artscapeレビュー
2015年09月15日号のレビュー/プレビュー
画鬼暁斎──幕末明治のスター絵師と弟子コンドル
会期:2015/06/27~2015/09/06
三菱一号館美術館[東京都]
なぜ三菱一号館で暁斎の展覧会を開くのか、というのは会場に入ってみればわかる。三菱一号館(のオリジナル)を設計したジョサイア・コンドルが暁斎に弟子入りし、絵を学んでいたからだ(逆に暁斎はコンドルから西洋絵画について教わったという)。そのため展覧会の序盤は、コンドルによる建築の設計図や暁斎ゆずりの水墨画、日本研究の書籍なども出品され、まるで2人展。ところが中盤以降はおびただしい量の暁斎作品に圧倒され、結果的にコンドルは付け足しだったか、みたいな印象は否めない。もちろんコンドルが出ていたおかげで展覧会に厚みが増したのは事実で、とくにコンドル設計の上野博物館(東博の前身)の遠景図と、その上野博物館も描かれた暁斎の上野の山のパノラマ的錦絵との比較などは、同展ならではの芸当だ。それにしても暁斎はすごい。雪舟ばりの山水画から、鳥獣を描いた水墨画、モダンな舞台絵、風俗画、妖怪図、春画まであり、そのレパートリーの広さ、器用さが幸いして、暁斎を近代美術史の傍流に押しやることにもなったようだ。また、ひと回り下の“最後の浮世絵師”と呼ばれた小林清親に比べると、清親が近代的なモチーフとスタイルを浮世絵という形式に融合させたのに対し、暁斎は明治なかばまで生きたにもかかわらず絵は江戸のままだったことも、時代に埋もれた要因かもしれない。しかしこういう激動の時代を生きたマージナルなアーティストというのがいちばんおもしろい。
2015/08/28(金)(村田真)
KUNIO12「TATAMI」
会期:2015/08/22~2015/08/30
KATT 神奈川芸術劇場[神奈川県]
脚本はままごとの柴幸男、演出・美術は杉原邦生。「たたみ」をキーワードに繰り広げる、不条理劇である。これにひっかけて、巨大な畳が舞台美術として使われ、そこに見えない空間が立ち上がり、人生をたたもうとする父親と息子の不思議な会話が展開する。
2015/08/28(金)(五十嵐太郎)
プレビュー:したため#3『わたしのある日』
会期:2015/10/01~2015/10/04
アトリエ劇研[京都府]
2015年、創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞を受賞した、したためによる新作公演。
演出家・和田ながらのユニットであるしたための特徴は、予め用意された台本を用いず、出演者との会話を積み重ねる中から言葉を引き出し、時空間を構築していく方法論にある。公演に先立って、8月後半には途中経過がワーク・イン・プログレス公演として公開された。5人の出演者たちは、それぞれ「昨日使ったお金と内訳」「昨日見つからなかったもの」などの質問に対して、淡々と言葉を発して答えていく。垣間見えたような気がするその人の日常と、残された想像の余地。舞台上の見知らぬ他人に、いつしか淡い関心を抱いていく時間。そのゆっくりとした時間の醸成は、舞台上に佇む彼らのあいだにも起こっているようだ。「失くしたもの」の重さを誰かに聞いてほしくて、隣の人の腕を掴んで伝えるシーン。形にならないものが、言葉と身体感覚の両方でぎこちなくも伝えられ、隣の人へ次々に手渡されていく。そのとき、それまで断片化された情報の羅列として佇んでいた個人どうしの関係がふっと揺らぎ、親密さと危うさを孕んだ瞬間が立ち上がったことにはっとさせられた。
派手さや劇的な「演出」はないが、共感できるささやかなスケールのなかに、個人の輪郭とそれを形づくる記憶、記憶の共有(不)可能性、言葉の帰属先と個人の身体、さらには舞台上で発せられる「言葉」に誠実に向き合う態度とはどういうものか、などについて考えさせられる公演になるのではと期待したい。
2015/08/30(日)(高嶋慈)
歌劇ブラック・ジャック ─時をめぐる3章─ ~手塚治虫作「ブラック・ジャック」より~
会期:2015/08/30
アクトシティ浜松 大ホール[静岡県]
演出・あいちトリエンナーレオペラの田尾下哲 × 作曲・宮川彬良×脚本・響敏也である。時をテーマに3つのエピソードで構成しているが、手塚治虫のマンガ「ブラック・ジャック」でさえ題材にできるのだから(特に手術のシーン!)、オペラはあらゆることが表現できるのかもしれない。やはり原作のよさがひきつける。実際、選ばれたエピソードはどれも読んでいて、内容を覚えていた。美術・松岡泉は演劇「解体されゆくアントニン・レーモンド建築」でも担当した人で、三部ともテイストを変え、めまぐるしい展開をさまざまな趣向で表現している。
2015/08/30(日)(五十嵐太郎)
村上仁一「雲隠れ温泉行」
会期:2015/08/31~2015/09/17
ガーディアン・ガーデン[東京都]
村上仁一は2001年に第16回写真「ひとつぼ展」でグランプリを受賞した。その後、日本各地の鄙びた温泉場を撮影し続け、2007年に写真集『雲隠れ温泉行き』(青幻舎)を刊行する。2015年には、その改訂決定版というべ『雲隠れ温泉行』がroshin booksから出版された。本展はそれにあわせて、「ひとつぼ展」の入賞者の作品をガーディアン・ガーデンであらためて展示する「The Second Stage」の枠で開催された展覧会である。
村上の写真を見る者は、1960~70年代に撮影された光景と思うのではないだろうか。北井一夫の『村へ』(1980年)や橋本照嵩の『瞽女』(1974年)、あるいはつげ義春の温泉宿をテーマにした漫画などを思い出す人も多いだろう。だが、そのアレ・ブレ・ボケのたたずまい、いかにも昭和っぽい被写体の選び方、切りとり方は、村上の編集力による所が大きいのではないかと思う。それもそのはずで、村上はカメラ雑誌の現役の編集者であり、日本の写真家たちが積み上げてきた写真の選択、構成の手法をしっかりと学び取ることができる立場にいる。それは今回の展示にもよくあらわれていて、B全の大判デジタルプリントと、より小さいサイズの手焼きのプリントを巧みに組み合わせて会場を構成していた。コンタクトプリントを拡大して壁に貼ったり、これまで自分が編集してきた書籍や写真集の校正刷りの束をテーブルに置いたりする工夫もうまくいっていたと思う。
とはいえ、このシリーズには単純な70年代写真へのオマージュに留まらない魅力がある。村上は「ひとつぼ展」でグランプリ受賞後、「諸々のことがうまくいかず」実際に各地の温泉場に「雲隠れ」していた時期があったようだ。誰でも身に覚えのある、不安や鬱屈の気分は、このような写真の形でしか表現できないのではないのかという説得力があるのだ。編集者と写真家の二刀流ということでは、桑原甲子雄のことが思い浮かぶ。名作『東京昭和十一年』(1974年)を発表後も、編集やエッセイの仕事を続けながら淡々と街のスナップを撮り続けた桑原に倣って、村上も写真を撮りため、発表していってほしい。
2015/08/31(月)(飯沢耕太郎)