artscapeレビュー
2015年09月15日号のレビュー/プレビュー
大地の芸術祭──越後妻有アートトリエンナーレ2015
会期:2015/07/26~2015/09/13
越後妻有地域 (新潟県十日町市、津南町)[新潟県]
今日は合宿の最終日。まずはまつだい農舞台へ。ここでの見どころは、福住廉企画の「今日の限界芸術百選」展と、イリヤ&エミリア・カバコフの新作《人生のアーチ》。前者は華道家、パンクバンド、風呂屋のペンキ絵師など30組近い限界芸術家が出品するアウトサイダー系アートの祭典。入口正面に植物とガラクタを組み合わせたいけばなを出品し、屋外には自家用車にチョンマゲをくっつけた《暴走花いけ限界チョンマゲ号》を展示している上野雄次は、いけばなとしては異端だろうけど、現代美術としてはフツーかもしれない。逆に、羽生結弦、滝川クリステル、マララ・ユスフザイを墨絵で描いて軸装した高橋芳平は、素人絵としてフツーだが、現代美術としては異端というほかない。最近ノリダンとかサンドラムとか楽器を鳴らして歌い踊りながら練り歩く音楽集団が脚光を浴びてるが、切腹ピストルズも野良着姿で太鼓や三味線などを鳴らして十日町から松代まで2日がかりで踏破したという。これは見たかったなあ。城山を少し登ったところにカバコフの新作がある。斜面を平地にして(もともとなにかあった場所なのか、わざわざ造成したのか)アーチをかけ、上に五つの人生の場面を表わした彫刻を載せているが、この芸術祭の象徴的存在にもなった《棚田》に比べ、なんでこんなところにこんなものを、というのが正直な感想だ。
松代エリアではほかに、大巻伸嗣、アネット・メサジェ、イ・ブル、日比野克彦の《明後日新聞社文化事業部》、日芸の彫刻コースによる《脱皮する家》と《コロッケハウス》、丸山純子などの新旧作品を見て回ったが、これらはすべて空家か廃校を利用したプロジェクト。いずれも廃屋の気配を生かしつつ空間全体を作品化しているが、逆にいえば廃屋の空気に引きずられて発想が似通ってしまってないか。大巻、メッサジェ、イ、丸山らはそれぞれ独自の発想に基づいて制作しているのに、後で思い出してみるとどれも暗くて陰鬱な印象しかない。お昼は古郡弘の作品のあるおふくろ館で昼食をとって、ボルタンスキー+カルマン、塩田千春の旧作を見て、津南町の砂防ダムへ。ここは2011年の地震で土石流の被害にあった場所。磯辺行久の《土石流のモニュメント》は、その被災範囲を示す黄色いポールを立てたものだが、巨大な円柱を四つ並べたダムの存在感が強すぎて、黄色いポールはほとんど目に入らない。津南町の市街地に下りて、旅館だった建物を幻想的な空間に変えた原倫太郎+游と平石博一による《真夏の夜の夢》へ。走馬灯をはじめ素朴な作品が多く、とくに『北越雪譜』のページをめくるとイラストが本の前のスクリーンに立ち上っていくという松尾高弘の映像インスタレーションが秀逸。空家プロジェクトはアブラモヴィッチにしろボルタンスキーにしろ重苦しいインスタレーションが多くなりがちだが、彼らやコインランドリーを改造した「目」みたいにもっと楽しい作品があってもいい。
マウンテンパークの蔡國強と本間純の旧作を再訪して、最後にアントニー・ゴームリーの《もうひとつの特異点》へ向かったが、ここで残念な事態に遭遇した。17:30閉館だったので飛ばしてなんとか17:26に着いたら、おばちゃんがシャッターを閉めるところ。あわてて「もう終わり?」とたずねると怪訝そうな顔してなにも答えない。こりゃお客さんかと思ってなかに入ると、そのおばちゃんが「もう遅いわよ、帰るんだから」と実に不機嫌そう。なんとかなだめてパスポートに判を押してもらうが、放り投げるように返してくる。明かりをつけてなかに案内してくれたものの、「時間がないから詳しい説明はしないよ」「早く出てってほしい」などとあからさまにいわれ、ものの5分も経たずに追い出されてしまった。時間を見たら17:31。たった1分しか超過してないし、時間内の4分は文句たらたら言われながらの鑑賞となった。越後妻有の人たちは朴訥ながら気持ちよく接してくれるし、こへび隊の人たちもみんな礼儀正しくあいさつしてくれるのに、最後の最後にこういう心ない対応をされたのはまことに残念。でもまあ、全員がニコニコしてたら気持ち悪いし、たまにはプンプンしてる人がいたほうが世界は多様だと気がつくから許そう。
2015/08/18(火)(村田真)
村野藤吾の建築─模型が語る豊饒な世界
会期:2015/07/11~2015/09/13
目黒区美術館[東京都]
目黒区美術館のエントランスホールで待ち合わせをしようとしたらダメと言われた。つまり、館内に無料ゾーンがまったくない。ホームレス対策なのかもしれないが、暑いのに外で待てということか。さらにホールにある展示品がない空間を撮影したら強制消去させられた。ここは一応、税金を使う「公共」の美術館だと思うが、疑問を感じざるをえない。
気を取り直して「村野藤吾の建築」展を見る。いきなり不愉快な思いをしたせいで、同じ建築模型展だが、東京都現代美術館のニーマイヤー展の開放感との対比が余計強く印象に残った(これを企画した京都工繊に罪はないと思いますが)。ともあれ、村野のかたちのバリエーションの豊かなことに感心させられる。特に模型で見ると、上からのぞき込むため、塔屋の形態が面白いことに気づかされる。
2015/08/18(火)(五十嵐太郎)
アール・デコの邸宅美術館 建築をみる2015 + ART DECO COLLECTORS
会期:2015/07/18~2015/09/23
東京都庭園美術館[東京都]
リニューアルした東京都庭園美術館「建築をみる2015 + ART DECO COLLECTORS」展へ。後者は松本ルキのカッサンドル、イセの家具、大村清一郎のラリックのコレクションを紹介する。今回は建物を見せるべく、館内を自由に撮影できる素晴らしい機会だった。お金をかけてちゃんとつくった建物は、時が経ってもよいことがわかる。
2015/08/18(火)(五十嵐太郎)
初沢亜利「沖縄のことを教えてください」
会期:2015/08/15~2015/09/06
Bギャラリー[東京都]
初沢亜利はこれまでの写真家としてのキャリアの中で、イラク戦争下のバグダッド、震災後の東北、北朝鮮を長期取材し、写真展と写真集の形で発表してきた。そして、今回は2013年後半から1年3ヶ月にわたって沖縄に滞在し、撮影を続けた。その成果をまとめたのが、新宿・Bギャラリーで開催された写真展「沖縄のことを教えてください」と、赤々舎から刊行された同名の写真集である。
こうしてみると、初沢が選択した被写体が、人々の関心を強く引きつけるニュース性の高い場所であったことがわかる。見方によっては、スクープカメラマンすれすれの行為と見なされても言い訳はできないだろう。だが初沢は、そのような視線と情報とが「インターフェイス」として集中する場所に身を置くことを、あえて意識的に自らに課し続けてきたのではないかと思う。
今回の沖縄滞在にしても、それがきわめてむずかしい条件を背負っていることを、初沢は充分に意識していた。つまり沖縄のような場所で、「ノンケのナイチャー(内地人)」として写真を撮り続けることは、「政治的権力位置」を問われる行為であるということを最初から知りつつ、その矛盾にあえて身をさらすことを選びとっていったのだ。にもかかわらず、というべきだろうか。写真にあらわれてくる沖縄の2013~14年の光景は、くっきりと鮮明で、明るくのびやかなエネルギーに満たされているように見える。歴史や文化の深層に足を取られ、情念の泥沼に落ち込むことをぎりぎりで回避しつつ、あくまでも表層のざわめきにこだわり続けることで、ある意味貴重な「ノンケのナイチャー」による沖縄の像が浮かび上がってきた。従来のフォトジャーナリズムとは一線を画す「個人的な眼差し」によって貫かれた、いい仕事になったのではないかと思う。
2015/08/20(木)(飯沢耕太郎)
本城直季「plastic nature」
会期:2015/07/30~2015/09/12
nap gallery[東京都]
東京・千代田区のアーツ千代田3331内のnap galleryが、同じ建物の中で移転して新装オープンした。手狭だった以前のスペースと比較すると、面積的には3~4倍になり、ゆったりとした展示を楽しめるようになったのは、とてもよかったと思う。
そのこけら落としとして開催されたのが、本城直季の新作展「plastic nature」である。この展示については、水戸芸術館現代美術センターの高橋瑞木が、リーフレットに寄せた文章で以下のように論じている。それによれば、今回の北海道と長野の森と山を撮影した新作は「明らかに彼の旧作と一線を画している」。旧作では大判カメラのアオリの機能によって、画面の一部にのみピントが合って、「ミニチュアの模型」のような感情移入しやすいイメージが生み出されていた。ところが新作では「上空から見る山林の表面だけ」がフレーミングされており、人間も写っていないので、フォーカシングのポイントがはっきりせず、「抽象的でオールオーバーな画面」が成立している。抽象化されている分、観客は具体性や指示性を欠いた画面に戸惑い、「鑑賞者自身の想像力や思考を投影することを余儀なくされる」というのだ。
この高橋の議論は、本城の新作の意図を、とても的確に代弁しているように思える。あまり付け加えることもないのだが、「鑑賞者自身の想像力や思考を投影」ということでいえば、ヘリコプターからの空撮という手法も含めて、松江泰治の「JP」シリーズと比較したい誘惑に駆られる。ボケとシャープネスという一見正反対な画面から受ける印象が、意外に似通ってくるのが興味深い。
2015/08/20(木)(飯沢耕太郎)