artscapeレビュー
2013年05月15日号のレビュー/プレビュー
山地咲希 個展「光」
会期:2013/03/26~2013/04/06
ギャラリーメゾンダール[大阪府]
新緑のころ、新しい季節の訪れを知る驚きと喜び。その感動を体験して以来、山地咲希はこの時期に降り注ぐ陽光とその豊かな表情をテーマに絵画制作に取り組んでいる。以前はおもに人物を描いていたそうなのだが、私が初めて山地の作品を見た2012年の京都府美術工芸新鋭展「京都美術・工芸ビエンナーレ」の際にはすでにこのシリーズが発表されていた。今展では、S100号(1,620×1,620ミリ)のパネルに描いた油彩画をはじめ、小さな作品やドローイングなど、十数点を展示。生い茂る葉やその重なりが透き通って見えるような黄色、グリーン、ブルーの色彩表現、画面に拡散する梢の描写が美しく、瑞々しい生命感にも溢れた絵画だった。全体に明るい色彩の画面は一見、伸びやかで清々しいのだが、不安定なリズムを感じさせるものもあり、どこか心もとない。それが作家の意図なのかはわからないが、どちらにしろ風になびく若葉の緑を思わせて印象に残った。
2013/04/06(土)(酒井千穂)
上田義彦「M. River」
会期:2013/03/22~2013/05/05
Gallery 916[東京都]
上田義彦が個展「Materia」で、竹芝の倉庫を改装したギャラリー916をスタートさせてから1年が過ぎた。この間にラルフ・ギブソン、有田泰而、Y. Ernest Satowなどを含む意欲的な展示を実現したのだが、今回は再び自作を展示している。
新作の「M. River」は、前回の展示に続いて屋久島の森で撮影された作品である。偶発的なブレやボケを大胆に作品のなかに取り込んでいった「Materia」の試みはさらに先に進められており、展示作品は「写真に欠くことのできないディテールをあきらめ」ることで、大づかみな光と影のマッスがぼんやりとした像を形成するものがほとんどだ。150×119センチの大判プリント(20点)と、かなり小さめの24.9×19.4センチサイズのプリント(12点)を交互に並べていく展示構成も面白かった。森を行きつ戻りつするときのリズミカルな視線の動きを、展示によって追体験するように仕組まれているのだ。ただ、似たようなピンぼけの画像がこれだけ並ぶと、むしろ絵画的な要素が強まり、全体として均質な印象が強まってしまう。森のダイナミズムをどんなふうに作品化していくのかについては、もう少し試行錯誤が必要なのではないだろうか。
なお、今回からメインギャラリーに付設された916Smallでも,展覧会が同時開催されるようになった。今回は石塚元太良が19世紀のゴールドラッシュ時代の廃屋をアラスカで撮影した「GOLD RUSH ALASKA BONANZA TRAIL」が展示されている。いきのいい若手写真家たちに開放していくと、やや「広過ぎる」嫌いがあったギャラリースペースにも活気が生まれてきそうだ。
2013/04/06(土)(飯沢耕太郎)
ゴッホ展──空白のパリを追う
会期:2013/04/02~2013/05/19
京都市美術館[京都府]
雑誌に連載している「ジャポニスム」の取材も兼ねて京都へ。ついでに大阪にも寄るつもりだったけど、あいにくの雨で断念。ほとんど毎年のように開かれるゴッホ展だが、今回はパリ時代に焦点を当てている。なぜサブタイトルが「空白のパリ」なのかといえば、ゴッホは死ぬまで弟のテオと文通していたので画家がなにを考え、どんな生活をしていたかがわかるのだが、パリにいた約2年間だけはテオと同居していたため手紙が少なく、詳細がわからないからだ。この間、ゴッホはロートレックやエミール・ベルナールら画家仲間と知り合い、印象派の影響で色彩が明るくなり、スーラを見習って点描画法を試み、そして浮世絵に夢中になった。いわゆるゴッホ芸術が一気に花開くのはその後アルルに旅立ってからだが、パリ時代は化ける直前の準備期間と位置づけてもいい。展示は2章にわかれ、第1章では「作品を売らなければ」「もっと色彩を」「厚塗りから薄塗りへ」などのテーマごとに2、3点ずつ解説とともに紹介され、第2章では「何に描かれたのか?」「絵の下に何が?」「誰を描いたのか?」といったQ&A方式で分類され、壁の上に絵画、下に資料や解説を置いている。きわめて啓蒙的な展示で、なかなかタメになるなあ。「ジャポニスム」にはほとんど触れられてなかったけど、女性の肖像画の隅に浮世絵が描かれていたり、板絵の裏に「起立工商會社」と墨で書かれていたり、日本とのつながりを示す作品が何点か発見できたのは収穫だった。ちなみにこの「ゴッホ展」、首都圏には巡回せず、このあと宮城県美術館と広島県立美術館に行く予定。
2013/04/07(日)(村田真)
記念講演会「本物? 偽物? ファン・ゴッホ作品の真贋鑑定史」
会期:2013/04/07
京都市美術館講演室[京都府]
ゴッホ研究の第一人者、圀府寺司氏の講演会。展覧会の取材だけでなく、ゴッホ作品の真贋を巡るこの講演を聴くのも京都に来た理由のひとつ。なぜなら圀府寺氏はかつて倉敷の大原美術館で僕とまったく同じ経験をしているからだ。それは18歳のとき(70年代)大原美術館を訪れ、ナマのゴッホ作品《アルピーユの道》に初対面して感動し、隣の喫茶店エル・グレコで余韻に浸ったものの、後にそれが贋作であることを知り、あの「感動」はなんだったんだろうと考えてしまったことだ。違うのは、訪れたのがおそらく3年違いの春か夏かということと、エル・グレコで飲んだのがコーヒーかアイスティーかということくらいで、恐ろしく似た経験をしていたのだ(しかしもっとも異なるのは思慮深さで、それが約40年後に講演する側と拝聴する側にわかれることになる)。もちろんそれだけでなく、贋作そのものにも興味があっての聴講だ。話はおもにゴッホの贋作を売りさばいたオットー・ヴァッカーの手口と、美術史家ラ・ファイユらの鑑定の曖昧さを巡るものだった。考えてみれば贋作というのはニセモノと判明した作品のことだから、バレないかぎり贋作ではなく「真作」として扱われ、いまでも多くの美術館に飾られているかもしれないのだ。たとえばコローは約700点の絵を残したといわれるが、アメリカはかつて10万点を超えるコロー作品を輸入したというジョークもある。圀府寺氏いわく「すべての作品は灰色」と見るべきだと。そんな真贋鑑定の難しさを体験すべく、プロジェクターで2、3点のゴッホ作品を見せ、受講者にどれがホンモノかを当てさせる実験もした。ぼくは5問中4問正解したが、さすがゴッホ好き、贋作好き(?)が集まったせいか、4問正解は珍しくなく、全問正解もひとりいたらしい。たぶんこのなかにはぼくと同じように、かつて《アルピーユの道》に感動して裏切られた人も何人かいるに違いない。
2013/04/07(日)(村田真)
マリオ・ジャコメッリ写真展
会期:2013/03/23~2013/05/12
東京都写真美術館 B1展示室[東京都]
歓ばしいことに、マリオ・ジャコメッリ(1925~2000年)が20世紀イタリアを代表するだけでなく、写真表現の歴史にその名を刻する偉大な写真家であることが、日本の観客にもようやく認められてきたようだ。2008年に東京都写真美術館で開催された回顧展の規模をさらに拡大し、215点あまりを展示した今回の展覧会では、「スカンノ」(1957、59年)、「ルルド」(同)、「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」(1961~63年)「風景」(1960年代~2000年)といった代表作だけでなく、日本では未公開のシリーズも多数出品されていた。
だが、なんといっても最初のパートに展示された「死がやって来ておまえの目を奪うだろう」の衝撃力が際立っている。母親が洗濯婦として働いていたという、彼の故郷の街、セニガッリアのホスピスで撮影されたという、死に瀕した老人たちの顔、顔、顔。それらにカメラを向けながら、ジャコメッリは次のような認識に至る。
「ホスピスで目にするのは、我々自身、我々の息子、我々の肖像であり、これらの写真の一枚一枚が私の肖像だ」。
たしかに、死の翼に覆い尽くされたこの場所では、老人たちの顔は互いに似通って来て、「我々の肖像」であるとともに「私の肖像」でもあるような、顔の元型とでも言うべき相がまざまざと浮かび上がってくる。ジャコメッリがいつでも死者の領域にカメラを差し出すようにして撮影を続けていたことが、これらの写真を見ているとよくわかる。
だが、ジャコメッリは同時に「男、女、愛」(1960~61年)や「シルヴィアへ」(1987年)のような、生=エロスの領域にもまた強い関心を抱いていた。生と死、現実と幻影の往還は、多くの優れた写真家の作品に見られるものだが、彼の場合その極端に引き裂かれたダイナミズムに凄みを感じてしまう。今回展示された力強いハイ・コントラストのモノクローム・プリントは、ジャコメッリ自身の手によるものという。深い場所まで届く洞察力と職人的な技巧の見事な結合だ。
2013/04/07(日)(飯沢耕太郎)