artscapeレビュー
よみがえる画家──板倉鼎・須美子展
2017年04月15日号
会期:2017/04/08~2017/06/04
目黒区美術館[東京都]
2015年に松戸市教育委員会が主催して「よみがえる画家──板倉鼎・須美子展」というタイトルの展覧会が開催された(松戸市立博物館、2015/10/10~11/29)。筆者は二人の名前も作品も知らなかったのだが、チラシに掲載された作品と二人のプロフィールがとても気になっていた。残念なことにそのときは足を運ぶことができずに会期が終わってしまってのだが、今回、目黒区美術館で同じ監修者により同名の展覧会が開催されるとのことで、さっそく出かけた。展覧会タイトルや図録はそのときの展覧会と共通だが、目黒区美術館が所蔵する同時代の作品を加えて再構成されている。昭和の初めに夭折した二人の画家の仕事を伝える、とても印象的な展覧会だ。
夫である板倉鼎は明治34年(1901)に埼玉県の医者の家に生まれた。大正8年(1919)に東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助、田辺至に指導を受け、大正13年(1924)に卒業した。在学中の大正10年(1921)には第3回帝展に入選を果たしている。美校卒業の翌年大正14年(1925)に昇須美子と結婚し、大正15年(1926)2月に海外留学に出発。ハワイ、アメリカを経由して同年7月にパリに到着した。パリではアカデミー・ランソンで画家ロジェ・ビシエールの指導を受け、それまでの写実的な描法を捨て、キュビズムの影響が見られるモダンでシンプル、華やかな色彩の作品を生み出していった。サロン・ドートンヌに入選したり、日本に送った作品で帝展に入選するなど将来を嘱望されていたが、昭和4年(1929)9月、歯の治療中に敗血症となり、28歳でパリに客死した。
妻 須美子はロシア文学者昇曙夢の長女として明治41年(1908)に東京に生まれた。創立したばかりの文化学院で音楽とフランス語を学んでいたが、大正14年(1925)に中退し、17歳で鼎と結婚した。パリに渡った後、昭和2年(1927)に夫の手ほどきで絵画制作を始めた。ハワイでの思い出を素朴な筆致で描いた作品は、同年サロン・ドートンヌに初入選。鼎が亡くなり帰国するまでに3回連続で入選しているという。帰国後は有島生馬に絵の指導を受けるなどしていたが、昭和9年(1934)、25歳で亡くなった。
突然の死によってスタイルが未完のままに終わってしまったがゆえ、二人の作品はその人となりを抜きにして見ることは難しい。そして生涯と言うにはあまりに短いその人生という点では、鼎以上に須美子に同情する。17歳で結婚し、18歳でパリへ。19歳で長女を生み、21歳で生まれたばかりの次女を亡くし、その3ヶ月後には夫を亡くし、帰国。22歳で長女を亡くし、自身も結核のために25歳で亡くなった。夫や長女と写ったパリでの幸せそうな写真や映像から、どうしてその後に彼らを待ち受けていた過酷な運命を想像できようか。
作品と同様に重要なのは、鼎と須美子の没後、鼎の妹 板倉久子氏によって大切に保管されていた二人の作品、資料類だろう。松戸市に寄贈された資料には、500通にのぼる書簡が含まれ、それらはパリでの展覧会や日本人画家、交友のあった文学者たちの動静を知る手がかりとしても重要なものだという。現在、刊行を目指して準備を進めているとのことで、今後の美術史研究に資することが期待される。[新川徳彦]
2017/04/07(金)(SYNK)