artscapeレビュー

2019年05月15日号のレビュー/プレビュー

KG+ 國分蘭「In The Pool」、平野淳子、叶野千晶「Shower room」

会期:2019/04/12~2019/05/12

五条坂京焼登り窯[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベント、KG+の会場のなかでも、例年、異彩を放つ五条坂京焼登り窯。五条坂など京都の東山山麓の一帯は、昭和30年代まで、数十基の窯が稼働する製陶業の一大産地として栄えた。多くの登り窯が操業を停止し、窯も失われた現在、操業当時の姿を留める貴重な歴史遺産であり、巨大な登り窯と作業場、煉瓦づくりの煙突が残されている。普段は一般非公開だが、KG+などアートイベントの会場として活用されている。今年は特に、場所の記憶に繊細な眼差しを向け、写真資料を用いて、あるいは歴史の潜在性と可視化するメディアである写真との拮抗関係を探る3人の女性写真家(國分蘭、平野淳子、叶野千晶)が、問題意識の共通性と差異という点でも目を引いた。

國分蘭は、出身地である北海道の留萌(るもい)が、かつてニシン漁で栄えた歴史に着目。ニシン漁は雇用を生み出し、「ニシン御殿」を建てるほど財を築く人もおり、一大産業として栄えたが、昭和30年代を境に漁獲量は激減した。だが現在、孵化させた稚魚をプールで飼育し、海へ放流する取り組みが行なわれている。また、産卵期のニシンが浜に戻ってくるようになり、オスが放出した精子で沖合が白く染まる「群来(くき)」という現象が再び見られるようになった。まだ雪を被った浜辺の彼方の海面が、薄いエメラルドグリーンのような色を帯びて輝く、神秘的な光景だ。プールで泳ぐ稚魚の群れは、人工的な設備や管理下に置かれながら、人間の介入を凌駕するほど生命力にあふれ美しい。

また、秀逸だったのが、登り窯の特異な空間性を活かした、資料写真の展示方法だ。ニシン漁で栄えた往時の記録写真は、洞窟か小さなトンネルのように開いた窯の入り口や窪みのなかに置かれ、鑑賞者は手持ちライトで照らさないと、よく見えない。「(そこにあるにもかかわらず)見る者が働きかけないと気づかない、よく見えない」という能動的・身体的関与を通して、文字通り「過去に光を当てる」営みは、歴史資料それ自体との向き合い方についても示唆的だった。


國分蘭「In The Pool」 展示風景


また、平野淳子は、2020年の東京オリンピックに向けて解体と建設工事が進む国立競技場の変容を継続的に撮影しつつ、この土地が国家的欲望とともにはらんできた重層的な歴史へと眼差しを誘う。全面建替工事にむけて競技場が解体され、池ができて、繁った草地を鳥が飛び交う様子は、モノクロで撮影されていることも相まって、江戸の街が形成される前の湿地の姿という遠い過去の残滓を呼び寄せる。一方、建設途上の様子は、直線が交差する構成的なアングルで切り取られ、著しい対比をなす。添えられた2枚の資料写真は、かつてこの地が、青山練兵場と、昭和18年の学徒出陣の壮行会会場であったことを示す。自然へと還る作用と人工性を行き来しつつ、2度のオリンピックと戦争という国家的欲望を刻まれた場所の歴史、さらには未来に到来する廃墟の残像さえも思わせるような不穏さに満ちていた。


平野淳子 展示風景


一方、叶野千晶の「Shower room」は、一見すると、ひび割れや青カビに蝕まれた朽ちかけの壁、あるいは厚塗りの地に青や白の絵具が滴った静謐な抽象画を思わせる。だが、「Shower room」というタイトルが示すように、これらは、ポーランドのマイダネク強制収容所のガス室の壁を捉えたものであり、青い染みは、一酸化炭素が送り込まれた部屋の壁にシアン化水素が付着して残ったものである。叶野は、資料写真の併用や収容所の外観を捉えることはせず、ただ「壁」の表面だけを凝視し続ける。それは、物理的には化学物質の痕跡だが、涙や血の堆積した跡のようにも見え、メタフォリカルな意味の読み取りを誘うとともに、「私たちが目にできるのは痕跡でしかない」という写真の事後性を突きつける。その営みは、「表象不可能性」というすでに手垢にまみれた諦念の身振りを、粘り強い凝視によって超えていこうとする意志を感じさせる。


叶野千晶「Shower room」 展示風景



© Chiaki Kano


「かつての窯の跡」という場所の歴史性も相まって、産業とその衰退、土を焼いて造形する「陶芸」とも共通する人為的介入と自然作用の関係、現実の窯の存在感や「焼成」のプロセスとも結びついてしまう「ガス室」の記憶など、写真表現を通した歴史的記憶への対峙について考える機会となった。

2019/05/12(日)(高嶋慈)

オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」

会期:2019/04/13~2019/05/20

ギャラリー素形[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッド・プログラムとして、ニューヨークで生まれ日本で育ち、2国のアイデンティティを踏まえて活動する写真家オサム・ジェームス・中川の個展が開催された。展示内容は、1990年代の初期作品をベースに、トランプ政権後のアメリカ社会の変容を意識して新たに制作した「Eclipse:蝕」と、自身の両親の死や老い、妻の妊娠、娘の誕生といった家族を通して生命と死を考える「廻:Kai」の2つのシリーズから成る。社会批評と極私的なプライベートという2つの対極的な軸から成る構成だが、両者に通底するのは、「写真イメージ」への自己言及性だ。

「Eclipse: 蝕」では、無人の荒涼とした風景のなかに、朽ちかけた巨大なスクリーンが壁のように建つ。これらは、野外の駐車場にスクリーンを設置し、車に乗ったまま映画を鑑賞できる「ドライブ・イン・シアター」の残骸である。1930年代にアメリカで始まった、車社会を象徴する娯楽であり、1950年代末~1960年代初頭に最盛期を迎えた。中川は、ハリウッド映画や大企業の広告が、「アメリカン・ドリーム」という虚構の神話を大衆に浸透させる一方で、宗教や人種的対立、移民労働、経済格差などの不都合な問題を隠蔽している構造への批判から、90年代に「ドライブ・イン・シアター」と「ビルボード」のシリーズを制作した。本展でも紹介されたこれらの作品では、荒れ果てた風景のなかに建つ巨大スクリーンに、KKK(白人至上主義者)のデモや移民労働者のイメージが合成され、「隠蔽された社会的真実が当の隠蔽装置それ自体を用いて上映・広告されるが、誰も見る者はいない」という強烈な皮肉を放つ。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、トランプ政権成立後に制作された「Eclipse:蝕」では、スクリーンには何も投影されず、ただ空白のみが提示される。よく見ると、スクリーンの背後の鬱蒼とした木立や手前に生い茂る植物、散乱したゴミの一部はネガポジ反転され、視界が奇妙に歪む。暗く沈んだ空も時間の把握を狂わせ、「日蝕」のように夜なのか昼なのか、現実なのか虚構なのか判然としない空間が立ち現われる。同一画面におけるネガとポジの入り組んだ混在は、ポジ(ハリウッド映画やメディアが喧伝する多幸的な未来)とネガ(それらが破綻したディストピアの荒廃)が同居する社会の像とメタフォリカルに重なり合う。こうした「Eclipse:蝕」には、90年代の過去作品のネガをデジタルに起こしたものと、新たに撮影されたものとが混在する。それは、アメリカ社会のかつての繁栄と現在の荒廃、自作の過去と現在といった時間の層を何重にもはらみ込みつつ、入れ子状になったスクリーンの空白は、未来の展望の不在、視覚イメージの飽和、不気味な沈黙の圧力、そしてイメージが消去された検閲的状況さえ匂わせる。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、もうひとつのシリーズ「廻:Kai」では、遺影のようなポートレートが暗示する父親の死や不在、老いていく母親の身体、妊娠した妻、娘の誕生と成長といった自身を取り巻く家族の生と死が、象徴的なイメージとともに紡がれる。ナチュラルな木枠と黒枠のフレームが二対になった構成は、生命/老いや死のイメージを対置させるが、氷漬けにされた写真、その解けかけた様子が示唆する記憶の凍結と解凍、ガラスに反映したカメラを構える自己像、無邪気にカメラで遊ぶ娘を挟んで両脇に落ちる自身と妻の影、スクリーンや皮膜を思わせる存在の挿入など、「写真」への自己言及的な眼差しに満ちていた。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]

2019/05/12(日)(高嶋慈)

カタログ&ブックス│2019年5月

展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます




視覚的無意識

著者:ロザリンド・E・クラウス
翻訳:谷川渥、小西信之
発行:月曜社
発行日:2019年3月29日
定価:4,500円(税抜)
サイズ:四六判上製、528ページ

モダニズムの眼が抑圧している欲望とはなにか? エルンスト、デュシャン、ジャコメッティ、ベルメール、ピカソ、ポロックらの作品のなかに近代の視を土台から蝕むものたち(『レディメイド」、「肉体的なもの」、「不定形」、「脈動」、「低さ」、「水平性」、「重力」、「痕跡」……)を、フロイト、ラカン、バタイユらの理論を援用しながら見出す試み。モダニズムの中核をなす「視覚性」概念を、主体の精神分析を採り入れつつ批判的に分析する、現代最重要の美術批評家の主著、待望の日本語全訳。
原書: The Optical Unconscious, The MIT Press, 1993.

イメージ学の現在 ヴァールブルクから神経系イメージ学へ

編集:坂本泰宏、田中純、竹峰義和
発行:東京大学出版会
発行日:2019年4月30日
定価:8,400円(税抜)
サイズ:A5判、550ページ

ドイツ語圏を中心にイメージをめぐる現象の研究に新しい次元を開拓しているイメージ学の現在を、この分野のパイオニアや新進気鋭の研究者たちの論考によって一望し、比較美術史から写真・アニメーション研究、メディア論にいたる日本の論者たちの成果を集成するイメージ研究の最前。

Multiple Spirits マルスピ vol.2

編集:丸山美佳、遠藤麻衣
表紙イラスト:遠藤麻衣
インタビュー:百瀬文 x 多田佳那子 x 遠藤麻衣「おしゃべりは終わらない」
エッセー:松川朋奈「Love yourself」
論考:人見紗操「アイ・ドント・ライク・ユー」
論考:エスター・カタリン「赤衣のマリー:哀悼と闘志の政治的主体性」
四コマ漫画:山本悠「ブラジャーくん」
プロジェクト:毒山凡太朗「Public archive」
エッセー:渡梓
試論:内海潤也「キュレーションにおけるジェンダー」
翻訳:アレクサンドラ・ピリチ、ラルカ・ヴォイネア「ガイナシーンのためのマニフェスト – 新たな地質年代についてのスケッチ」
発行:Multiple Spirits
発行日:2019年1月30日
定価:1,200円(税抜)
サイズ:A5判、116ページ

Multiple Spirits(マルスピ)は、2018年に丸山美佳と遠藤麻衣によって始められた日本発の日英バイリンガルのクィア系アートZINEです。日本国内のアートや社会文化を含む、国際的なクィアのアートや言説など、様々な角度から芸術活動の紹介をします。社会内部に存在するあらゆるジェンダー、人種、階級の差別解体を視野にいれ、歴史的なフェミニズムの流れを汲みながら、異性愛を規範とする社会への違和感を指し示す言葉として「クィア」を暫定的に使っています。

発行元より]
『ナイトクルージング』ドキュメントブック

構成・編集:田中みゆき
デザイン:長嶋りかこ、真崎嶺(village®︎)
写真:大森克己、加藤甫
協賛:株式会社Studio Gift Hands
発行:一般社団法人being there、インビジブル実行委員会
発行日:2019年3月30日
定価:1,200円(税込)
サイズ:B5判変型、52ページ

見えない監督の映画に、あなたは何を“観る”か? 生まれながらの全盲者の映画制作を追うドキュメンタリー映画のドキュメントブック。佐々木誠や田中みゆき、三宅唱などの寄稿文やスタッフコメントなどを掲載。

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2019年4月1日号artscapeキュレーターズノート|「見えない映像を観ることについて」──『ナイトクルージング』試写会レポート(田中みゆき)

HAPS 事業報告書 2018年度

企画・編集:HAPS 実行委員会事務局
編集:松永大地
デザイン:吉田健人、金原由佳(bank to LLC.)
写真:賀集東悟、金サジ、小檜山貴裕、中谷利明、成田舞、前谷開、守谷友樹
印刷:有限会社修美社
協力:石塚源太、井上亜美、小笠原邦人、上川敬洋、川田知志、黒嵜想、谷澤紗和子、手塚美和子、中田有美、マイケル・ウィッテル、山田創平、山本麻紀子
発行:企画・編集:東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)実行委員会
発行日:2019年3月31日
価格:非売品
サイズ:A4判変型、52ページ

東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)の2019年度の活動をドキュメントしたアニュアルブック。一年間を通じて施設の内外で行なわれた多様なプロジェクトなどを豊富な写真とともに紹介。

ある編集者のユートピア 小野二郎:ウィリアム・モリス、晶文社、高山建築学校

学術協力:川端康雄(日本女子大学教授)
編集:矢野進(世田谷美術館︎)、遠藤望(世田谷美術館︎)、三木敬介(世田谷美術館︎)、橋本善八(世田谷美術館︎)
編集補助:鶴三慧、新宮和聖
タイトル文字デザイン:平野甲賀
デザイン:桑畑吉伸
制作:リーヴル
印刷:光村印刷株式会社
発行:世田谷美術館(公益財団法人せたがや文化財団)
発行日:2019年4月26日
定価:2,500円(税込)
サイズ:B5判、240ページ

【企画展概要から】
編集者にしてウィリアム・モリス研究家の小野二郎(1929-1982)が生涯を通して追い求めたテーマがユートピアの思想でした。弘文堂の編集者を経て、1960年には仲間と晶文社を設立、平野甲賀の装幀による本が出版社の顔となります。一方では明治大学教授として英文学を講じる教育者でもありました。晩年には飛騨高山の高山建築学校でモリスの思想を説き、そこに集った石山修武ら建築家に大きな影響を与えました。W・モリス、晶文社、高山建築学校の3部構成で小野二郎の“ユートピア”を探ります。

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2019年5月15日号オススメ展覧会|ある編集者のユートピア 小野二郎:ウィリアム・モリス、晶文社、高山建築学校



※「honto」は書店と本の通販ストア、電子書籍ストアがひとつになって生まれたまったく新しい本のサービスです
https://honto.jp/

2019/05/14(火)(artscape編集部)

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木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』

発行所:イースト・プレス

発行日:2019/01/20

ブロガー・文筆家として活動する木澤佐登志(1988-)のデビュー作である本書への反響は、刊行から約4ヶ月が経った現在においても止む気配がない。おそらく本書をまだ手に取っていない読者のなかにも、ウェブ上で「加速主義」や「ヴェイパーウェイブ」についての著者の記事を目にしたことのある者は多いだろう。これらはいずれもオンラインの『 現代ビジネス』に掲載されたものであり、ここから本書に誘導された読者も少なくないはずだ。

先のウェブ記事と同様のジャーナリスティックな文体で書かれた本書は、「ディープウェブ」および「ダークウェブ」と呼ばれる、ネット上の特定領域に対するありがちな誤解を解くことから始まる。ディープウェブとは、Googleをはじめとする検索エンジンがインデックス化することのできない領域を指す言葉であり、これはインターネット上の全コンテンツの96%を占めるという。膨大な数字だと思われるかもしれないが、身近な例で考えてみても、WebメールやSNSの非公開アカウントなど、私たちはパスワードがなければアクセスできない「秘密」の領域をウェブ上に膨大に確保しているはずだ。これに対しダークウェブとは、俗に考えられるようなディープウェブのさらに「深い」領域などではまったくなく、TorやI2Pといった専用のブラウザやソフトウェアさえあれば、基本的には誰にでもアクセスできる。なおかつその規模も、ディープウェブに比べればさして大きなものではない。つまり、ディープウェブとダークウェブは「端的にいってまったく別の領域」であり、ディープウェブよりも深い領域にダークウェブという「不可視で広大な領域が広がっている」というイメージは「幻想」にすぎない、と著者は早々に指摘する(34頁)。

しかしそうは言っても、そうしたダークウェブのなかに、いわゆる「アングラ」な領域が数多く存在することもまた確かだ。先のような「都市伝説」を退けたうえで、本書の中盤では、犯罪やポルノの温床としての「ダークウェブ」のいくつかのケースと、その運営者たちが共有する思想的な背景、さらにはそれを取り締まる側との情報戦の一部始終が詳らかにされる。しかしそこでも終始一貫しているのは、アクセスした者の身元を秘匿する「暗号化技術」こそがダークウェブの核心であり、ゆえにそれはインターネットの黎明期から脈々と継承されてきた「自由」の思想を抜きに語ることはできない、という著者の構えである。

本書に対する書評・レビューのなかには、その内容に関する記述の偏りや誤りを指摘するものも少なくないが、それは同書のテーマを考えればやむをえないところもあるだろう。本書の意義は、ともすれば膨大な事例の紹介に終始しがちな「ダークウェブ」の一側面を書籍というパッケージによって切り取り、現時点におけるその姿を首尾よく凍結せしめたことにある。いまやすべてが現実と地続きになったかに見えるウェブ上にあっても、「アンダーグラウンド」な領域は確実に存在するし、その実相に近づくには、日進月歩を続ける暗号化技術についての知識が不可欠となる。その一端を垣間見せんとする本書は、昨今急速に失われつつある、かつての仄暗い「サブカルチャー」批評のエッセンスを継承している(のみならず、「補論1  思想を持たない日本のインターネット」では、その事実に対する俯瞰的な視点も確保されている)。

前述の『現代ビジネス』の記事のなかでもとりわけ人々の耳目を集めたのは、『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の終盤で紹介される上海在住の思想家ニック・ランド(1962-)、および彼の「暗黒啓蒙(Dark Enlightenment)」というテクストを中心に広がる「新反動主義」との関係であった。そちらの記事を読んでから本書を手に取った読者は、これにまつわる記述の分量にいささか物足りなさをおぼえたかもしれない。しかし、どうやら著者はすでにこの問題にも本格的に取り組んでいるようだ。以上のような関心のもとに本書を手に取った読者には、間もなくの刊行が予告されている『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)との併読を勧めたい。

2019/05/14(火)(星野太)

中島那奈子・外山紀久子編著『老いと踊り』

発行所:勁草書房

発売日:2019/02/20

野心的な論集である。本書『老いと踊り』の主題は、その簡素なタイトルがこれ以上なく適切に伝えているが、その背後に控える問題は複雑かつ重層的だ。そこでこの場では、おもに編者のひとりである中島那奈子の序章「老いのパフォーマティヴィティ」に即して、本書が射程に収める問題系をなるべく遺漏なく紹介しておきたい。

まず、ごく一般的な前提として、現代社会が過去経験したことのない規模で「老い」の問題に直面していることは衆目の一致するところだろう。とりわけ日本は、65歳以上の人口が約28%を占めるという超高齢化社会を迎えている。こうした時代状況のなかで、経済学や社会学のみならず、哲学をはじめとするヒューマニティーズの領域でも「老い」についての考察が着々と進められている(たとえばヌスバウムや鷲田清一)。そのうえで中島は、ダンス研究において老いの問題を主題化することに伴うパラダイム・シフトとして、さしあたり「技術的転回」(老いと生政治)、「美学的転回」(老いとアブジェクション)、「芸術的転回」(東西の舞いと踊りの相違を含む横断的アプローチ)の3つを挙げる(なお、丸括弧内のフレーズは筆者の観点からの概括である)。とくに最後の点に関しては、コンテンポラリー・ダンスを牽引してきたジャドソン教会派のダンサーの高齢化という個別的な事情にも触れられており、ここだけでも多くの示唆に富む。各分野の理論的な動向にも十分に目配りのきいた、文字通り本書の基調をなすイントロダクションである。

以上に象徴されるような主題の広がりが、本書をそれぞれ異なる関心をもつ読者に送り届けることに成功している。つまり、昨今ますます喫緊の課題となりつつある「老い」そのものに関心を寄せる者、あるいは従来の社会では周縁に置かれていた「老い」の美学的ポテンシャルに期待を寄せる者、さらには(コンテンポラリー・ダンスを中心とする)芸術ジャンルとしてのダンスにおける老いと表現の関係に関心を寄せる者——。読者はそれぞれの関心に応じて、全12章からなる各論にアクセスすることができるだろう。

他方、通読してやや気になったのは、本書の各論が、しばしば同じ話題や対象をめぐって旋回していたことだ。むろん「老いと踊り」というテーマに真摯に向き合おうとするとき、大野一雄、ピナ・バウシュ、イヴォンヌ・レイナーといった表現者たちの実践を抜きにすることはほとんど考えられない。だが、各論の事例がこれらの人々に集中することの意味は、おそらくまた別途考えられるべきだろう。若く屈強な身体を前提とする西洋の「踊り」と、伝統的に高齢者の身体を尊重する日本の「舞い」を比較対照するという視点についても、おそらく同様のことが言える。その意味でいえば、「番外編」と銘打たれたもうひとりの編者・外山紀久子による最終章「旅立ちの日のための「音楽」(ダンスも含む)」は、かならずしも踊りに照準を合わせたものではないものの、ファイン・アートの外にあるさまざまな芸術的実践に光を当てることで、本書のさらなる「先」を垣間見せるものであった★1

いずれにせよ、ダンスにかぎらず、芸術一般における「老い」の問題が未開拓の領域であることに変わりはない。本書は、編者たちの類稀なパトスによって、その未踏の領野を果敢に切り開くことに成功している。


★1──いくぶん個人的な註記になるが、筆者がこのようなことを考えた理由としては、かつてアーティストのミヤギフトシとの対話のなかで、ヴォルフガング・ティルマンスの個展「Your Body is Yours」(国立国際美術館、2015)における、アーティスト本人の(!)不格好なダンスを写した映像作品が話題になったことが関係しているように思われる。この話題は『美術手帖』2015年11月号における2人のクロスレビューがそれぞれ「老い」の問題を扱っていたことを直接的なきっかけとし、後に次のトークイベントへと結実している。星野太×堀江敏幸×ミヤギフトシ「老い、失われる記憶と生まれる物語」(VACANT、2016年11月27日)。

2019/05/14(火)(星野太)

2019年05月15日号の
artscapeレビュー