artscapeレビュー
南村千里『ノイズの海』
2017年01月15日号
会期:2016/12/15~2016/12/18
あうるすぽっと[東京都]
オーセンティックな芸術家像とは相容れない人物が(たとえば非西洋人が、女性が、そして障害を持つ人が)芸術の場を更新するという美術史ならば周知の傾向と並べてみるほかに、本作のダンスを受け止める術はない。南村千里の新作は、もし「ろう者でもあるダンス・アーティスト」という前提なしに見たら、ライゾマティクスのハイクオリティな装置による刺激的なイメージに圧倒される分、ダンスとしては印象に薄いという感想しか残らなかったかもしれない。ただし、この前提こそ看過できぬものなのだ。とはいえ、そうである限り、既存の批評軸で評定しても意味がないような気がしてくる。否定であれ肯定であれかつてのダンス史と向き合いながら、そこにない何かを提示することが通常、作家に求められているものだとして、南村の振り付けには歴史への応答が希薄で(南村が学んだイギリスにおける何らかの流派への応答は行なわれているかもしれないが、私はそこに疎い)、それより何かもっと別のトライアルに挑戦しているように感じる。ただし、それがどんなポイントなのか、俄かにはわからない。客席に注意を向けると、手話の手に気づく。聞こえない人が客席に存在することを前提に、普通はダンス公演を作らない。その「普通」に慣れた体で、聞こえない人とともに見ている目の前の光景を判断してよいものかどうか戸惑う。とはいえ、舞台には音声も用いられており、健常者の聴覚が無視されているわけでもない。だが、強烈な振動を伴う大音量もあり、そこでは「聞く」のとは異なる視聴(つまり振動を感じること)が想定されていそうだ。それを、さて、聞こえない人はどう「聞く(感じる)」のだろうと、耳を塞いで見たりするが、想像が膨らむだけで実感はわかない。聞こえない人にも聞こえる人にも開かれた公演であるということは、誰にとっても感知し得ない空白が必ず残るということでもある。この批評し難さ、批評の疎外状態が、まず、何よりも本作を興味深いものにしている。直接の関連があるかないかはともかく、今後「2020」へ向けて、このようなコラボレーションが顕著になることだろう。そうした傾向がダンスを変えていくのか、一種の流行に過ぎないのか。どっちに転ぶのかは、ダンスの内容もさることながら、観客の多様性をどう生じさせ、それによって鑑賞の質をどう変容させていくかという視点にオルタナティヴなダンスの道筋を見るか否かにかかっていることだろう。
2016/12/15(木)(木村覚)