artscapeレビュー
ヨコハマトリエンナーレ2014
2014年08月15日号
会期:2014/08/01~2014/11/03
横浜美術館+新港ピア[神奈川県]
美術館前にはゴシック趣味の装飾過剰な、それゆえ霊柩車を想起させるヴィム・デルボアのトレーラー型の彫刻が鎮座し、エントランスを入ると正面にマイケル・ランディの透明な巨大ゴミ箱が置かれ、底にまだ少ないとはいえ美術作品(のできそこない)が捨てられている。なかなか趣味のいい導入だ。アーティスティック・ディレクター森村泰昌の設定したテーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」というもの。忘れられたものや役に立たないものに目を向けさせるのが芸術の力だ、ということらしい。このテーマに沿って計65作家の作品が序章も含め12話の挿話に仕立てられている。第1話「沈黙とささやきに耳をかたむける」にはマレーヴィチ、ジョン・ケージ、アグネス・マーティン、村上友晴らの作品が並ぶが、これらをミニマルとかコンセプチュアルとかにカテゴライズせず、「沈黙とささやき」として耳を傾けようというのだ。ベルイマンの映画を思い出させるサブタイトルも含めて、70年代を知る者には涙がちょちょぎれる展示。この1室だけ見ても、これまでの国際展とは違ったものをつくろうとしていることが理解できる。
さらに第2話、3話……と見ていくと、キーンホルツやボエッティ、ジョセフ・コーネル、ピエール・モリニエ、中平卓馬、福岡道雄ら懐メロ作家が多数を占めるなか、タリン・サイモンや毛利悠子ら若手が顔を出すかと思えば、戦時中に大政翼賛的だった文学者たちの書籍を集めた大谷芳久コレクションや、「抵抗の画家」として知られた松本竣介の書簡も公開するなど、かなりはっきりと色を出している。それがどんな色であれ、鑑賞者に解釈を委ねるといって明確な態度を示さない職業キュレーターに比べれば、よほどスリリングだ。もうひとつの会場、新港ピアのほうは会場がバカでかいうえ、ブースで囲われた映像作品が多いのでガランとしている。目立つのは、やなぎみわのドハデな移動舞台車と、ガラクタを寄せ集め煙を噴く大竹伸朗の《網膜屋/記憶濾過小屋》あたり。でも「華氏451の芸術」にふさわしいのは、第2次大戦中に美術品を避難させて空っぽになったエルミタージュ美術館を映像で再現しようとしたメルヴィン・モティの《ノー・ショー》と、みずからの被爆体験に基づき廃棄物を焼いて固めた殿敷侃のオブジェではないかしら。どちらも目立たないし、楽しめるもんではないけれど、心に染み入る作品だ。
ひととおり見て、テーマに関してはともかく、未知のアーティストの興味深い作品に出会えたのはよかった。キャンバスを型取りしたなかに絵具を塗り重ねていったカルメロ・ベルメホの疑似タブロー、マットレスや箱などとるにたらないものばかり描くザン・エンリの絵画、自分の噛んだガムのカスで彫刻をつくって撮影したアリーナ・シャボツニコフの写真などがそうだ。また、木村浩、福岡道雄、殿敷侃、林剛と中塚裕子、釜ヶ崎芸術大学など、忘れられかけた作家や関西ローカルなプロジェクトを紹介したのも意義深い。展覧会はていねいにつくり込まれているし、森村色が明快に出ていて好感がもてた。よくも悪くも展覧会全体が森村の作品になっている。とはいえ、たとえば冒頭のマレーヴィチは森村のストーリーづくりに欠かせない素材だったかもしれないが、出品されたのが素描と版画集ではものたりない。名前より作品で選んでほしかった。もうひとつ、同じようなことだが、国際展というものが内外の新しいアーティストや美術の現在を紹介するものだとすれば(という考え自体もはや時代遅れかもしれないが)、今回は国際展というより、森村をゲストキュレーターに招いた横浜美術館の大型企画展というべきものだ。まさに「モリエンナーレ」。
2014/07/31(木)(村田真)