2017年08月01日号
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artscapeレビュー

2015年11月15日号のレビュー/プレビュー

大坪晶写真展「Shadow in the House #01/#02」

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会期:2015/09/24~2015/09/30

大阪ニコンサロン[大阪府]

大坪晶の写真作品《Shadow in the House》シリーズは、時代の変遷に伴って多層的な記憶を持つ家の室内空間を被写体としている。本個展では、チェコ共和国プラハにあるべトナ・ホラー・インスティチュートと、奈良県大和郡山市にある旧川本邸を撮影したカラー写真十数点が展示された。
1928年に個人宅として建設されたべトナ・ホラー・インスティチュートは、第二次大戦中の軍事的占領、戦後の共産主義体制下における没収、政府から教会への貸与、体制崩壊後の遺族への返還を経て、現在は、元の所有者の孫娘が管理する公共施設となっている。また、大正時代に建設された旧川本邸は、1958年まで遊郭として使用され、風営法制定による廃業後は下宿として間貸しされた後、現在は町の保存団体が管理し、奈良芸術祭「はならぁと」の会場として活用されている。
光の差し込む障子、畳の間に設えられた屏風、壁紙が剥がれて剥き出しになった土壁。使い込まれた家具のある居間やキッチン。複数の写真に登場する男性の肖像画は、実体はなくともこの場を支配するかのような「かつての持ち主」の存在感を強く感じさせる。そこに折り重なるように写し込まれた影。よく見ると、ある時は壁の染みのように、ある時は家具が壁に擦れた跡のように、亡霊のような黒い影が画面に写り込んでいることに気がつく。かつて人がそこにいた痕跡が、見えない気配のように、あるかなきかの影となって空間を漂っているのだ。
《Shadow in the House》シリーズは、人々の生活の痕跡や記憶を内包した古い家のドキュメンタリーであるとともに、場に潜在する見えない記憶を「影」として可視化するという演出や操作を含んでもいる。そうした演出や操作に対して、「正しい」ドキュメンタリーを信奉する立場からの批判があるかもしれない。だが、大坪の写真は、写真の記録の「客観性」/イメージは常に操作可能であるという二律背反を引き受けながら、見知らぬ他者の記憶という、想起や共有が困難なものへと接近する回路を開こうとしている。その撮影行為は、建物の歴史的経緯や持ち主について遺族や関係者から聞いた話に支えられており、オーラル・ヒストリー的な側面を合わせ持つ。それはまた、 痕跡を写した写真/写真というメディウム自体が光の物理的痕跡であるという、写真と痕跡をめぐる視覚的考察となっている。

2015/09/30(水)(高嶋慈)

黄金町バザール2015

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会期:2015/10/01~2015/11/03

黄金町界隈[神奈川県]

公式参加のアーティストは日本を含めてアジア7カ国から14組。それぞれ黄金町に滞在して制作した新作を発表したが、はっきりいって今年は不作だ。というか、毎年豊作とはいいがたいけれど、それでも1点か2点は心に響く作品があって、それだけでも満足感があったのに、今年はそれがない。言い換えればみんな平均点なのだ。なぜか? 今年のテーマは「まちとともにあるアート」というミもフタもないベタなもの。その線でアーティストが選ばれ、選ばれたアーティストもその線で発想して制作するため、なんだか似たり寄ったりのヌルい作品ばかりになったんじゃないか。要するに「まち」という日常を突き抜けるダイナミズムに欠けていた。まちにとってはいいかもしれないが、アートとしてはおもしろくない。まあよくあることだ。そんななかで唯一逆のベクトルを見せていたのがメリノのテンペラ画だ。この油彩画より古い技法で、現実のまちとはなんら関わりのない浮世離れした幻想世界を築き上げた作品群は、黄金町バザールのなかでは明らかに浮いている。流行や同調圧力に屈しないこの揺るぎない孤高の姿勢こそアーティストの鑑、といっておこう。この14組の展示以外では、建築系による「まちプロジェクト」に注目。道路に面した1階フロア全体を巨大なバスタブにしてしまった一級建築士事務所中村建築や、幅1間、3階建てという極端なプロポーションのちょんの間を吹き抜けにして、垂直に細長いスタジオを実現した(どうやって使うんだ?)アイボリィアーキテクチュアのプロジェクトがおもしろい。

2015/10/01(木)(村田真)

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イキウメ館カタルシツ「語る室」

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会期:2015/09/19~2015/10/04

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

園児とバスの運転手が神隠しにあった事件から5年目の田舎町で起きる奇蹟の物語だ。もっとも、登場人物たちはすれ違いが続き、それに気付かない。外から見ている観客のみが理解するという仕掛けである。それゆえに、劇的なクライマックスを迎えることはないが、彼らが変わってしまった後の世界の新しい日常生活を受け入れる前向きさが光る。イキウメの「聖地X」と同様、物語のひねりとして、SF的な要素を組み込んでいるが、いつもの作品よりも、笑いの要素は控えめだ。

2015/10/02(金)(五十嵐太郎)

渡邊有紀「内海」

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会期:2015/09/15~2015/10/03

NORTON GALLERY[東京都]

渡邊有紀は、東京工芸大学写真学科を2004年に卒業後、2006年に喜多村みかと互いにポートレートを撮りあった「Two Sights Past」で写真新世紀優秀賞を受賞してデビューした。その後、別々に活動するようになったが、喜多村は2013年に写真集「Einmal ist Keinmal」(テルメ・ブックス)を刊行して、その後の展開をしっかりと形にした。そして渡邊有紀もまた、着々と新たな領域に踏み込みつつあることが、今回の東京・南青山のNORTON GALLERYでの個展を見てよくわかった。
渡邊は岡山県の出身なので、瀬戸内海は幼い頃から慣れ親しんだ場所である。今回展示された「内海」は6年間かけて制作されたシリーズで、フェリーの船上から見られた瀬戸内海の眺めを中心に構成している。とはいえ、写真のほとんどはブレていて、島影や船や地上の灯りも、揺らいだり、光跡を引いたりしている。固定した「風景」ではなく、むしろ彼女の内面の揺らぎがそのまま投影されたイメージとしての「内海」は、逆に強い喚起力を備えている。大判プリント(74.5×60センチ)と小さなプリント(19×24センチ)を組み合わせたインスタレーションも、とてもうまくいっていた。写真家として、力をつけていることの証といえるのではないだろうか。
次に必要なのは、今回のようにテーマを絞り込んだ、クオリティの高いシリーズを、コンスタントに発表していくことだと思う。そろそろ、写真集の刊行も視野に入れてもいいかもしれない。

2015/10/02(金)(飯沢耕太郎)

したため#3「わたしのある日」

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会期:2015/10/01~2015/10/04

アトリエ劇研[京都府]

演出家・和田ながらのユニットであるしたための特徴は、予め用意された台本を用いず、出演者との会話を積み重ねるなかから言葉を引き出し、時空間を構築していく方法論にある。本作では、「昨日、使ったお金はいくらですか」「昨日、嗅いだ匂いは何ですか」「昨日、待ち時間の合計はどのくらいでしたか」といった質問が投げかけられ、出演者たちは淡々と答えていく。具体的な数量や商品名として発語される回答は、断片化された情報の羅列にすぎず、観客に背を向けたままの出演者たちは匿名的な存在に留まり、微視的でありながらも個別的な相は立ち上がってこない。台本を用いず、出演者自身に取材し、個人的な経験や記憶から演劇を立ち上げていく手法はポストドラマ的と言えるが、ここでは、「日常」を丁寧に掬い上げてそのかけがえのなさを観客の前に差し出すというよりも、むしろ、些末な情報の断片や交換可能な無人称性として提示される。翌日になれば忘れてしまうような、些細でどうでもいいあれこれ。それらに執拗に向けられる質問。記憶=自己のアイデンティティを失うことへの不安感か?
「昨日のこと、覚えていますか」「忘れたくないものは、何ですか」。このように問えば、とかくノスタルジックに傾きがちだ。だが本作を覆っているのは、良い意味で暴力的な、明るい虚無感だ。質問内容は、「昨日、見つからなかったもの」「昨日、できなかったこと」といった欠落感や挫折を漂わせる。出演者たちは、微妙な距離感と匿名性を保ったまま、コミュニケーションを取ろうとするが失敗し、「伝えたかったこと」と「伝達されなかったこと」との間の溝が乖離していく。あるいは、居酒屋での注文を思わせるやり取りでは、1人だけ違う飲み物を注文した者が、皆と同じメニューを言うまで、「ビール!」の絶叫的な大合唱が反復される。一見たわいないシーンに見えるが、異なる意見を徹底的に無視し、同調性へと強制的に回収しようとする暴力が噴出する瞬間は、寒気を覚えさせた。
個別的な輪郭を持った「個人」でもなく、「集団」にもなりきれない彼らはやがて、一人ずつ倒れていく。暗転とともに、眠りや死の暗示。ここで「余韻」を残してしっとりと終わっていれば凡作だ。だが、「♪新しい朝が来た 希望の朝」という歌詞で始まる合唱曲が(歌詞の清新さをかき消すような)大音量でかかり、一時の休息も空しく、彼らは無理やり起こされ、自動的に新たな一日が始まってしまう。「明るい健全さ」という虚無的な暴力が蔓延し、彼らは抗う術を知らないのだ。
そして最後に、時制が奇妙な反転を見せる。「明日のこと、覚えていますか」「明日、買いそびれたものは何ですか」「あさって、初めてだったことは何ですか」「しあさって、また聞いた言葉は何ですか」。徐々に遠ざかる未来のことが、「過去形」で質問され、答えが返される。ここで一気に、演劇的な虚構の強度が立ち上がる。いやむしろ、彼らは、想像のなかで「明日」を反復している。予測・想像可能な範囲の延長線上にしか「未来」はなく、他人との微妙な距離感やコミュニケーションの挫折感を抱えたまま、その繰り返しにすぎないのだ。だが、空白の「今日」は一体どこにあるのだろうか。

2015/10/03(土)(高嶋慈)

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