artscapeレビュー
2011年03月01日号のレビュー/プレビュー
横山裕一 展
hitoto[大阪府]
会期:2011/02/01~2011/02/14・19・20・26・27
イラスト、挿絵、漫画などで活躍する横山裕一のことは一応知っていたが、あくまで漫画をチラ見する程度。また、当方は関西在住なので先日終了した川崎市民ミュージアムでの個展やその評判も詳しく知らなかった。そんな状態で横山が大阪で個展を行なっていることを知り、とにかく実物を見ようと出かけた次第。展示していたのは、主に顔を描いたドローイング30数点だった。その特異なセンスは確かに窺い知れたが、私としては彩色したペインタリーな作品よりも、線だけで構成された作品に興味がある。もし次回があるなら、線画中心のセレクトをお願いしたい。
2011/02/08(火)(小吹隆文)
小林礫斎 手の平の中の美~技を極めた繊巧美術~
会期:2010/11/20~2011/02/27
たばこと塩の博物館[東京都]
これはすごい。いま超絶技巧という言葉は乱用されているきらいがあるが、それはこの人のためにこそ用いられるべきと誰もが思い改めるにちがいない。礫斎(れきさい・1884-1959)がつくり出したのは、文字どおり手のひらに収まる驚異のミニチュア。茶道具や香箪笥をはじめ、筆、箸、茶碗、火鉢、灰ならし、算盤、印鑑、パイプ、杖など、礫斎は日常的な実用品の数々を細部まで忠実に再現しながらサイズダウンしてみせた。この展覧会は繊細で巧みな造形物という意味で礫斎みずから命名したという「繊巧美術」と、礫斎を中心に極小の工芸品を集めた旧中田實コレクションの中から選りすぐりの逸品などをあわせて一挙に公開するもの。ガラスケースに入れられた極小の造形物を見入る来場者たちは、眼精疲労をもろともせずに驚愕の溜息をあちこちで漏らしていた。注目すべきは、礫斎がただひとりで制作していたわけではなく、礫斎を中心とした職人たちによる共同制作だったこと。それぞれの職人の固有名が溶け合うほど、強い共同性が結ばれていたらしい。しかも、その共同制作を繰り返していくうちに次第に極小への欲望が極限化していく様子がわかる展示になっているのが、おもしろい。百人一首をすべて並べた豆本や爪先にも満たないほどの独楽、当然指には入らない真珠指輪など、職人たちの関心が手のひらから指先へと先鋭化していくのだ。米粒に写経するのは、なんとかまだわかる。けれども、米の籾殻の中に大黒様と恵比寿様を彫り出した微細な象牙を収めた作品を目の当たりにすると、文字どおり開いた口がしばらくふさがらない。狂気と紙一重の創作だったからこそ、後世に残る美術となりえたのだろう。
2011/02/08(火)(福住廉)
ソウル・キッチン
会期:2011/01/22~2011/03/04
シネマライズ[東京都]
料理人のサクセス・ストーリーではない。何を隠そう、これはオルタナティヴ・スペースについての映画である。しかも、飛び切り上等な傑作だ。舞台はハンブルク。古い倉庫を自分たちで改築した大衆的なレストランが買収の危機に瀕するが、これを何とかして阻止するという物語の骨格はいたって単純明快。けれども、ここに保健所や税務署といった面倒な行政の問題や生々しい移民問題、そして弱みにつけこんでまで乗っ取りを図る貪欲な資本主義などが肉づけされることで物語の厚みが増し、さらに良質のソウル・ミュージックが次から次へと淀みなく流れてくるおかげで、映画の旨みがよりいっそう味わい深くなっている。美人で大酒呑みで画家志望のスクワッターや子持ちのバンドマン、さすらいの料理人、あこぎな不動産屋、恐るべき税務署員、そしてダメ兄貴など、それぞれキャラ立ちした登場人物たちもたまらない。まるで落語を聴いているかのような心地よさを覚える。人生において大切なのは、みんなで分け合える旨い料理とみんなで踊ることができるソウルフルな音楽、それらに欠かせない大量の酒、そして恋愛とセックス(さらに少々の媚薬とちょっとした違法行為)。ファティ・アキン監督がこの映画で描いているのは、それらを自分たちの手でなんとか確保しようと四苦八苦する人びとのありようである。だから、この映画を見ると、助成金をあてにしなくても、知恵を絞って力を集めてなんとかすれば、自分たちのオルタナティヴ・スペースを手にすることができるのではないかという元気がもらえるはずだ。ただし、注意しなければならないのは、この映画には美術が一切登場しないということ。音楽はあるが、絵画はないし、彫刻もない。映像すら出てこない。オルタナティヴ・スペースはアートを必要としているのだろうか。いや、もっと厳密に言えば、社会はアートを必要としているのだろうか。あるいはアートがなくても、人は幸福になれるのだろうか。これは、今も昔もさほど変わらない、つまり今も考えるに値する、根源的な問いである。
2011/02/08(火)(福住廉)
楳図かずお恐怖マンガ展 楳恐─うめこわ─
会期:2011/01/21~2011/02/14
PARCO FACTORY[東京都]
漫画家・楳図かずおの恐怖マンガを回顧した展覧会。「ねこ目の少女」や「猫目小僧」、そして「漂流教室」など、珠玉の名作をもとに展示を構成した。一枚一枚丁寧に描かれた絵の迫力が凄まじいのはもちろん、会場の照明を落としてペンライトの灯りを頼りに歩かせるという見せ方も、絵のおどろおどろしさに巧みに拍車をかけていた。けれども、その一方で「恐怖マンガ」という括りが気にならないではなかった。それが「ギャグマンガ」と相対させられていることはわかるにしても、ギャグマンガと恐怖マンガの明確な違いがよくわからないからだ。「まことちゃん」はたしかに抱腹絶倒のマンガだが、身の毛もよだつほど恐ろしい場面がないわけではないし、「漂流教室」をギャグマンガとして読むこともできなくはない。笑いと恐怖がじつは表裏一体の関係にあり、その薄い皮膜を爆笑と悲鳴で縦横無尽に切り裂いてきたのが、楳図かずおのマンガではなかったか。だからこそ、戦後マンガ史において楳図かずおは特殊な位置を占めているのである。
2011/02/08(火)(福住廉)
わくわくSHIBUYA
会期:2011/01/13~2011/02/13
トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]
未来美術家の遠藤一郎がコーディネートする「わくわくプロジェクト」の展覧会。トーキョーワンダーサイト渋谷の決してそれほど大きくない空間に、有象無象の表現者たちによる作品が文字どおり鮨詰め状態で展示された。壁面と床はもちろん、階段の途中やその手すりなど、見過ごされがちな空間の隙間まで存分に使い切るエネルギーは凄まじい。原色と安価な素材による作品が多いのは、「100均的」というか「ドンキ的」というか、いずれにせよいま現在の同時代的リアリティーを体現しているのだろう。それらを学園祭的な祝祭性によって一気に爆発させる狙いはわからないではない。けれども、その一方で、若干の物足りなさを覚えないでもない。「わくわくプロジェクト」が現代アートの底辺に仕掛けられた爆発だとすれば、もっとも肝心なのはその爆発によって生まれる新たな遠心力ではないか。「わくわくプロジェクト」の内部で安穏とするのではなく、外部へと躍り出ていくこと。これまでの充実した成果を踏まえれば、すでにその段階に進んでいておかしくはない。
2011/02/08(火)(福住廉)