artscapeレビュー

2011年10月15日号のレビュー/プレビュー

モーリス・ドニ──いのちの輝き、子どものいる風景

会期:2011/09/10~2011/11/13

損保ジャパン東郷青児美術館[東京都]

ドニというとゴーガンの下に集まったナビ派の主要メンバーであり、装飾的な画面で知られる一方で、敬虔なクリスチャンとして聖書や神話を主題にした宗教画を残した画家でもある。とりわけモダニストにとって重要なのは、「タブローとはヌードや風景である以前に色彩におおわれた平面である」といった主旨の彼の言葉であり、ここから形式(フォーム)を重視するフォーマリスティックな抽象表現が導かれていくことになった。だが、そんな美術の基礎知識をもって同展を訪れると肩すかしを食らう。描かれているのは神でもヌードでもなく、自分の子どもをはじめとする家族の肖像だからだ。あれれ?と思ってチラシを見ると、サブタイトルは「いのちの輝き、子どものいる風景」。なるほど、日本でのドニの知名度の低さを考えれば妥当なテーマ設定かもしれない。「装飾」とか「信仰」とか、ましてや「平面性」などでは人は入らないからね。

2011/09/13(火)(村田真)

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森岡督行/平野太呂(写真)『写真集』

発行所:平凡社(コロナ・ブックス)

発行日:2011年9月7日

「写真集の写真集」。このアイディアは以前から形にしたいと思っていたのだが、残念ながら先を越されてしまった。しかも、かなり理想に近い形で。
本書に収録された写真集は、すべて東京・茅場町の森岡書店で扱っているものである。森岡書店は、著者の森岡督行が1926(昭和2)年建造という古いビルの一室に、2006年に開業した古書店である。白壁と焦茶色の床の室内には、趣味のいい書棚と机が並べられ、そこにゆったりと、これまた趣味よく写真集を中心にした本が並べられている。壁の一部はギャラリーとしても使われていて、僕も個展を開催させていただいたことがあった(飯沢耕太郎コラージュ展「ストーンタウン・グラフィティ」2010年12月13日~18日)。個人的にも、とても好きな空間なのだが、ヨーロッパや日本の戦前の写真集など、古書店としての品揃えもしっかりしていて、定期的に足を運ぶお客も多い。本書はその森岡書店の粒ぞろいの写真集を、店主自ら解説して紹介するというなかなか贅沢な企画である。大竹昭子、平松洋子、ピーコ、しまおまほ、藤本壮介など、縁のある人々に森岡が写真集を手紙つきで送るという想定で書かれた文章も、しっかりと丁寧に綴られている。
だが、本書の最大の魅力は、何といっても平野太呂によって撮影された書影の素晴らしさだろう。むろん単なる複写ではない。この本はここに、こんなふうに置かれるべきだという思いがそれぞれ見事に実現されていて、ページをめくるたびに新しい世界が開けてくる。センスのよさだけではなく、写真集そのものに対する理解度の深さが伝わってくるのだ。実物で確認してほしいので、ここではあまり具体的なことは書きたくないが、ひとつだけ。エドワード・スタイケン編の『The Family of Man』が、白いハンガーにぶら下がっている写真を見て、思わず笑ってしまった。

2011/09/14(水)(飯沢耕太郎)

磯江毅=グスタボ・イソエ──マドリード・リアリズムの異才

会期:2011/07/12~2011/10/02

練馬区立美術館[東京都]

磯江の名前も作品も知らなかったし、彼が浸かったスペイン・リアリズム絵画にも興味はなかったが、ただひとつ、彼がぼくと同じ1954年生まれ(2007年に死去)というだけの理由で見に行く。磯江は予備校でデッサンや油絵を学ぶが、日本の美大に進むことなく渡西し、スペイン特有の細密なリアリズム絵画を習得。モダンアートが袋小路に陥っていた当時、なぜ彼が極端なリアリズムを追い求めたのか、なんとなくわかるような気がする。ミニマリズムやコンセプチュアリズムにおおわれた70年代、美術を続けるなら思考を研ぎ澄ませて素材や技法を極限まで切りつめるか、もしくは正反対に髪の毛1本1本まで描き出す徹底したリアリズムに走るか、およそ両極の選択肢しかなかったように感じられたからだ(もっとも両者は自己表現の抑圧という点では表裏の関係にあったが)。しかし、ミニマルやコンセプチュアルとは違ってリアリズム絵画はある意味わかりやすく、商品化しやすいため、怪しげな画商や美術評論家がはびこりやすい世界でもあった。昨今のリアリズム絵画になにか胡散臭さを感じてしまうのは、そんな面もあるからだ。もちろん磯江本人は純粋にリアリズム絵画を追求したかっただけだろう。そのひとつの頂点ともいうべき作品が、タイトルがすべてを語っている《鮭“高橋由一へのオマージュ”》だ。しかしこの絵に描かれた荒縄の一部に本物のワラが使われているのを見て、リアリズムの限界を感じたのも事実。これはすでにリアリズム絵画を超えて、トリックアートの領域に入っているではないか。また、背景に新聞紙を描いた作品も何点かあったが、リアリズムを徹底させるのであれば1文字1文字まで描かなければ(書くのではなく)ならないはずだ。そこまでいくともはや狂気と裏腹の世界だが、磯江の場合そこまでは描いていない。それゆえに「絵画」には踏みとどまっているともいえるだろう。リアリズム絵画の矛盾と限界を教えてくれる展覧会でもあった。

2011/09/15(木)(村田真)

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千代田芸術祭2011

会期:2011/09/03~2011/09/19

アーツ千代田3331[東京都]

展示部門のアンデパンダン展に、ステージ部門とマーケット部門が加わったアートフェスティバル。でも見たのは展示部門だけ。出品は約300人(組)ほどで、大半は素通りだが、いくつか目に止まった作品もあった。都市風景を描いた菅野裕子の絵画は、とくに目立つわけではないけど、凡百の作品の海のなかでは輝いて見える。また、スカートのなかをのぞいてオナニーする少年少女像を彫った柳瀬はるかの《ままごと》は、木彫の存在感と夢幻的な内容の落差が衝撃的。ほかに、マンガをモチーフにした作品がけっこうあったが、なかでも、アーティスト志望の女子が画廊で個展を開くまでをコマ割りマンガにしてキャンバスに描いた増田ぴろよ、岡崎京子の『ヘルタースケルター』の主人公を自分の顔写真に貼り替えて製本した山田はるかがおもしろい。どちらもつい読んでしまった。こういう作品て最近よくあるのかしら。

2011/09/15(木)(村田真)

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高木こずえ「SUZU」

会期:2011/09/03~2011/10/01

TARO NASU[東京都]

高木こずえの潜在能力の高さは、誰もが認めざるをえないだろう。コンスタントに水準以上の作品を生み出していく安定感は、2006年に写真新世紀グランプリを受賞してのデビューからまったく変わりはない。
今回展示された「SUZU」は、2010年に『MID』と『GROUND』のシリーズで第35回木村伊兵衛写真賞を受賞した直後、生まれ故郷の長野県諏訪に100日あまり滞在して撮影・制作したものだ(信濃毎日新聞社から同名の写真集も刊行)。若い写真家が写真撮影を通じて自らの“ルーツ”を確認するというのは、とかくありがちなことだが、高木にかかると一筋縄ではいかない作品ができ上がってくる。諏訪大社の御柱祭、近親者のスナップのようなそれらしいテーマを扱っても、彼女のなかにセットされているイメージ変換の回路が作動して、何とも不可思議な、宇宙的としかいいようのない時空が姿をあらわしてくるのだ。画面に浮かび上がる円や矩形の幾何学的なパターンも、普通ならとってつけたような印象を与えるところだが、それほど違和感なく共存している。タイトルの「SUZU」というのは、撮影の間「はるか遠くで鳴る小さな鈴の音」に耳を澄ましていたということから来ている。たしかに、その幻の鈴の音がこちらにも聞こえてくるように感じる。そういえば、高木が「SUZU」のように日本語を作品のタイトルにしたのは、もしかするとはじめてかもしれない。これまでは「insider」「MID」「GROUND」など、英語のタイトルが多かったのだ。作品制作の動機と同様に、写真家としての原点を問い直すという志向が彼女のなかに芽生えつつあるのだろうか。
なお、写真集の刊行にあわせて、長野県長野市のホクト文化ホール ギャラリー(長野県民文化会館)でも同名の展覧会(9月14日~19日)が開催された。

2011/09/15(木)(飯沢耕太郎)

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