artscapeレビュー

2013年05月15日号のレビュー/プレビュー

渋谷

[東京都]

『カーサ・ブルータス』の編集部と、渋谷を撮り続ける佐藤豊さんに街の変遷についてお話しをうかがい、過去の写真をいろいろ見せていただく。オリンピックを契機に整備された公園通りは、かつて連れ込み宿が多く、いまとは全然違うイメージだったなど、歴史の生き証人だった。その後、パルコ40周年ということで、撮影に立ち会い、インタビューを受ける。個別の建築はそれほど変わったデザインではないが、坂道が多い地形のなか、ネットワーク的に連結する店舗群が渋谷という街と人の流れを確かに変えた。

2013/04/08(月)(五十嵐太郎)

ロバート・フランク写真展 PART1 THE LINES OF MY HAND

会期:2013/04/02~2013/04/27

gallery Bauhaus[東京都]

ロバート・フランクの写真を見ていると、スナップショットの面白さにあらためて目を開かれる思いがする。「日常の瞬間をさっとかすめ取るように掴まえてくる写真」という具合に言葉にしてみれば、単純で明快な手法に思えなくもないが、ちょっとでも撮影の経験があれば、それがどれほどの困難をともなうのかはよくわかるはずだ。むろん、フランク自身も規範にしたはずのアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」の写真のように、目のまえの出来事を完璧な構図の中におさめることは、たしかに優れた視力とカメラの操作力は必要だが、多少の努力をすれば到達可能かもしれない。だが、フランクのスナップショットに見られる微妙な間合い──むしろその瞬間の前後の場面を空気感ごと捉える能力は、これは天性の才能としか言いようがない。
今回展示された42点は、1972年の写真集『私の手の詩』(邑元舎、英語版のタイトルはTHE LINES OF MY HAND)に収録された写真から選択されている。元村和彦の編集によるこの写真集は、まさにフランクのそれまでの生涯を辿るように構成されているので、1948年撮影の「PERU」から、70年代の作品まで年代的な幅がかなり広い。そのため、彼の眼差しのあり方が、逆にくっきりと浮かび上がってくると言えそうだ。また、トリミングのために貼られた紙テープ、フィルムを巻き上げるための穴の痕がそのまま周辺に残ったプリントなど、元村の手元に残されていたヴィンテージ・プリントならではの生々しさがある。写真家の息づかいがそのまま感じられる、稀有な視覚的体験と言えるだろう。
なお、5月1日~6月1日には「PART2」として、フランクがカナダ・ノヴァスコシアに居を移した1970年代以降の写真47点による「QUIET DAYS」が開催される。

2013/04/09(火)(飯沢耕太郎)

目黒天空庭園

[東京都]

目黒区みどりと公園課の案内で、池尻大橋の天空公園を訪れる。ここは首都高の巨大ジャンクションだが、クルマが見えないようにコンクリートの壁でふさぎ、コロセウムのような外観をもつ。その中心の地上にスポーツ場、また屋上を弧を描きながら傾斜するダイナミックな公園にしたもの。さらに隣接する高層ビルやマンションと接続する。細部のデザイン、あるいはランドスケープは、高架の路線跡を緑道としたニューヨークのハイラインに比べて劣るものの、プログラムのユニークさが圧倒的。おそらく世界初だろう。徹底的にインフラを活用する超巨大版のメイド・イン・トーキョーとも言える。

2013/04/09(火)(五十嵐太郎)

古賀絵里子「一山」

会期:2013/04/05~2013/04/30

EMON PHOTO GALLERY

2015年には弘法大師、空海が開宗してから1200年を迎えるという高野山金剛峯寺。その深遠な宗教空間の魅力に惹かれて、撮影を続けてきた写真家たちも多いが、古賀絵里子の新作はそれらとはひと味違っているのではないかと思う。
彼女は2009年に写真展の仕事で初めて高野山を訪れ、すぐに「撮りたい」という衝動に駆られたのだという。ついには高野山の域内にアパートの一室を借り、月に一度、一週間ほど訪れて撮影するようになった。だが、風景を中心に考えていたアプローチに次第に限界を感じ、「結局、私にとって『写真』以前に『人』が在るのだ」という認識に達する。結果的に今回発表された「一山」には、高野山の僧侶をはじめ、彼女が撮影の過程で出会った「人」のたたずまいが、大きな要素を占めるようになった。そのことによって、高野山を宗教や自然によって形づくられる超越的な場として捉えるだけではなく、温かみのある人と人とのふれあい、交流の場として見直す、ユニークな視点を確保することができた。その6×6判の柔らかに伸び縮みするようなフレーミングと、どこかなまめかしい色彩やテクスチュアの表現は、文字通りの「女人高野」の実現と言えるのではないだろうか。
もうひとつ思ったのは、一枚一枚の写真が見る者に何ごとか語りかけてくるような質を備えているということだ。写真に写っている人物たち、さらにモノや風景もまた、口を開き、それぞれの物語を語り伝えてくれそうな雰囲気をたたえている。ゆえに、もしこのシリーズを写真集として刊行するなら、テキストが大事になってきそうな気がする。古賀自身が、自分の体験を言葉に綴って写真に添えるのが一番いいのではないだろうか。

2013/04/10(水)(飯沢耕太郎)

東松照明「太陽の鉛筆」

会期:2013/03/21~2013/04/15

オープンギャラリー(品川)[東京都]

昨年12月14日の東松照明の死去は、さまざまな波紋を呼び起こしつつある。その多面的な活動と影響力の広がりという点で、彼の存在の大きさがあらためてクローズアップされたと言ってもよい。東松を失ったことで、「戦後写真」の枠組みそのものが大きく変わっていくのではないだろうか。
東松の没後最初に開催されたのが、品川のキヤノンSタワー2Fのオープンギャラリーに展示された「太陽の鉛筆」展だったことは印象深い。1972~73年に本土復帰を挟んで1年近く滞在した沖縄で撮影されたスナップショットを中心としたこのシリーズは、東松の代表作であるとともに、彼の作風の転換点に位置づけられる作品だった。東松はこのシリーズを契機として、それまでの被写体を強引にねじ伏せるような撮り方ではなく、そのたたずまいを受容し「まばたきをするように」シャッターを切っていく融通むげなスタイルへと向かっていったのだ。
今回展示されたのは「キヤノンフォトコレクション」として収集、保存されているプリントだが、すべてデジタルプリンターで出力している。よく知られているように、東松は2000年代以降、撮影とプリントのシステムをすべてデジタル化した。今回あらためてデジタルプリントの「太陽の鉛筆」を見直して、やはり多少の違和感を覚えずにはおられなかった。たしかにモノクロームの明暗のバランスやディテールの描写はほぼ完璧なのだが、インクジェットプリント特有の「希薄さ」がどうしても気になるのだ。全体に薄膜がかかったようなインクの質感には、そのうち少しずつ慣れてくるのかもしれない。だが、銀塩の印画紙のしっとりとした重厚さが完全に消えてしまうのは、あまりにも惜しい気がする。
なお、併設するキヤノンギャラリーSの開設10周年を記念して、同ギャラリーとキヤノンギャラリー銀座では「時代に応えた写真家たち」と題する連続展が始まった。立木義浩、田沼武能、淺井慎平、中村征夫、野町和嘉、水谷章人、竹内敏信、齋藤康一の作品が次々に展示される。写真家とカメラメーカーが手を携えて時代をリードしていった1960~70年代の写真表現を、あらためて見直すよい機会になるだろう。

2013/04/11(木)(飯沢耕太郎)

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