2022年12月01日号
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artscapeレビュー

2015年04月15日号のレビュー/プレビュー

試写『だれも知らない建築のはなし』

会期:2015/05

ユーロライブ試写室[東京都]

もう30年以上も前に開かれた国際会議に参加した建築家たちが、当時のことを振り返ったインタビュー映画。そんなもん建築に興味ないヤツにはおもしろくもなんともないが、少しでも興味あればこの30年の建築界の盛衰や裏話が聞けてけっこう楽しめる。ことの発端は、1982年にアメリカで開かれた「P3会議」に、磯崎新がふたりの若手建築家を伴って参加したこと。このふたりは後に世界的な建築家として脚光を浴びることになる安藤忠雄と伊東豊雄だが、当時まだ小住宅しか手がけたことがなかった。インタビューはこの3人に加え、ピーター・アイゼンマン、チャールズ・ジェンクス、レム・コールハースといったスター建築家のほか、日本から世界へ建築情報を発信した『a+u』『GA』などの編集者たち。インタビューは個々に行なわれたが、互いの話をつなげてまるで議論を交わしてるように構成されているため、立場の違いや建築観の違いが浮き彫りになっておもしろい。いちばん印象的だったのは、レム・コールハースが日本の建築家はしゃべらない(言葉を重視しない)と批判的に述べていること。理論家として知られる磯崎でさえ、日本の特殊事情を述べることであらかじめ批判を回避しているというのだ。これはもちろん建築に限った話ではないだろう。


映画『だれも知らない建築のはなし』予告編

2015/03/26(木)(村田真)

ルック・オブ・サイレンス

ドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』の試写会へ。インドネシアの大虐殺を、加害者による再演という驚くべき手法で撮影した『アクト・オブ・キリング』と同じ監督が、今度は被害者側の視点を入れて制作したもので、対として見るべき作品だった。こちらは狂気の笑いの要素は少なく、むしろ重い。同時に人々がイデオロギーやプロパガンダでいとも簡単に煽動され、罪悪感や後悔を感じないまま、「国家」のために、究極の排除=殺人に向かう姿を描くわけだが、前作よりも本作のほうが、日本と重ね合わせて見えてしまう。共産主義者を殺せは、非国民や外国人にもなりうるだろう。

2015/03/27(金)(五十嵐太郎)

漂泊

会期:2015/03/20~2015/03/30

吉祥寺シアター[東京都]

吉祥寺シアターで『漂泊』を観劇する。幸せな家庭が揺らぐアガサ・クリスティの原作だが、蓬莱竜太が、日本の家を舞台に笑いの要素を加えており、その脚本が面白い。さらに、市毛良枝、小林勝也らのベテラン俳優陣が盛り上げる。そして豪雨の日の最後に訪れるクライマックスの演出には驚かされた。窓学的には、舞台美術としてつくられた住宅の内部において、窓まわりの半円アーチが母のお城としての家を象徴しているのも興味深い。

2015/03/27(金)(五十嵐太郎)

石田尚志──渦まく光

会期:2015/03/28~2015/05/31

横浜美術館[神奈川県]

いつだったか忘れたけれど、最初に石田尚志の作品を見たとき(たぶん7、8年前)、絵巻とアニメの時間表現を見事に止揚させてるなあと感心したものだ。だがもっと感心したのは、次に見たとき、部屋の壁を移りゆく光を捉えようとして作品がサイトスペシフィック化していたことだ。もちろん刻々と移り変わる光を捉えきることはできないので、そのつど決断しなければならず、そのいらだちと思いきりのよさが彼の表現主義的な図像に表われているように思えた。モネの連作における筆触と同じく、石田の即興的な筆触も時間によって決定づけられており、それゆえに根拠のない抽象画よりはるかに美しいのかもしれない。しかもとどまることを知らず、まだまだ展開し続けている。これは必見。

2015/03/27(金)(村田真)

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國府ノート 2015

会期:2015/03/17~2015/03/29

アートスペース虹[京都府]

昨年、急逝した現代美術作家、國府理が遺した制作ノート、図面、ドローイングなど、紙媒体の資料が遺族の協力を得て展示/公開された本展。初期作品のプロペラ自転車の展示に加えて、計20冊に及ぶノートは、一部がファイルに収められて実見できるほか、スキャンされた画像データの状態でも見ることができる。90年代半ばに関わったソーラーカーのプロジェクトに関する詳細な設計図や各種パーツの図面もあれば、アイデアを描きとめたドローイング、チラシの裏に落書きしたバイクやクルマの絵も大量にある。國府の作品は、自動車や自転車、パラボラアンテナなどの機械に手を加えて、想像上の乗り物や植物が自生する装置として作り変えることで、乗り物=移動手段がかき立てる夢の世界とテクノロジーへの批判が同居するような性質を持つが、今回展示されたノート類をめくっていくと、バイクや自動車など乗り物への愛と豊かな想像力をベースに、常に手を動かしながら考え、イマジネーションを具現化するための精密な設計図面を描くエンジニア的側面を持ち合わせていたことがよく分かる。國府の作品は、機能を取り去られたオブジェではなく、実際に稼働可能であるものも多いからだ。
本展の後に見た「高松次郎 制作の軌跡」展も、「作品」として公開される以前のドローイングや紙の仕事を多数展示したものであったが、本展もまた、作家の思考の足跡が多角的に浮かび上がる貴重な機会だった。ただこれらは「完成作」として公開を前提に描かれたものではないため、とりわけ作家の死後は、誰がいかなる基準でどのように管理するのかが問題になる。もちろん作家の研究資料としての価値はあるが、例えば、捨てられてしまうようなチラシの裏の落書きを保管するか/しないか、どこまで公開するかの選択は、誰のどのような判断に基づくのか。残された資料を読み解き意味づけるのは歴史家の役割だが、アーカイブは潜在的に(複数の主体の)価値判断の問題をはらんでいる。

2015/03/28(土)(高嶋慈)

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