artscapeレビュー
2015年04月15日号のレビュー/プレビュー
ロバート・フランク「MEMORY─ロバート・フランクと元村和彦」
会期:2015/02/20~2015/04/18
gallery bauhaus[東京都]
1970年11月のある日、二人の日本人が当時ニューヨーク・バワリー・ストリートにあったロバート・フランクの部屋を訪ねた。そのうちの一人が元村和彦で、この訪問をきっかけにして、彼が設立した邑元舎から、フランクの写真集『私の手の詩』(1972年)が刊行された。その後、邑元舎からは『花は……FLOWER IS』(1987年)、『THE AMERICANS 81 Contact Sheets』(2009年)とフランクの写真集があわせて3冊出版され、彼らの交友も2014年夏に元村が死去するまで続くことになる。
今回のgallery bauhausでの展覧会は、その間にフランクから元村の手に渡ったプリントから、約50点を選んで展示している。そのなかには、これまで日本では未公開の作品、23点も含まれているという。この「元村和彦コレクション」の最大の特徴は、彼らの互いに互いをリスペクトしあう親密な関係が、色濃く滲み出ている作品が多いことだろう。たとえば、1994年にフランクが日本に来た時に撮影した写真をモザイク状に並べた作品には、元村以外にも、写真家の鈴木清、荒木経惟、『私の手の詩』の装丁を担当した杉浦康平、写真評論家の平木収らが写り込んでいる。また97年に、元村がフランクの住居があるカナダ・ノヴァスコシア州のマブーを訪ねた時のポートレートもある。1981年の「NEW YEARS DAY」に撮影された写真には「BE HAPPY」と書き込まれている。このような、挨拶を交わすように写真を使うことこそ、フランクの写真の本質的なあり方をさし示しているようにも思えるのだ。
気になるのは、この「元村和彦コレクション」が今後どのように管理され、公開されていくのかということだ。美術館に一括して収蔵するという話もあるようだが、ぜひ散逸しないようにまとまった形でキープしていってほしい。
2015/03/13(金)(飯沢耕太郎)
《日本勧業銀行台北支店》ほか
[台湾台北市]
台湾の桃園国際空港に到着し、第一ターミナルに寄って、まず團紀彦が改修した大空間を見学。今回は久しぶりに近代建築も再訪すべく、駅から南下し、《三井物産株式会社》《国立台湾博物館》《台北病院》などをまわる。1910、20年代の建築がよく残っており、自ら壊すオウンゴールが少ない。近年修復され、博物館になった《日本勧業銀行台北支店》の内部に入る。金庫展示室や修復保存の経緯・資料など、場所の使い方や展示デザインがとてもいい。また中央の吹抜けは、旋回するスロープや階段状の空間を設ける大胆なリノベーションである。これらが巨大な恐竜の骨組、古生物のインスタレーションを囲む。
写真:左上から、《桃園国際空港》《三井物産株式会社》《国立台湾博物館》 右上から、《台北病院》《日本勧業銀行台北支店》外観、同内観
2015/03/14(土)(五十嵐太郎)
A Tale of Two Cities - Lu Hsien-ming Exhibition: Glimpses of Cities ほか
会期:2015/01/17~2015/03/15
台北当代藝術館 MOCA Taipei[台湾台北市]
現代美術館に転用された《台北詔安尋常小学校》(1920)は、正面でバザールのようなイベントを開催中だった。A Tale of Two Cities展は、1階でLu Hsien-mingが台北の土木開発などに注目した作品、2階でKuo Wei-kuoがおじさんのかわいい幻想世界を展開した。Long-Bin ChenのBook Sculpture展は、タイトルどおり、大量の本を接合し、それらを削って造形をつくる力技のインスタレーションだった。帰りに乾久美子さんの《ルイ・ヴィトン》へ。ここを夜に訪れるのは初めてだったが、光の効果を確認することができた。
写真:左上から、《台北詔安尋常小学校》、Lu Hsien-ming、Kuo Wei-kuo 右上から、「Book Sculpture」展、《ルイ・ヴィトン 台北ビルディング》
2015/03/14(土)(五十嵐太郎)
井上裕加里展
会期:2015/02/28~2015/03/14
CAS[大阪府]
東アジア3カ国の近代史をベースに、可視的な線としての国境と、同じ原曲を共有しつつも歌詞の相違によって顕在化するナショナリズムの齟齬や対立について扱った、2作品で構成された個展。
国境線を主題にした作品では、1850年から現在の2015年に至るまでの、日中韓の国境線の変遷を、ギャラリーの床にチョークで書いていく過程が映像でドキュメンテーションされる。3色で色分けされた日・中・韓の国境線が、メルクマールとなる年ごとに書き換えられ、消されては新たに更新されていく。その書き換えの行為を、粗い粒子を持つチョークと、書いては消すという身体性を介入させることで、むしろ私たちが目撃するのは、一度引かれた線の完全な消去ではなく、消された(はずの)線の痕跡が堆積し、あるべき明確な線がぼんやりと曖昧化していく過程である。
また、《Auld Lang syne》は、元々はスコットランド民謡の「Auld Lang syne(オールド・ラング・サイン)」が、日本、台湾、韓国でそれぞれ異なる歌詞を持つ歴史的経緯に着目し、それぞれの国の人々にそれぞれの場所と言語で歌ってもらった映像作品。この曲は、日本では明治期に輸入され、「蛍の光」という唱歌として親しまれているが、現在では3番と4番の歌詞が歌われることはない。「ひとえに尽くせ 国のため」「千島の奥も 沖縄も 八洲のうちの まもりなり」といった愛国色の強い歌詞だからだ。また、台湾や韓国では、日本の統治時期の教育施策によって「蛍の光」が持ち込まれるとともに、独自の浸透をとげ、「民族復興」や国家への献身を歌う歌詞が付けられて歌われた。井上の映像作品では、同じメロディが異なる言語と歌詞で歌われる3つの画面が、並置して映し出される。通底して流れるメロディは懐かしさを覚えるおなじみのものだが、その上に不協和音のように折り重なる3つの言語。それは、帝国主義の浸透、その背後にある近代化=西洋化、国民国家という虚構の概念、歌詞の同質性とそのズレ、歌うという身体的経験の共有による共同体の成立、といったさまざまな問題を喚起させ、東アジア近代史がはらむ複雑な力学を浮かび上がらせていた。
2015/03/14(土)(高嶋慈)
川村麻純「鳥の歌」
会期:2015/03/07~2015/05/10
京都芸術センター[京都府]
前作《Mirror Portraits》では、インタビューを元に、映像による立体的なポートレートを制作し、母娘や姉妹といった女性同士の関係性に焦点を当て、個人の記憶や家族という親密圏について考察した川村麻純。本個展では、第二次世界大戦前後に生まれた日本人と台湾人の夫婦に着目し、インタビューや調査で聞き取った個人史を通して、日本と台湾の歴史を再考している。片方の展示室では、リサーチやインタビューの過程で収集した写真や地図、資料が展示され、もう片方の展示室では、6名の女性に行なったインタビューを元にした映像が展示されている。
ここで奇妙なのは、最初の展示室に置かれた写真や資料が指し示す時代と、結婚式や台湾での家庭生活について語る女性たちの年齢との落差である。彼女たちは30代~中年の女性であり、資料の示す時代に台湾で結婚したとは考えられない。実際には、映像内の女性たちは当人ではなく、いまは高齢であろう女性たちが語った個人史を、カメラの前で「語り直し」ているのである。こうした川村の手つきは、一見両義的である。リサーチやインタビューを行なって過去を丁寧に検証しつつも、本人のインタビュー映像をそのまま用いることをしない。つまり、本人の語る映像が不可避的にはらむ「当事者性」を手放しているのであり、それを自作品の「正しさ」として占有化していない。非当事者による「語り直し」の行為は、フィクションとの境界線を曖昧化していく。
このことはまた、過去を思い出して語ること、「過去の想起」という行為が、常に現在の視点からによるものであり、(意識的にせよ無意識にせよ)なんらかの編集や書き換えを含み込まざるを得ない、揺らぎを伴うものであることとも関係している。川村の試みは、日本と台湾の歴史的関係性、移民と個人のアイデンティティ、家族、ジェンダーといった問題を提起しつつ、演劇的手法と映像という媒体を通して、「真正なドキュメンタリー」の不可能性を提示している。
2015/03/14(土)(高嶋慈)