artscapeレビュー
2016年01月15日号のレビュー/プレビュー
スター・ウォーズ フォースの覚醒
「スターウォーズ」のシリーズは子どものとき、第一作のエピソード4からすべて劇場で見てきたが、新作『フォースの覚醒』では、30年ぶりにスカイウォーカー、ハン・ソロ、レイア姫に会えるシーンが入っており、胸熱である。物語としては満足だが、未来の設定にもかかわらず、空間、装置、技術の世界観はエピソード4からそれほど断絶していなかった。どうしても1970年代にリアルタイムで最初の劇場作品で受けた衝撃と同じような視覚的な革新も現代において求めたくなってしまう。また物語の人間関係も、エピソード4・5の変奏のようだし、先の時代に進んだ未来感は物足りない。
2015/12/19(土)(五十嵐太郎)
写真新世紀2015 東京展
会期:2015/12/03~2016/12/25
ヒルサイドテラス/ヒルサイドフォーラム[東京都]
キヤノン主催の写真公募展「写真新世紀」も変革の時期を迎えつつあるようだ。1991年のスタートから25周年ということで、今回から清水穣(写真評論家)を除いて審査員が大きく変わった。「写真新世紀」の受賞者でもある澤田知子、野口里佳に加えて、フリッツ・ヒールベルフ(オランダ写真美術館キュレーター)、荒木夏美(森美術館キュレーター)、さわひらき(美術家)が審査にあたった。さらに大きな変化は動画映像の応募が可能になったことで、グランプリを受賞した迫鉄平の「Made of Stone」(さわひらき選)がまさに動画作品だった。ほかに優秀賞を受賞したのは、新垣隆太「Sweep」(澤田知子選)、岸啓介「HAKKOxRebirth」(野口里佳選)、HALKA「レッツゴー二匹」(荒木夏美選)、松本卓也「Tangent Point」(フリッツ・ヒールベルフ選)、三田健志「等高線を登る」(清水穣選)である。
出品作品の幅を動画にまで広げたのは、とりあえず成功だったのではないだろうか。カメラに動画機能が組み込まれていることもあり、静止画像と動画のあいだを隔てる壁はかなりなくなりつつあるように思う。スナップショットの映像化というべき今回の迫の作品がそうだったように、今後はその境界領域を行き来する作品がもっと増えてくるだろう。逆に、静止画像であることの意味づけが必要になってくる時代が、もう間もなくくるのかもしれない。
同会場では、前回のグランプリ受賞者、須藤絢乃の新作個展「面影 Autoscopy」も開催されていた。「赤の他人」のポートレートに彼女自身の「面影」をうっすらと重ねあわせ、奇妙な揺らぎを生じさせている。着実に自分の作品世界を深めつつあるのではないだろうか。さらにアーティストトーク、ポートフォリオレビュー、写真レクチャー、映像ライブなどの多彩なイベントも開催され、未来志向がより強まっていた。そのことをポジティブに評価したい。
公式サイト:http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/
2015/12/19(土)(飯沢耕太郎)
岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』
会期:2015/12/17~2016/12/20
京都芸術センター[京都府]
岡崎藝術座を主宰する神里雄大の書くテクストは、戯曲というよりむしろ小説を朗読しているように聴こえる。一人称の視点で語られる長大なモノローグ。詩の言語のように、唐突に接合される語句と語句。その飛躍や比喩の密度は詩的なイマジネーションを喚起し、畳みかけるような演説調の語りとあいまって、俳優の身体から発せられる言葉の熱量を高めていく。
本作『イスラ!イスラ!イスラ!』では、「イスラ(スペイン語で「島」の意)」を連呼するタイトルが示すように、「諸君!」という呼びかけで始まる長大な「演説」という体裁を取ったモノローグが、5人の俳優によって順番に語られていく。水槽や観葉植物、紐のれんが設置され、枠組みだけのドアで内と外を区切られ、「室内」に見立てられた空間に、5人の俳優たちは履き物を脱いであがる。彼らは動物や鳥をかたどった呪術的でカラフルな仮面をかぶっているが、服装はTシャツや綿パンなどカジュアルで現代的だ。動物や鳥の鳴き声を口々にたてた喧騒の時間の後、仮面の語り手たちは、一人ずつ順番に長大なモノローグを語っていく。それは、遥か古代から現代に至るまでの、ある「島」の壮大な歴史である。
意識が世界から分離する以前の、混沌とした、悠久の、神話的な時間。大海原と溶け合って波間を漂う何者かの意識は、やがて海流に運ばれ、ある島に漂着する。意識の覚醒。それは人格神のような存在であり(プライドが高く喜怒哀楽が実に豊かだ)、「王」を名乗って統治を始め、「野蛮」で「言葉を介さない」島民たちに「第1号」「第2号」「第4号」……と番号を振って管理下に置こうとする。統治の第一段階は、文明化に費やされる。学校、病院、監獄といった施設を建て、教育を施し、「清潔」や「善悪」の観念を植え付けようと奮闘する。
第二段階では、異質な外部との接触による様々な変化が島にもたらされる。たまたま漂着して島に根付き、産業化や観光化といった「発展」をもくろむ者、捕鯨船の拠点や貿易の話をもちかける者。外部からの移住者も増え、様々な文化や言語が持ち込まれる。そして第三段階では、この島にも加速する近代化の波が押し寄せ、戦争による爆撃や開発・埋め立てによる「私の身体」の変容が語られる。つまり、一人称の話者は、「島」そのものであることが明かされるのだ。
時代の変遷とともに交替する語り手は、交替の度に、歌や足踏みといった儀式的所作が繰り返されることで、「王」すなわち統治者の代替わりを思わせる。それは、祖霊信仰やアニミズムのように、死者の魂が島全体と一体化していることを示唆し、そうした地霊のような島の声は、仮面をかぶってヒトならざる者へと変化(へんげ)した語り手によって、私たちの元に送り届けられる。その声は、文明化に始まり、交易、移民、産業化、植民地、戦争、開発といった人類の歴史が凝縮された物語の内に、多人種・多言語・多文化の交錯する島の姿を描き出すとともに、人間中心的な視点を相対化してみせる。
そうした架空の島の歴史を想像することは、詩的跳躍力を豊潤に湛えた言葉により誘われつつも、一方で、目の前で繰り広げられる光景との落差が、想像力の駆動に絶えず介入し、演劇的なイリュージョンの生成を拒む。豊穣な詩的言語が想像へ誘う引力に対して、目の前の物理的空間や俳優の身体的現前が、絶えず現実へと引き戻そうとする斥力のように働き、一種の異化作用をもたらすのだ。履き物を脱いであがる、日本のワンルームの室内空間。カジュアルな普段着。とりわけ、劇中でただ一人、終始、足漕ぎペダルで自家発電を行なってライトを点灯し続ける俳優が、特異な存在感を放つ。俳優の肉体によって現前で行なわれ続ける労働は、「光」を生み出すが、それはアニミズム的な「神」の威光を示す装置であると同時に、この閉鎖的な室内空間をあるがままに照らし出す。多人種・多言語・多文化の混淆した、ある種のユートピアとしてのハイブリッドな「島」への想像と、しかし、「ここ日本の平均的な日常空間」という閉鎖空間にあってはいかにそれが困難か、ということが同時に露呈されている。だから終幕で、俳優たちは履き物を履いて敷居をまたぎ、舞台設定としての「部屋」、「ハコ」としての劇場、さらには閉じた想像力という閉鎖空間の「外部」へとつながる通路を求めて、歩き去っていくのだ。
2015/12/19(土)(高嶋慈)
あごうさとし『純粋言語を巡る物語──バベルの塔II──』
会期:2015/12/18~2016/12/21
アトリエ劇研[京都府]
劇場空間の中央の床に、約3m四方の白い正方形が敷かれている。4つの角に置かれた、背丈ほどの高さの4つのスピーカー。対角線上には、同じく背丈ほどの高さで縦長のモニターが向かい合う。その周囲を取り囲むように、さらに4つの横長のモニターが置かれ、正面の壁一面に映像がプロジェクションされる。客席はなく、観客は自由に移動して好きな場所から眺めることができる。スピーカーやモニター、すなわち音声と映像の再生装置に取り囲まれたこの奇妙な空間で「上演」されるのが、本作である。ここでは生身の俳優はいっさい登場しない。
開演のアナウンスの後、あちこちに散在したモニターに、ト書きが字幕で映し出される。「人物 夫 妻」「時 晴れた日曜の午後」「所 庭に面した座敷」。そして「台詞」が正面の壁一面にプロジェクションされる。ヒマを持て余した日曜の午後、倦怠期を迎え、自分の気持ちが相手にうまく伝わらないことに互いに苛立ち、すれ違いの会話を続ける夫と妻。ト書きを見ると、「二人は対角線上に対峙する」とあり、対角線上に向かい合ったスピーカーからそれぞれ「夫」と「妻」の声が流れ出す。「不在」の俳優の代わりに擬人化されたスピーカー、その位置関係と距離が、本来二人の間に横たわっている空間性を「再現」する。さらに、対角線上に設置された縦長のモニターにも、「夫」と「妻」らしき人影がぼんやりと映し出されるが、顔はぼやけてはっきりと識別できない。だんだんと、苛立ちをつのらせる二人。モニターに表示された、「妻は夫の周りをぐるぐる回る」というト書きと呼応して、スピーカーから聴こえる声と映像内の人影がぐるぐる回り出す。生身の俳優はいないのに、目に見えない亡霊のような気配に取り囲まれているような感覚だ。通常の観劇体験のように、ある一定の距離を隔てて舞台を一方的に「見る」のではなく、舞台上で生起する出来事のただ中に身を置いているかのような錯覚に包まれる。
劇中、すれ違いを続ける二人の気持ちが、同じ方向へリンクする幸福な瞬間がある。ふとした言葉のきっかけから、二人が空想の鎌倉旅行に行く「ごっこ遊び」が始まるのだ。キャラメル、サンドウィッチ、カルピスといったハイカラな食べ物、タクシーや海浜ホテルといった贅沢な装置が登場し、二人は海で戯れる。この瞬間だけ、映像ははっきりとした海のイメージを結ぶ。しかし、会話が再びほころび始めると、モニターは唇や手足のアップといった身体の断片しか映さない。揺れ動く二人の感情の強度やベクトルに合わせて、映像イメージやその出力レベルが変化していく。
本作で用いられているのは、岸田國士の三つのテクスト、すなわち『紙風船』(1925年)と『動員挿話』(1927年)という戯曲二本と、岸田が大政翼賛会文化部長に就任時に書いた「大政翼賛会と文化問題」(1941年)である。ここで、あごうの関心は以下の二軸にまたがっている:(1)演劇の複製の(不)可能性、(2)岸田のテクストの(不)連続性。この2軸は、「観客の身体」という相において最終的に交差し、祝祭性や一体感、感情喚起力といった、演劇が観客の身体や感情に働きかける根源的な力を明らかにする。
まず、(1)演劇の複製の(不)可能性について。あごうは、生身の俳優の身体的現前を消去することで、演劇を構成する力学それ自体の可視化を試みる。テクスト(ト書きと台詞)、音声、映像(俳優の身体の動き/想像内の心的イメージ)。演劇を構成要素に分解し、空間的に再配置することで、(単なる記録映像にとどまらない)各要素の有機的な関係が立ち上がる生成の空間を、観客に聴覚的・視覚的・身体的に体験させるのだ。
同時に、ナマの観劇体験とは異なる質感が立ち上がる。例えば、俳優の発した台詞は、「録音された声」、すなわち「過去」のものであり、発した身体から切り離された声は、反復・再生可能であるとともに、エコーなど機械による変形や加工が加えられ、物質化していく。
このように、複製技術の使用によって何度でも反復・再生可能な「上演」のただ中にあって、唯一複製不可能なもの、それは、(通常の観劇体験においては意識から遮断されている)観客自身の身体である。視線の拡散や気ままな歩行といった、観客の身体の様々な揺らぎ。本作において、視線を一定方向に束縛するプロセニアム型の対面舞台ではなく、客席がなく「自由に」歩き回れるという鑑賞形式が設定された必然性がここにある。あごうの試みにおいて、「演劇」の「一回性」を担保するのは、この観客の身体なのだ。しかし、観客自身の身体性への自覚は、(逆説的にも)「大政翼賛会と文化問題」という岸田のテクストへの暴力的な介入によって達成された。
そしてここに、(2)岸田のテクストの(不)連続性が関わってくる。『紙風船』のラストに、唐突に接続されるもうひとつの戯曲『動員挿話』。台詞だけを見ると、コミュニケーションのズレを埋められない夫婦の日常会話の続きのように見えるが、実は後者は、日露戦争への出征をめぐって、上官に従う決心をした夫と引き留めたい妻の間で交わされた会話なのである。地続きに見える二つの会話の間に横たわる、「戦争」の見えにくさ。そして終盤、大音量のダンスミュージックがかかる中、「大政翼賛会と文化問題」のテクストが壁一面に映され、朗読する声がDJ風に流される。ト書きは告げる。「人々、立ち上がってリズムをとり始める」「人々、一体感に包まれる」。私が観劇した回では、軽く身体をゆする観客はいたが、皆が一体となって音楽にノる祝祭的な空気は生まれなかった。これは、戦前の大衆心理の熱狂的空間を出現させるという演出上の仕掛けとしては、「失敗」かもしれない。
しかし、「観客の行動の心理的・身体的な誘導」があらかじめ劇の「台本」に指示として書き込まれていることは、逆説的に、演劇的空間における圧力の存在を露呈させる。観客が劇場内でどのように振る舞うべきかを規定し、扇情的な言葉や音楽にノることで一体感を醸成しようとする圧力が、演劇的空間には潜在すること。それを自覚するとき、観客の身体は、一定方向へ誘導する力に支配される危うさに晒されつつも、ささやかな抵抗になりうるかもしれない。「劇場外」と地続きの私たちのリアルな身体と思考に働きかけてこそ、演劇の持つ批評的な力は正当に発揮されるべきなのだから。
2015/12/19(土)(高嶋慈)
潘逸舟 存在を支配するもの
会期:2015/12/05~2015/12/20
高架下スタジオSite-Aギャラリー[神奈川県]
潘逸舟は上海生まれの日本人。中国と日本のあいだで引き裂かれ、あるいは双方を架橋する、アイデンティティの問題を一貫して表現してきた。なかでも優れているのは、昨今の日中外交問題の争点とされている尖閣諸島のイメージを、ゆっくりと水没させる映像作品である。水平線に沈んでいく太陽のように、島のシルエットが徐々に消えていくモノクロ映像は、社会的政治的な意味を超えて、幽玄の美ともいうべき詩情を醸し出していた。
今回の個展では過去作も含めて5点の作品が展示されたが、もっとも注目したのは新作《ミュージカル・チェア》。表裏の二面にそれぞれプロジェクターで映像を投影した映像インスタレーションである。表面には干潮時に海中から現われる小島で5人の男が椅子取りゲームをする映像を、裏面には同じ海の満潮時にその小島が海中に消えていく映像を、それぞれ映し出した。
男たちは海底の石を椅子として椅子取りゲームを繰り広げるが、一人また一人と画面から消えていき、最後に残った一人にしても、ほどなくして島を後にする。結局のところ、島には誰もいなくなり、それもやがて海に消えていくというわけだ。
この映像作品の撮影場所は対馬。言わずと知れた日本と韓国の文化的な接触領域である。だとすれば、男たちの椅子取りゲームは国境線や領土をめぐる政治的な抗争のメタファーとして読めなくはない。だが、潘の視線はここでもそのような表層を超えている。椅子取りゲーム=領土争いというきわめて人為的な振る舞いは、とどのつまり自然の中に雲散霧消するほかないからだ。
潘逸舟の作品に通底しているのは、無為と自然の道を重視する老荘思想なのかもしれない。
2015/12/19(日)(福住廉)