artscapeレビュー

2015年09月15日号のレビュー/プレビュー

広島・長崎 被爆70周年──戦争と平和展

会期:2015/07/25~2015/09/13

広島県立美術館[広島県]

日帰りで広島へ。今年は被爆70周年ということで、核や戦争を巡る展覧会がいくつか開かれている。まず広島県立美術館の「戦争と平和展」。ここは初めて訪れるが、思ったより大きく、地上3階、地下1階建てで、「戦争と平和展」は2階の常設展示室を使っている。ちなみに3階の企画展示室では「藤子・F・不二雄展」を開催中で、館内は子どもたちでにぎやかだが、残念ながら子どもたちは2階には行かないようだ。「戦争と平和展」は頭に「広島・長崎 被爆70周年」とあるように、長崎県美術館との共同企画で、両館のコレクションを中心とする展示(秋には長崎にも巡回)。19世紀初めのナポレオン戦争から20世紀の二つの世界大戦を経て現代まで、約170点の絵画、版画、写真、彫刻で構成される。前半(第2次大戦前まで)は西洋美術がほとんどだが、ゴヤの「戦争の惨禍」シリーズや、オットー・ディックスの「戦争」シリーズなど版画が大半を占め、油彩は数えるほどしかない。とはいえディックスの表現の強さにはあらためて驚かされる。ハイライトはやっぱり第2次大戦中の戦争画で、宮本三郎《南苑攻撃図》、小早川篤四郎《印度洋作戦》など10点ほど出ている。絵画としておもしろいのは、出征する兵士を見送る様子を20数人の表情だけで表わした阿部合成《見送る人々》、闇夜のなか画面中央に高射砲を映し出すスクリーンを描いた鍋井克之《戦況ニュース「納涼映画会」》、中国戦線で休息中の兵士たちの横に銃後の日本の農村風景が幻出する花岡萬舟《銃後ト戦線ノ勇士》などだ。
敗戦後は被爆写真とともに、丸木位里・俊《原爆の図》、福井芳郎《ヒロシマ原爆(産業奨励館1947)》といった被爆の惨状を描いた作品や、香月泰男「シベリア・シリーズ」、浜田知明の版画シリーズ「初年兵哀歌」など自らの戦争体験を描いた作品が並ぶ。被爆者の平山郁夫は広島の空一面を朱に染めた《広島生変図》も出してるが、それより興味深いのは原爆を投下したエノラ・ゲイを描いた水彩の小品。彼はどういう思いでこれを描いたんだろう。展覧会は被爆者の衣服を撮った石内都の「ひろしま」シリーズで終わってるが、いつものように会場を逆流してもういちど見て行くと、なんと戦争画の存在感のなさ、リアリティのなさが際立つことか。宮本三郎も小早川篤四郎も同展のなかではかなり大きなサイズ(200号大)で、しかもリアリズム表現に徹した絵画であるにもかかわらず、とくに敗戦後の打ちひしがれたような光景を描き止めた作品に比べると、まったくといっていいほど切実感がなく、リアリティに欠けてるように感じるのだ。もともと戦争画(作戦記録画)を依頼された画家は、従軍したとしても前線まで行かないし、すでに戦闘が終わった後の風景を見てスケッチするくらいで、多くは写真や兵士たちの証言を参考にして描いたものだから、リアリティがないのは当たり前といえば当たり前だけど、でもこんなに薄っぺらく感じたのは初めてのこと。逆にいえば、いくら技量に欠けていても、いくらデフォルメしていても、ディックスや香月のように実際に目撃したり体験したりした人の絵には目を釘づけにするだけの訴求力があり、ウムをいわせぬ説得力があるということだ。

2015/08/21(金)(村田真)

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被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第1部「ライフ=ワーク」

会期:2015/07/18~2015/09/27

広島市現代美術館[広島県]

県美からタクシーで現美に移動。「ライフ=ワーク」は事前情報ではいまいち意味がピンと来なかったが、展示を一巡してなんとなく納得。まず最初に目にするのは被爆者が描いた50点ほどの「原爆の絵」だが、これがスゴイ。全身に黄色い菊の花をまとってるように見えるのは腐乱した死体だし、アフロヘアの黒人女性がヌードで横たわってるように見えるのは真っ黒焦げの女性だし、ホタルイカみたいなのがたくさん浮いてるのは川面を埋め尽くした死体の群れだし……。爆発の瞬間を捉えた絵もあって、1点は街の上空がピンクと水色のストライプで覆われ、もう1点はちょっと理解しがたいのだが、乳房みたいなかたちが向かい合わせになり、先端から赤、白、ピンク、黄色、黒の順に塗られていて、どちらも抽象画に近くなっている。爆心に近くなればなるほど具象物は消え去り、抽象に染まるはずだろうけれど、それを見たものも消え去ってしまうわけだ。いずれも稚拙な絵ばかりだが、にもかかわらずスゴイものを見てしまったという気分。不謹慎を承知でいえば、もはや悲しいとかカワイそうとかヒドイとかいった気分を通り越して、笑いさえ出てくる。稚拙な絵であるにもかかわらずではなく、稚拙な絵だからこそ見る者の心をざわつかせるのだ。これはまさにアウトサイダー・アートならではの力、美術館ではなかなか出会えない衝撃だろう(ちなみにこれらの絵は平和記念資料館蔵)。おそらくこれら「原爆の絵」の対極に位置するのが、県美で見たばかりの技量を尽くした戦争画ではないだろうか。
その後、シベリア抑留体験を終生のテーマにした香月泰男や宮崎進、被爆体験に基づく作品を手がけた殿敷侃、被爆者の衣服などを撮った石内都らへと続き、県美とも一部かぶっている。ところが終盤になると、戦争をテーマにしてるけどまだ30代前半の後藤靖香や、戦中戦後にかけて30年間にわたり路傍の草花を細密描写し続けた江上茂雄、花のある風景写真を色鉛筆で克明に写し取った吉村芳生など、作品は徐々に戦争や被爆から離れ、最後は延々と迷路を描き続けるTomoya、映像とインスタレーションの大木裕之で終わる。最初の「原爆の絵」からずいぶん逸脱したような印象で、いったいどういう展覧会なのか、なにを伝えたいのか混乱してしまうが、ここに通底しているのは、彼らの「生」と作品が一致している(ライフ=ワーク)ということだろう。これらの作品は作者の人生に、否応なく降り掛かった運命に決定づけられているのだ。

2015/08/21(金)(村田真)

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コレクション展──われらの狂気を生き延びる道を教えよ

会期:2015/07/25~2015/10/18

広島市現代美術館[広島県]

核関連の作品を公開する被爆地ヒロシマならではのコレクション展。本田克己《黒い雨》とか細江英公「死の灰」シリーズなど、直接ヒロシマの災禍を表わした作品もあれば、イヴ・クライン《人体測定170》とか高松次郎《影の母子像》など、なぜヒロシマと関係があるのか一見わかりにくい作品もある。おもしろいのは後者のほうで、いってしまえば解釈次第ということでもある。たとえばヘンリー・ムーアの彫刻《アトム・ピース》は、ヒロシマでは反核のモニュメントとされているのに、同じ形状の《ニュークリア・エナジー》が置かれたシカゴでは、核エネルギー開発の成功を記念するモニュメントになっているという。同じ作品がまったく正反対の意味を担わされることもあるのだ。これこそ芸術の恐ろしいところであり、またおもしろいところでもあるだろう。同じようなことは戦争画(なかでも藤田嗣治の《アッツ島玉砕》)にもいえることで、そうした多義的な解釈が可能な作品こそ傑作と呼ぶべきかもしれない。

2015/08/21(金)(村田真)

TODAY IS THE DAY:未来への提案

会期:2015/07/26~2015/09/27

アートギャラリーミヤウチ[広島県]

現美から広島駅に出てJRで宮内串戸まで行き、そこからバスのはずだったが、ちょうど行ったばかりなのでタクシーに乗る。ここは財団法人の運営するギャラリーで、モダンなビルの2、3階を占めている。展示はさらに周囲の2軒の民家も使っているので、けっこうなボリューム。わざわざ見に行くだけの価値はある。同展は平川典俊とデイヴィッド・ロスが企画し、飯田高誉が監修したもので、第2次大戦から3.11まで繰り返される悲劇に対して、芸術は肯定的なヴィジョンを示すことができるかを問う試み。出品はヴィト・アコンチ、ピピロッティ・リスト、リュック・タイマンス、ビル・ヴィオラ、アピチャッポン・ウィーラセタクン、奈良美智、小沢剛ら16人で、驚くべきは大半の作家が今回のために新作を出してることだ。アコンチは最近日本で、カメラに向かって指を指し続ける映像《センターズ》が注目されているが、今回はそれを44年ぶりにリメイクした《リ・センターズ》を公開。指を指してるのが映像を見る観者に向かってではなく、カメラの下のモニターに映る自分に対してであることを明確にしたとのことだが、髪が薄くなってるのが気になる。小沢は、福島の子どもが描いた人の顔を小沢自身が模写して横一線に並べている。子どもの絵を模写するというのが意表を突く。いちばん感心したのは伊藤隆介の2点で、1点は破壊された原子炉に出入りする映像がスクリーンに映し出され、手前にはお菓子の箱などでつくったちっちゃな原子炉と、前後に動くマイクロカメラが置いてあるという仕掛け。もう1点は、核爆弾が雲を貫いて落ちてくる映像とその装置で、映像には映らない位置に恐竜のフィギュアが置いてあったりして、思わず笑ってしまう。彼の作品は何度か見たが、見るたびに感心する。

2015/08/21(金)(村田真)

BORDER

会期:2015/07/26~2015/09/13

旧名ヶ山小学校「アジア写真映像館」[新潟県]

第6回目を迎えた「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ2015)の一環として、新潟県十日町市名ヶ山地区の廃校となった小学校で「アジア写真映像館」という写真展イベントが開催された。東京綜合写真専門学校がプロデュースする同企画は、前回の2013年からスタートしたのだが、今回はより規模を拡大し、田口芳正、石塚元太良、大西みつぐ、錦有人、進藤環、高橋和海、伊奈英次、比舎麿、金村修の9人が参加していた。
「波欠け(マクリダシ)」という海岸浸食現象をダイナミックな映像インスタレーションでとらえた錦、コラージュによって名ヶ山と他の地域の風景を多重化していく進藤、精密に撮影した産業廃棄物の画像を壁いっぱいに展開する伊奈、都市風景を引き伸したモノクロームプリントを雨ざらしにして放置する金村など、自然環境に恵まれた環境で、のびのびと競い合うようにしてテンションの高い展示を実現していた。「私たちを取り巻くあいまいさや、相反、矛盾といった”さかいめ”について、9人の写真家の視線を通して現在の写真として発信する」というテーマ設定の意図が、よく伝わってくる展示だった。
「アジア写真映像館」では、他に中国・北京で「三影堂攝影藝術中心」を運営する榮榮&映里が出品し、若手写真家の登竜門として、同藝術中心で2009年から毎年開催されている「三影堂攝影賞」の受賞者たちの作品を紹介していた。また同じ名ヶ山地区で、2006年から住人たちの「遺影」を撮影する「名ヶ山写真館」の活動を粘り強く続けている倉谷拓朴も、撮影と作品展示をおこなっていた。とはいえ、「大地の芸術祭」の全体としては、写真作品の比率は高いとはいえない。もう少し写真家の参加が増えてもいいのではないだろうか。

2015/08/22(土)(飯沢耕太郎)

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