2017年07月15日号
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artscapeレビュー

山本浩貴「他者の表象 あるいは 表象の他者」

2015年07月15日号

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会期:2015/06/20~2015/07/05

京都芸術センター[京都府]

京都芸術センターのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム2015の成果発表展。「移住」をテーマに、約1ヶ月間の京都滞在でのリサーチに基づく作品が発表された。宗教社会学専攻という出自を持つ山本は、ロンドンの大学で学びつつ、国内外でのレジデンスを経験するなど、彼自身が複数の国や文化圏を「移動」しつつ制作してきた。
出品作《移動する人々と街を歩く》は、作家が「様々な国や文化圏の人たちに3つのお願い」をして制作された。(1)作家を京都で自分の好きな場所に案内し、その様子を自由に撮影する、(2)自分が撮りたい人物のポートレートを撮影する、(3)京都市国際交流協会の職員やボランティアの方に自由にインタビューする、というのが依頼内容である。(1)・(3)の記録映像と(2)のポートレート写真が、3つの壁面に1セットずつ展示された。
山本は、カメラとともに撮影の主体性を協力者たちに委ねる。だが画面上には、彼/彼女たちの姿は一切映らない(映されない)。加えて、彼/彼女たちが何者であるかは、(会話内容から部分的に推測されうるものの)明示されない。ポートレートもまた然り。キャプションが一切ないため、国籍、性別、年齢、社会的立場に関する情報はすべて伏せられている。何者かわからない、帰属先を明確にカテゴライズできない「他者」の存在や思考に向き合うことは可能か。作品の要請をまずはこのように解釈できるだろう。
だが本展で気になったのは、展示方法の形式的側面である。計6つのモニターの映像にはヘッドホンが用意されていないため、それぞれの音声が混じり合い、展示室に入ると雑踏のざわめきのなかに足を踏み入れたかのように感じるのだ。それは、複数の異質な声が重なり合い干渉し合う、一種の擬似的な公共空間を展示室の中に呼び入れようとする戦略だろう。しかしその一方で、一つひとつの「声」は非常に聴き取りにくくなってしまう(スピーカーを使わず、モニターから流れる音声であることも一因)。したがって、会話の内容を把握するためには、「日本語字幕」に頼らざるをえない。彼/彼女らから発せられる肉声、とりわけ非-母語での発話行為が含むニュアンス(言葉を選んで言いよどむ時間やアクセントの微妙な差異など)は捨象され、情報として整えられた「字幕」を読む行為に還元されてしまうのだ。結果として、表象によるカテゴライズを介さない「他者」への困難な接近は、滑らかに表面を漂う「日本語字幕」によってバリアーのようにはね返され、モニター越しに隔てる境界線が引かれてしまったのではないか。

2015/06/20(土)(高嶋慈)

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