食い破られてしまうからだ。自分で自分の首を絞めるかのような不器用さには、きっと誰もが思い当たる節があるにちがいない。

2011/02/14(月)(福住廉)

20世紀のポスター[タイポグラフィ]──デザインのちから・文字のちから

会期:2011/01/29~2011/03/27

東京都庭園美術館[東京都]

株式会社竹尾が蒐集したポスターコレクション約3,200点のなかからタイポグラフィを扱ったもの113点を選び、展示するもの。展示は1900年代から1990年代までを、おもに「印刷技術」と「表現様式」によって4つの時代に区分し、多様なタイポグラフィとその表現の変化を追う。
出品されている作品を見てゆくと、公共団体による啓蒙活動や、デザイン団体の展覧会告知が多いことに気がつくだろう。企業のものであっても商品ではなく、イメージ広告が中心である。とくにテキスト中心のポスターにその傾向が強い。この展覧会のために選ばれたポスターがどれほど時代を代表するのかわからないが、そこからは「タイポグラフィを主体とするポスターは、モノを売るためには適していないのか」という疑問が生じる。
図録に収録されている西村美香氏の論考が、この疑問の一端を明らかにしてくれる。たとえば、本展にも出品されている亀倉雄策「ニコンSPポスター」(1957年)は、「クライアントで日本光学がついているものの広告宣伝用というよりも展示会の商品のバックを飾る壁面装飾用であって、もともとは日宣美展出品作品でデザインが先行する実験的作品であった」のである。西村氏は「今日、50年代60年代を代表する日本のポスターとして紹介されているものにはこうしたクライアントのないノンコミッションのものがずいぶんとある」とし、「クライアントもなく大衆に支持もされていないポスターが本当に優れたデザインなのであろうか」と疑問を呈する。はたして、タイポグラフィの試みはどれほど大衆に影響を与え得たのか。どれほどクライアントの要求に応え得たのか。表現に込められたデザイナーの思想、理想は十分に理解できるが、作品への評価には現実社会との接点がよく見えない。同じことが今回の展示、セレクションの方針にも言える。
会場の展示解説はシンプルだが、図録はとても充実している。作品については、デザイナー/タイトル/内容/制作年/国/クライアント/サイズ/用紙(種類・斤量)/使用書体/印刷技法(+色数、線数)という情報まで記載されている。図録の後半がデザイン史研究者による関連研究に充てられているのも特筆される。また「あなたにとってタイポグラフィとは?」という質問に対し、12人のデザイナーがそれぞれ回答を寄せている。ポスター自体はほかでも見る機会があると思うが、図録はいまのうちに入手しておくべきだろう。[新川徳彦]

2011/02/15(火)(SYNK)

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