artscapeレビュー

2013年02月15日号のレビュー/プレビュー

村越としや「大きな石とオオカミ」

会期:2013/01/05~2013/01/24

B GALLERY[東京都]

東日本大震災が写真家たちに何を与え、彼らはそれをどう受けとめて表現に転化しようとしているのか。これまでも、これから先も問い続けていかなければならないことだが、村越としやの新作展にもそのことがよくあらわれていた。
福島県須賀川市出身の村越は、震災後10日目に故郷に戻り、それから断続的に福島県内の風景を撮影し続けてきた。むろん、村越は震災前から折りに触れて故郷を撮影しており、その撮影やプリントのあり方(中判カメラ、モノクロームフィルム、端正な印画)は基本的には変わっていない。だが、今回の展示を見ても、2012年11月に刊行された同名の写真集のページを繰っても、どこか以前の写真とは違っているように感じる。端的に言えば、被写体に対する「確信」の度合いが深まり、目に飛び込んでくるイメージの強度が増しているのだ。震災が、村越の写真家としての覚悟をあらためて呼び覚ましたということではないだろうか。
もうひとつ、やはり昨年刊行された村越の文集『言葉を探す』(artdish g)の震災後の日録のなかに、以下のように記されているのを読んで、「なるほど」と思った。
「11/6/22 写真学校に入ったときに新品で購入した三脚をやっと本気で使用する機会がやってきた。学生時代はほとんど使用することもなく、助手してるときはたまに持ち出して、持って歩くだけってことが多かったから、三脚にたいしてはあまり良い思い出がなかった。でもこれから暫くは福島県内の撮影を共にする」
三脚を使いはじめたことも、作品のどっしりとした揺るぎないたたずまいと関係しているのだろう。普段はそれほど目につくことはないが、撮影を支えるカメラや写真器材が、作品の出来栄えに思わぬ力を及ぼすことがあるのがよくわかる。今回の展示には、新作として大全紙サイズに引き伸ばされた福島県飯館村の山津見神社の写真も含まれていた。この神社は狼を神として祀っているのだという。村越のなかに、写真を通じて土地に根ざした地霊や神話の所在を嗅ぎ当てようという意欲も生まれてきているようだ。今後の展開が楽しみだ。

2013/01/06(日)(飯沢耕太郎)

ドラマチック大陸──風景画でたどるアメリカ

会期:2013/01/12~2013/05/06

名古屋ボストン美術館[愛知県]

ワケあって桑名に行った帰りに寄る。ボストン美術館のコレクションから、19~20世紀のアメリカを描いた風景画と写真を選んだもの。展示は東海岸のニューイングランド地方に始まり、南部、中西部を経て想像の風景まで地域別の5部構成。こういう展覧会の場合、1点1点の絵画の内容(風景)を堪能するか、それとも作品相互の違いを見比べるかという二つ(またはそれ以上)の見方があると思う。いいかえれば、東部の農村風景からナイアガラの滝、熱帯フロリダ、グランド・キャニオン、ヨセミテ渓谷まで広大なアメリカの多様な風景を楽しむべきか、トマス・コールらハドソンリバー派によるロマン主義的絵画をはじめ、スチュワート・デイヴィスやプレンダーガストらのモダンな油彩画、吉田博による多色刷り木版画、ウェストンやアダムスの精緻な写真、ダブやオキーフらほとんど抽象化された風景まで、アメリカ絵画の変遷をたどってみるべきか、悩んでしまうのだ。もちろん風景を楽しみつつ絵画史をたどればいいのだが、風景を楽しもうとすれば絵画の様式が目障りになり、絵画様式に着目すれば風景を楽しむどころではなくなるというジレンマがある。いちばんの解決策は、まずざーっと風景を堪能してから、今度は逆流しつつ絵画史をおさらいしてみることだ。幸か不幸か作品は計62点と多くないから、時間が許せば2度3度と往復して見ることをオススメする。いつのまにか展覧会の鑑賞講座になっていた。

2013/01/12(土)(村田真)

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すくいとられたかたち FORMS IN FLUX

会期:2013/01/12~2013/05/06

名古屋ボストン美術館5階オープンギャラリー[愛知県]

「ドラマチック大陸」展の出品作品が少なめだと思ったら、残ったスペースでこんな企画展をやっていた。愛知県立芸大とボストン美術館付属スクールの教員6人による交流展。作品は絵画、彫刻、インスタレーション、映像と多彩だが、多彩なだけに焦点が結べず、真意がすくいとれなかった。

2013/01/12(土)(村田真)

9h

[京都府]

前々から泊まってみたかった、おしゃれカプセルホテルの9h(ナインアワーズ)に宿泊した。外観の一階部分は景観条例によって、町家を意識したものだが、その上は即物的な立体駐車場のようだ。内部のデザインはよく整理され、フロアや左右のエレベーターによって男女の空間や機能を明快に分ける。なるべく言葉による説明を排し、廣村正彰のサインが的確に動作や道順をナビゲートする。ミニマムに削ぎ落されたホテルだった。

2013/01/12(土)(五十嵐太郎)

澤田知子「SKIN」

会期:2013/01/12~2013/02/24

MEM[東京都]

澤田知子の新作展は驚きを与えるものになった。デビュー作の「ID400」(2000)以来、彼女は一貫して「内面と外見の関係」をさまざまな状況で、さまざまなコスチュームを身にまとって検証していくセルフポートレート作品を制作・発表してきた。それはこれまで、内外で数多くの賞を受賞するなど大きな成果をもたらしてきたのだが、逆にその成功が知らず知らずのうちに澤田のアーティストとしての可能性を狭めることにもつながっていたようだ。2年ほど前にそのことに気づいた彼女は、かなり重症の「スランプ」に陥ってしまった。一時は、アーティストとしての活動を続けるべきか、思い悩むところまで追いつめられていたという。
そんなとき、たまたまイタリア・ボローニャで開催されたGD4PhotoArtというコンペに参加する機会があり、最終的に「勇気を奮い起こして」セルフポートレート以外の作品にチャレンジすることを決意する。それが今回MEMで展示された「SKIN」である。12点の写真に写っているのは、ミニスカート、ハイヒールを履いた女性の脚である。だがこの連作の主題は脚そのものではなく、それを包み込むストッキングだ。スットッキングは、澤田によれば「働く女性にとっての鎧」の役目を果たす。ストッキングを身に着けた女性たちが、社会においてどんなふうに見られているのか、あるいは自分をどんなふうに意識しているかを問い直すのが、この連作で澤田がめざしたことだ。それは「産業・社会・領域」というGD4PhotoArtの統一テーマにも即している。
結果的に、セルフポートレート以外の領域に踏み込んでいこうとする澤田の試みは、うまくいったのではないかと思う。「SKIN」にはたしかに澤田本人は写っていないが、自分の分身というべきオフィスで働く女性たち(靴下メーカーの社員)をモデルに、同一の状況で「タイポロジー」的に作品を構築しており、これまでの澤田のスタイルは、そのまま踏襲されている。何よりも、新たな方向に進もうとしている彼女の昂揚感が、作品全体に漂うのびやかな開放的な気分として伝わってくるように感じた。「スランプ」からはなんとか脱出できたと言えるだろう。
なお、同時期に開催された、文化庁芸術家在外研修の成果の発表展「Domani・明日」(国立新美術館、1月12日~2月3日)には、アメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の依頼で制作されたもうひとつの新作「Sign」が展示されていた。こちらは、ウォーホルの「キャンベル・スープ」のオマージュとして、ハインツのトマト・ケチャップとマスタードを56カ国語の表示で反覆したものだ。新作で「タイポロジー」と「ポップ・アート」という新たな思考の枠組みを活用できたことで、澤田の作品のスケールがまた一回り大きくなったのではないだろうか。

2013/01/12(土)(飯沢耕太郎)

2013年02月15日号の
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