2019年12月01日号
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artscapeレビュー

2011年04月01日号のレビュー/プレビュー

大橋可也&ダンサーズ+空間現代企画「Action, Sound, Conflict」

会期:2011/03/21

Super Deluxe[東京都]

ノイジーで複雑だが音楽的な理性を感じさせる空間現代の演奏と拮抗するかたちで、大橋可也&ダンサーズのダンサーたちは舞台に存在していた。「拮抗」とは、安易に従属せず、独立していたという意味で、上演後1日経ってから不意に「ああ、大橋可也のダンスはマース・カニングハムに似ている!」と思ったこととも連続している。各ダンサーたちがヒエラルキーを構成することなく存在し、それでありながら、すべてのダンサーがある共通の方法論のもとで動いているように見える。ポスト・モダンダンスならば、もっとラディカルに反ダンスを批評的に展開するだろう。モダンダンスならば、もっと無批判的にスタイル化への指向を示すだろう。カニングハムはその中間にいた。カニングハムは前衛的なダンスの可能性を追求しながら、ダンスのダンス性を放棄しない。どっちつかずともいえるが、二つを両立させようとする試みにも映る。大橋からも同じニュアンスを最近感じる。本作でも、夢遊病者のように空間をさまようダンサーたちは、無秩序のようで、しっかりと振り付けられており、暴力的なイメージが喚起されたとしても、そこにはつねに様式的な美しさがある。様式的美しさは、バレエと比較したくなるほどで(この点もカニングハムに似ている)、それが作品としての強度を引き出す分、美しさへの批評的なスタンスを弱めてしまってもいる。けれども、どちらか一方が全面的に正解というのでないとすれば、このどっちつかずから豊かな可能性を展開するのが得策であるに違いなく、いまは「様式美」が目立つとしても、今後、ある種の弁証法的な進展が大橋のダンスの内に起きることを期待している。ちなみに、この企画ではほかに、OFFSEASON featuring 大橋可也&ダンサーズ、 ロロ、core of bellsらの上演が行われた。

大橋可也&ダンサーズ+空間現代

OFFSEASON featuring Kakuya Ohashi and Dancers

2011/03/21(月)(木村覚)

鎮西尚一『ring my bells』

会期:2011/03/19~2011/03/25

ポレポレ東中野[東京都]

いま執筆の時点でぼくの鎮西体験は『パンツの穴 キラキラ星みつけた』と『パチンカー奈美』に本作を含めて3本、これらのわずかな判断材料からほとんど当てずっぽうで言うのだが、鎮西作品の本質はミュージカル映画にあるのではないか。『パンツの穴』はまさしくミュージカル映画で、ジャック・ドゥミみたいに野外で登場人物が突然唄いだす。『パチンカー奈美』はミュージカル映画ではないにしても、ある1曲が主人公のギャンブル運を支えるというように、音楽的要素が物語を動かす。なによりミュージカル映画の潜在的な力は「ミュージカルをつくるミュージカル」といった自己反省性にあるはずで、本作『ring my bells』はまさに「音楽をつくる音楽の映画」だ。物語は、男2人が山深い公演で曲を作り、リハーサルを繰り返すなか、図書館司書である幼なじみの女の子が男たちの1人とつきあったり、図書館に毎日やって来る老人と遊んだり、場を揺らす。core of bellsのメンバー2人が出演し、主人公の女の子と唄う彼らの奇怪なレパートリーは重要な要素になっている。幼なじみというだけで、彼らの音楽がさっぱりわからない女の子は、わからないけど歌を口ずさむことで、2人とつながる。core of bellsの強さは「歌」にある。本作はその歌の力を引き出そうとしていた。それに本作では酒もつながりを誘発するアイテム。男2人は山で酒を密造し、女の子は味もわからず老人に勧める。ひとを一瞬でつなぐ歌と酒。そのつなぐ力で物語を転がす分、転がらない状況の持つ可能性へと逸脱することはなかった。そのあたり、同じくcore of bellsとのコラボレーションで映像作品を制作した小林耕平と対照的でもあった。

青春H「ring my bell ~リングマイベル~」

2011/03/25(金)(木村覚)

大倉摩矢子「Mr. 」(『奇妙な物質のささやきII O』)

会期:2011/04/17

テルプシコール[東京都]

予定されていた公演が軒並み延期や中止になっている状況があり、まだまだ「観劇を楽しむ」ムードが復活していない個人的な事情もあるなかで、プレビューを書くのはとても難しいのですが、1本お勧めを。『奇妙な物質のささやきII O』という企画で、大倉摩矢子が踊ります(大倉摩矢子「Mr. 」、4月17日@テルプシコール)。大倉は、若手舞踏家のなかで観客の目を釘付けにできる力をもった一人。ゆっくりと20分かけて前に進むというただそれだけで、十分見応えのある時間をつくってしまう逸材。見て損はありません。この企画もそうなのですが、震災のこの状況で、舞踏系の作家たち(大駱駝艦や大橋可也もかつて舞踏家・和栗由起夫に師事していたことがある)がしぶとく上演を続けていて励まされます。今回のとくに原子力発電所の事故によって、ぼくらがいかに危ない装置に頼って生きてきたかを痛感させられていますが、いっそ、作家たちは、電力会社に頼らない公演の可能性を模索してみてもよいのではないでしょうか。かつて唐十郎は、テント公演の際に、自転車で自家発電して上演したと聞きます。そんな上演のシステム自体を自作する(そうしたことも含めて演劇とみなす)作家がでてきたらいいのに、と夢想します。こんな状況だからこそ発揮される創造性とはいったいどんなものなのか、とぼくは作家の皆さんに猛烈な期待を寄せています。

2011/03/31(木)(木村覚)

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