2022年12月01日号
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artscapeレビュー

2011年09月01日号のレビュー/プレビュー

丹羽良徳 個展「共同体の捜索、もしくはその逃亡劇」

会期:2011/07/23~2011/09/24

AI KOWADA GALLERY[東京都]

パフォーマンス・アーティスト、丹羽良徳の個展。路上や街中で行なわれるパフォーマンスを記録した映像作品を2点発表した。ひとつは、自分で持ち込んだ雑誌を書店で買い求めるパフォーマンスで、もうひとつはこの4月に新宿で催された脱原発デモの隊列の真ん中を逆行するパフォーマンス。前者が資本主義を、後者が政治運動を、それぞれ参照項として想定していることはまちがいない。一見すると、ナンセンスな笑いをねらった身体表現にすぎないように見えるかもしれないが、双方に通底しているのは芸術的な自己表現があくまでも一方的なものだという強い信念だ。資本主義にかぎらずあらゆる経済活動は交換を原則としているが、丹羽が実行しているのは一方的な贈与であり、それが何かしらの見返りを暗に要求するわけでもないという点で、反経済的・反交換的な表現である。政治運動にしても、あらゆる集団的な示威行動はその目的が達成されるために行動するという合目的性によって成立しているが、集団歩行に逆行する丹羽の身体は合理的な目的を持っているようには見えない。そこに山があるから登るように、そこに流れがあるから逆らっているような印象を覚える点では、きわめて動物的な身体表現だとさえいえる。丹羽が身体で切り開いているのは、他者や外部とのコミュニケーションにもとづく(指示表出としての)芸術ではなく、自分自身との対話や沈黙から生まれる(自己表出としての)芸術である。社会であれ他者であれ、何かのための芸術が横行するいま、丹羽の一方的な表現は心強い。

2011/07/28(木)(福住廉)

アトミックサイト

現代美術製作所[東京都]

会期:2011/07/18~2011/08/07、2011/08/11~2011/08/20
イルコモンズ監修による企画展。既存の「原子力発電PR施設」に対して「反/脱原子力発電PR施設」を仮設するという設定で、イルコモンズ自身をはじめ、石川雷太や伊東篤宏、Julia Leser & Clarissa Seidel、中村友紀、山川冬樹、吉田アミが作品を発表した。3.11からわずか半年しか経っていないにもかかわらず、3.11以前の日常を取り戻したかのような健忘症的多幸感のなかで、原爆の核と原発の核が同じ危険であることを意識の隅へ追いやり、依然として「人間の安全保障」を蔑ろにしてやまない私たち自身の愚かさを思えば、これに対抗する表現文化をはっきりと打ち出すことは絶対必要であるし、この20年のあいだにサブカルチャーが失ってしまったカウンターカルチャーとしての役割を蘇生させることも必要不可欠である。平たくいえば、イルコモンズによるクリティカルな表現活動の主旨には大いに賛同する。しかし、そうであるにもかかわらず、展覧会を見た後の違和感をどうしても拭い去ることができないのは、そこで発表されているのが、結局のところ、どこからどうみてもアート作品以外の何物でもないからだ。しかも、原発や放射能の危機をテーマとした中庸な作品ばかりであるところに、同じ危機を感じてやまない者としては、少なからず不満が残る。会場の冒頭には楳図かずおの『漂流教室』から引用した「あたしらはいま、ふつうの状態じゃないんだ! ふつうの状態じゃないときに、ふつうのやり方じゃまにあわないんだ!!」というマンガが象徴的なメッセージとして掲げられていたが、この展覧会そのものが「ふつうのやり方」に終始してしまっているといったら言い過ぎだろうか。楳図かずおを置き去りにするほどの「ふつうじゃない」表現が見てみたいし、それは必ずしも展覧会を構成するほどたくさんある必要はない。ひとつでもあれば、十分に生きてゆけるからだ。

2011/07/29(金)(福住廉)

『大鹿村騒動記』

会期:2011/07/16

丸の内TOEI[東京都]

長野県大鹿村で300年の伝統を誇る大鹿歌舞伎をモチーフとした映画。原田芳雄や岸部一徳、大楠道代、石橋蓮司などによる熟練の演技と堅実な脚本のおかげで心から楽しめる娯楽映画になっている。大鹿の山村を舞台に綴られる人情物語はたしかにフィクションだとはいえ、そこには近年のアートプロジェクトなり地域型の国際展が目指しているものが、はからずも巧みに視覚化されていように思われた。プロの歌舞伎役者ではなく、地元住民がみずから役者となり、舞台を動かし、興行を成功させる手作りの歌舞伎公演。それが素人による大衆演芸であることにちがいはない。けれども、見方を変えれば、それは、かつて福田定良(あの鬼海弘雄の師匠!)が東北地方を巡る合唱団「わらび座」に見出した、生活感と人間性を伴った、生き生きとした芸術として考えることもできるのではないだろうか。私たちが何の疑問も持たずに当たり前だと思っている「芸術」が、じつはきわめて偏向した狭い芸術であるということは、鶴見俊輔の「限界芸術論」や福田定良の「大衆芸術論」が明らかにした大きな功績である。「こういう芸術は、芸術家にとっては芸術であっても、地方の民衆にとってはそうではないのです。民衆は芸術の芸術性を評価する前に、芸術が彼らの生活に接触するときに示す明るさ・生気・健康性を感じ取ります」(福田定良「新しい大衆芸術の性格」[『現代人の思想 7:大衆の時代』平凡社、1969])。そして、この映画が生き生きと描き出しているのは、大鹿歌舞伎の芸術としてのすばらしさというより、むしろこの歌舞伎をめぐって繰り広げられる人間の営みの愛おしさや哀しさなのだ。作品が表象する内容の質的な優劣を専門家が判断するものを「都市型の芸術」だとすれば、作品を成立させる条件そのものを地域住民が自分たちの手で高めてゆくものを「地域型の芸術」といえるかもしれない。地域社会で組織されるアートプロジェクトにしろ、瀬戸内や妻有の国際展にしろ、それらが「都市型の芸術」とは異なる芸術を志向していることはまちがいない。けれども、そこに福田定良が見出したような「地域型の芸術」が必ずしも成熟しているといえないのは、それらが依然として芸術家を外部から招聘するという旧来の作法にとらわれているからだ。そうではなく、地域住民自身の自発的かつ主体的な創造行為をこそ、引き出さなくてはならない。『大鹿村騒動記』は「地域型の芸術」のモデルとして評価できる。

2011/08/01(月)(福住廉)

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

会期:2011/07/16

シネマライズ[東京都]

バンクシーをめぐる映画。グラフィティ・アーティストの表現活動を映像で記録していた男が、やがて自分でグラフィティを描く主体となり、ついにはミスター・ブレインウォッシュという名のアーティストとしてデビューを果たすという物語だ。夜間のあいだに人知れず実行されるグラフィティの制作現場を記録したという意味では、グラフィティについてのドキュメンタリー映画といえるが、おもしろいのは、バンクシーに憧れ、追従していた男が、バンクシーにそそのかされアーティストとして成り上がっていくプロセスに、アート業界の一端を垣間見ることができるからだ。ミスター・ブレインウォッシュの作品は、映像で見るかぎり、グラフィティとポップアートを安易に融合させた代物で、それ以上でもそれ以下でもない。ところが、それらをメディア戦略によって大々的に宣伝することで、華々しくデビューを果たしてしまうところに、現代アートのいかがわしさが現われている。バンクシーが言うように、「ルールなんか誰も求めていない」のが現代アートの本質なのだ。この映画が巧みであり、ある意味でずる賢いのは、その本質をバンクシーその人によってではなく、その傍らで炙り出しているからだ。ミスター・ブレインウォッシュという道化師の影で見えにくくなっているが、ルール無用の世界で成り上がった当事者はバンクシーその人である。その道化師がアーティストに成り上がったことを受けて、「誰もがアートに関わるべきだと思っていたけど、いまはそう思わない」というバンクシーの言葉は、そのことをみずから告白しているようなものだ。批評の役割は、ミスター・ブレインウォッシュのようにバンクシーに心酔しながら賛辞を送ることではなく、「それでも誰もがアートに関わるべきである」と頑なに主張することである。

2011/08/02(火)(福住廉)

プレビュー:『女と銃と荒野の麺屋』

会期:2011/09/17

シネマライズほか[東京都]

コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』をチャン・イーモウがリメイクした中国映画。最小限の登場人物によって綴られる寓話的な物語が小気味よいのはもちろん、テキサスから中国の荒野へと切り替えられた舞台が何より美しい。波打つかのような荒野の赤い土と澄み切った群青の空、そして煌煌と光り輝く月。馬の蹄が乾いた空気を振るわせる。シュルレアリスムのような幻想的な世界に、人間の欲望と滑稽を凝縮した物語映画である。

2011/08/02(火)(福住廉)

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