2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

2011年09月01日号のレビュー/プレビュー

プレビュー:六甲ミーツ・アート 芸術散歩2011

会期:2011/09/17~2011/11/23

六甲山・山上一帯[兵庫県]

明治時代に居留外国人により開発され、その後現在まで関西の身近なリゾート地として愛されている六甲山。その山上一帯に点在する六甲ガーデンテラス、六甲高山植物園など複数の施設にアート作品を展示し、ピクニック感覚で六甲山の自然とアート作品を味わえるのが、この「六甲ミーツ・アート 芸術散歩2011」だ。澄んだ空気と豊かな緑の中を歩きながら作品を体験すれば、街中のギャラリーで凝り固まった感性が気持ちよくほどけていきそう。ワークショップなど関連イベントも多数開催されるので、秋の一日を山頂でたっぷりと過ごしたい。

2011/08/20(土)(小吹隆文)

伊万里焼の技と粋──古伊万里で学ぶやきものの“いろは”

会期:2011/07/03~2011/09/25

戸栗美術館[東京都]

1610年頃に誕生した伊万里焼(古伊万里)の、初期から江戸後期までの変遷・発展を解説する入門向けの展覧会。陶器と磁器の違いの解説からはじまり、時代による技法、型、絵付の変化を見る。もとより伊万里焼は個人作家の芸術ではなく、多数の窯、分業体制により生産された実用的な食器、商品であり、その用途や意匠はつねに市場の需要を反映したものである。それゆえここでの展示も表面的な変化を追うばかりではなく、そのような変化を生じさせた社会経済的な背景、市場における変化までをも含めた解説が付されていて、たいへんにわかりやすい。古伊万里の意匠については海外への輸出によってヨーロッパの陶磁器に与えた影響が強調されることが多いが、公式な輸出が行なわれたのは17世紀末の30年に満たない期間であり、国内需要が様式の変遷に与えた影響はずっと大きいはずである。今回の展覧会では江戸時代の日記や小説、絵画を手掛かりに、生活のなかに見られる伊万里焼の姿や町民文化への影響という側面にも焦点を当て、体系的な説明を試みている。[新川徳彦]

2011/08/20(土)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00013694.json s 10009287

吾妻橋ダンスクロッシング2011

会期:2011/08/19~2011/08/21

アサヒ・アートスクエア[東京都]

11組が出演した今回の〈吾妻橋〉。一番盛り上がったのは間違いなくcore of bellsだった。パンク独特の一分弱の曲を数曲、ハイスピードで演奏した後、何気なく始まった「ゲス番長のテーマ」。前の数曲とさして変わらぬパンキッシュな演奏が終わり、ボーカルが「次は最後の曲です」と告げる。すると彼らは、まったく同じ「ゲス番長のテーマ」の演奏を始めた。まだこの時点では、これがなにを意味するものかは観客の誰もわかっていない。「あれ?」と思う間もなく、再度同曲の演奏。3回目? よく見ると、曲のみならず演奏するミュージシャンのジェスチャーもほぼ一緒であることに気づく。「ロックのジェスチャーって、あらためて見るとなんて過剰でシアトリカルなんだ」なんて感じさせられ、「記号化されたロック」のジェスチャーが執拗に反復されるそのシンプルな光景が次第に痛快に思えてくる。しかも、目の前に演奏としての演劇とでも言えるなにかが立ち上がっている気さえしだした。無意味な反復は、昨今の日本の演劇でもしばしば見られるアイディア。だがそもそもはミニマル・アートの文脈に端を発する。そう思い出すと、今度は美術文脈から読み込みたくもなってくる。そんなこと思いめぐらしているうちに何度反復されただろう、機械のごとくリプレイされる度に、観客の熱狂が増してゆく。いつか電気が切られ、さらに舞台が真っ暗になってもなお演奏が続行されたあたりで、盛り上がりはピークに達した。
 COB恐るべし。こうした無意味さへ向けた熱狂こそ吾妻橋ダンスクロッシングにふさわしい。そう思っているぼくにとって「東日本大震災+原発事故以後」の匂いのする諸作品には正直強い違和感を覚えた。舞台上にどんなものが置かれてあっても「東日本大震災+原発事故以後」のメタファーを読み込んでしまう、そんな一種のヒステリーを抱えてぼくたちが生きているのは事実だ。とはいえそのヒステリーに表現が汚染されてしまってはならない。それによって表現の質が鈍ってしまってはならない。少なくとも、一過性の表現になってしまってはならない。そういう表現というのは、本人たちにそうした意思がないとしても、震災や節電を売りにした見苦しい商売とさほど変わらないと評すべき類いものではないだろうか。

2011/08/21(日)(木村覚)

鈴木ユキオ(パフォーマンスキッズ・トーキョー)『JUST KIDS(ジャスト・キッズ)』(発表日)

会期:2011/08/28

吉祥寺シアター[東京都]

本作は、小学三年生から六年生までの児童をダンサーに、鈴木ユキオが振り付け・演出を行なった、NPO法人・芸術家と子どもたち企画・制作による作品。舞台前方におがくずのような塊があり、次第に舞台が進むとそこが砂場に思えてくる。ああ、本作も疑いなく「3.11以後」の作品だ。けれどもあまり嫌な気がしないのは、鈴木のバックボーンをなしているのが舞踏であるからに相違ない。
 冒頭に登場した、ランニング姿など普段着に身を包んだ小学生たち、いかにも鈴木らしい振り付けを次々と男の子も女の子も実行してゆく。「力強く投げ回した腕が胴体に絡まる」といった小さなタスク(と、ここで呼んでみよう)が子どもたちに課せられており、いくつか実行してゆくうちに、生き生きとしてノイジーな子どもの身体は、段々、ダンスという怪物に縛り付けられてゆく。そう、ダンスとは(少なくとも舞踏は)怪しく人を誘惑し非日常へ連れ去るものだ。ステレオタイプの「子どもらしさ」を鈴木はタスクで封じた。その点で痛快だったのは、横に並んで鈴木の背を見ながら、子どもたちが鈴木の動きを真似た場面。従順に模倣するうちに異形の存在になる子どもたち。デリケートでユーモラスでもある振り付けの奥に、ちゃんと舞踏の暗黒性があった(もっと濃密な暗黒性を与えてもいいと思ったけれど)。
 その後、先にあげた砂場に照明がともされる。一人の子どもが砂に手をいれて団子をつくる。それを見ているだけで不吉な気持ちにさせられるのがいまのぼくたちの現実だ。この現実を忘れるためではなく、この現実と拮抗するために鈴木のダンス(タスク)は子どもたちに課せられていた。いわばおばけになるレッスン。家族はどう思うか知らないが、よい教育だったに違いない。

2011/08/28(日)(木村覚)

プレビュー:フェスティバル/トーキョー、『家電のように解り合えない』、山下残『庭みたいなもの』ほか

[東京都]

9月16日からはじまるフェスティバル/トーキョー(F/T)(2011年9月16日~11月13日)は、ロメオ・カステルッチが宮澤賢治『春と修羅』をモチーフにした作品『わたくしという現象』(飴屋法水との二本立て新作上演「宮澤賢治/夢の島から」にて。飴屋は『じ め ん』を予定)を上演するなど、注目作が目白押し。けれども、それに負けないくらいF/T以外にも沢山の話題作があって、9月はなかなか忙しいです。ひとつは、山下残『庭みたいなもの』。「ダンス」をフィジカルなものという以上にコンセプチュアルなものとしてとらえる山下の舞台は、言葉と身体、過去と現在を出会わせる知的でユーモラスなアイディアに満ちています、期待したいところです。大橋可也&ダンサーズも音楽に大谷能生を起用した新作『OUTFLOWS』を上演します。あと矢内原美邦(ミクニヤナイハラ プロジェクト)の演劇作品『前向き!タイモン』も要注目です。
ミクニヤナイハラプロジェクトvol.5「前向き!タイモン」予告編

2011/08/31(水)(木村覚)

2011年09月01日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ