artscapeレビュー

2015年04月15日号のレビュー/プレビュー

赤城修司『Fukushima Traces 2011-2013』

発行所:オシリス

発行日:2015年3月20日

赤城修司は福島市で高校の美術教員をしながら、現代美術作家としても活動している。「3・11」以降、福島市内を中心に、日々変わり続けていく(変わらないものもある)「日常のなかの非日常」をカメラで記録し、ツイートしはじめた。そこから「2011年3月12日」から「2013年6月22日」までの写真と文章を抜粋しておさめたのが本書である。
赤城がカメラを向けるのは、商品が消えてしまったコンビニの棚、街中にあふれる「がんばろう福島」、「がんばろう東北」の標語、公園に設置された「リアルタイム線量計」などだが、次第に放射性物質の除染作業が大きなテーマとして浮上してくる。むろん、除染作業については新聞・雑誌、テレビなどでも報道されているのだが、赤城はあくまでもそこで暮らしている住人の目線で、淡々と、日常の延長として撮影を続けていく。汚染された土や草などをまとめて包み込んだブルーシートが、公園や道路脇、民家の庭などにも増殖していく光景はたしかに異様だが、それらをエキセントリックに強調しない節度が、赤城の記録作業には貫かれている。そこから導き出されてくる「「正しい」伝達なんて存在しない」という認識は、とても大事なものだと思う。ツイートした写真に対しては、「ダークツーリズムではないか」という批判を含めて、さまざまな反応が返ってきたようだが、写真に写された状況を、あえて判断保留まま提示していくことで、読者がそこから自分なりの見方を育てていく余地を残しているのだ。
ツイッターなどのSNSは、たしかに重要な「伝達」のメディアとして機能しているが、反面、感情的な反発を導き出したり、狭いサークル内で消費されるだけに留まったりして、なかなか広がりを持たない。その意味で、本書のような書籍化の試みはとてもありがたい。粘り強く「足元の僅かな傷跡」を記録し続けるという貴重な行為が、確かな厚みと手触りをともなって伝わってくるからだ。

2015/03/29(日)(飯沢耕太郎)

Site Specific Dance Performance #4

会期:2015/03/29

兵庫県立美術館 円形劇場およびミュージアムホール[兵庫県]

2009年から過去3回にわたり、神戸ビエンナーレ関連企画として兵庫県立美術館の屋外大階段で開催されてきた本企画。場所の特性を生かすサイト・スペシフィックな試みとして、ダンス作品の上演を行なってきた。今回は、元・具体美術協会の向井修二による記号アートで埋め尽くされた屋外円形劇場と、館内ホールにて計5作品が上演された。
屋外円形劇場という場所性がうまく作品の魅力を引き出していたのが、サイトウマコトと関典子のデュオ作品『鞄女』。円形舞台の背後は壁がなく、外に開かれているため、観客は、舞台上のダンサーとともに、背後の遊歩道やその先に広がる海を視野に入れながら鑑賞することになる。歩道から、大きな鞄を抱えた男(サイトウマコト)が現われる。鞄は生き物のように動き出し、中から腕が現われて雄弁に語り出し、やがて女(関典子)の全身が鞄の中から出現する。どこか無関心そうで寂しげな男を誘惑し、突き放し、翻弄する妖艶な女でありつつ、かと思うと初めて世界に触れるような瑞々しい仕草で駆け回る少女にも変貌する。関の優れた表現力と身体的技術が発揮され、外の歩道と半ば地続きの屋外という状況も相まって、日常の光景がふとした瞬間に官能的な夢幻の世界にすり替わったような印象を与えた。
また、館内ホールでの上演で興味深かったのが、冨士山アネットの『Attack On Dance/Short Ver.』。バレエ、モダンダンス、ジャズダンス、コンテンポラリーダンス、ヒップホップなど異なるダンス経験を持つ若いダンサー10名に対して、ダンスに関するさまざまな質問を投げかけていく、レクチャー形式のダンス作品である。ダンスを始めた年齢、経験したダンスの種類、出演した作品数、師匠の数など、答えの数値順に一列に並ぶ(並ばせられる)ダンサーたち。また、「観客がいなくてもダンスは成立すると思うか」「ダンスに師匠は必要か」「社会的な問題を扱った作品は苦手か」といった質問が投げかけられる場面では、舞台を二分するYes/Noのどちらかを選択しながら、ダンサーたちが双方を行き来する。質問とそれへの反応は面白く見つつも、多様な価値観や身体経験を数値化・二極化しようとするような還元的な暴力性も同時に感じてしまった。ラストでは、ノリノリの音楽がかかるなか、全員一斉にそれぞれが自分のソロ作品を踊るのだが、「独自性や個性を尊重しています」という言い訳にも見えてしまう。むしろ見せられていたのは、用意された質問という枠組みのなかで動かされ、右往左往するダンサーたち=振付された身体ではなかったか。

2015/03/29(日)(高嶋慈)

藤原敦「詩人の島」

会期:2015/03/26~2015/04/02

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

藤原敦は子供の頃に、ハンセン病患者を収容する長島愛生園がある岡山県長島を訪ねたことがあった。彼の叔父がその施設の事務部長を務めていたのだという。手つかずの自然に感動するとともに、島の住人たちの苛酷な運命に小さな胸を痛めた写真家は、35年後に島を再訪し、そこで衝撃的な言葉と出会う。「深海に生きる魚族のように 自らが燃えなければ何処にも光はない」。ハンセン病の歌人、明石海人が、歌集『白描』(1939年)の序文に記したこの言葉は、映画監督、大島渚の座右の銘でもあった。その後、4年おきに島を訪れて撮影した写真をまとめて展示したのが、今回の個展「詩人の島」である。
藤原の視線は、必ずしも明石海人の足跡のみを辿ろうとするのではなく、島の風物や愛生園の建物などに等価に向けられている。錆びた鉄の扉、もう使われていないトイレ、石室におさめられたマリア像などにカメラを向け、過去の時空へと想像力のベクトルを伸ばしていこうとする、揺るぎない意思がしっかりと伝わってきた。ハンセン病はたしかに患者たちに課せられた重い足枷なのだが、明石のようにその運命を逆手にとって、表現者としてみずからを燃やし続けようとした者もいる。そんな「詩人」たちの仕事に対する共感が、縦位置10点、横位置8点の作品に刻みつけられており、居住まいを正させるようないい展示だった。
なお展覧会にあわせて、蒼穹舎から同名の写真集が刊行された。『南国頒』(2013年、蒼穹舎)、『蝶の見た夢』(2014年、同)に続き、藤原の写真集は3冊目になる。どれもよく考え抜かれた構成の、クオリティの高い写真集だ。

2015/03/30(月)(飯沢耕太郎)

山下残『大行進、大行進』

会期:2015/04/03~2015/04/05

アトリエ劇研[京都府]

2010年初演の山下残の作品『大行進』を、山下自身と司辻有香(辻企画)との2バージョンとして連続上演する試み。舞台上を本物の線路が横切り、美術家カミイケタクヤによる粗大ゴミ捨て場か災害現場のような不穏な空間が広がる。
散乱したガラクタを一つ一つ拾い上げ、「熊」「リス」、「鳥がさえずる」といった単語や短文を発語するも、「なかなかダンスが生まれませんね~」とつぶやく弛緩した時間。空間内を探検し、手触りを確かめながら、モノや身体の動きを名指そうとする行為が反復され、速度を増し、ズレを生み出すうちに、言葉から乖離していく身体の動きが暴走的な様相を呈し始める。「右手、左手」「あれ、左手?右手?どっちだっけ」「小さく回して、大きく回して、ふくらんで」「小さく回して、大きく回して、ふくらんで、ドドドドライブ?」「ドドドラ、僕ドラえもん」。反復は一つの強度をもたらす一方で、意味を宙吊りにして解体し、言葉と身振りの乖離を増幅させていく。残骸のように漂う身振りと言葉のズレ、その破綻がダンスを瞬間的に駆動させる呼び水となる。
断片的な言葉を羅列しながら、フラフラとあてどなく歩き回る、ユルく脱力した時間と、発語した言葉と身体の動きのズレが増幅し、回路が暴走し、運動の密度を増していく時間が、交互に訪れる。弛緩と瞬間的な爆発。その中に、ゆらゆらと揺らめかせた手のひらの動きを「チョウチョ」と呼ぶ美しい一瞬も、梯子に上って高所に吊られた電球を「月」と呼ぶ自由な見立て遊びの時間も、「大洪水、大行進、大震災、大火災」というフレーズを繰り返し叫びながら両足を踏み鳴らし続ける狂気じみた時間もある。ここは自由な遊び場でありつつ、「大洪水、大行進~」のリフレインや「空から爆弾」といった強いイメージ喚起力を持つ言葉によって、大破壊が起こった後の廃墟へと変貌される。
このように本作は、作品内における反復・リフレインが特徴的だが、今回の上演においては、上演の構造それ自体がもう一つの反復性をはらんでいた。タイトルにある「、」の意味するところである。出演者の異なる2バージョンをなぜ連続上演したのか。名目上は「舞台技術スタッフの育成を目的としたワークショップ公演」を掲げているが、空間構成の違いと出演者の身体的差異(男性/女性、年齢、ダンサー/演出家・俳優、など)を伴って、2回繰り返して上演された『大行進、大行進』は、図らずも、舞台芸術作品の上演=反復なのか?という原理的な問いを提出していた。

2015/04/04(土)(高嶋慈)

mizutama「"Tsumaru - tokoro" the concluding exhibition of "tokoro"」

会期:2015/03/14~2015/04/20

アートスペースジューソー/#13[大阪府]

築60年の2階建木造アパートである新・福寿荘の建物内で、一年間、毎月2日間だけ、計12回にわたって開催された展覧会の集大成。私はこれまでの展示を見ていないが、年間展示で使われた素材や作品は段ボールに詰めこまれ、新たに制作された作品とともに展示/提示されていた。
気になる段ボールの中身は、一部しか見ることができず、しかも無造作に詰め込まれ、キャプションもないため、雑多なガラクタ類にしか見えない。というのは、mizutamaのつくる作品は、日常的な既成品を素材に、特別な技術も用いず、作為と無作為のあいだでたよりなく行き来するようなものだからだ。例えば、固形物と液体に分離されたマヨネーズ。第三者が何かを思い出すまでに口走った、脈絡を欠いた断片的な言葉の羅列。トーストをコピー機にかけて、「○枚切り」の数だけカラーコピーを取り、「エディション」として提示したもの。窓の外では、バケツの底に薄く張られた水の上に、表面張力で浮かんだプラスティック容器が、風に揺られて水面をスーッと滑っていた。「コンセプト」「ステートメント」の類はなく、作品同士の関連性も不明瞭で、ぶっきらぼうに投げ出されている。ただ、その水面に浮かんだ容器がスーッと生き物のように動いた瞬間には、何か心を動かされた。
日常的な素材の使用、スタイルの非統一性、技術の放棄、作家名と相まっての匿名性。とりわけ匿名性ということで私が想起したのは、昨年末に京都芸術センターで開催された「Stolen Names」展だった。この展覧会の挑発性は、「作品に関わるおよそすべての情報(あるいは手がかり)が盗まれた状態にある」として、作品名も作者名も非公表にし、ただ作品だけが提示された状態を提示したところにある。「盗んだ」のは誰か。なぜ「盗んだ」のか。一部が黒く塗りつぶされ伏字になった文章、紛争地帯の兵士と迷彩服のファッションモデルの写真を重ね合わせた作品、顔も名前もお互いに出さずに伏せたまま、Ustreamでしゃべり合うプロジェクト。もちろんここには、思想弾圧、言論統制への同時代的な危機感と抵抗の意志があるだろう。だが、そうした政治的な態度表明とは別に、「展覧会を見に来た観客に対して、私たちは情報を提供しているのではありません」という意志も感じ取れる。言語的情報は、視覚物としての作品を補い支える存在であるが、あえてそれらを一切取り払うことで、「情報の摂取がいかに普段の鑑賞体験に組み込まれているか」「それがいかに無意識化しているか」「見る導線が予めつくられてはいないか」といった問いを逆説的に浮かび上がらせる。賛否両論あるだろうが、この展覧会が投げかける問いには、一考の価値があるだろう。

2015/04/05(日)(高嶋慈)

2015年04月15日号の
artscapeレビュー