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藤森照信展─自然を生かした建築と路上観察

2017年04月15日号

会期:2017/03/11~2017/05/14

水戸芸術館現代美術センター[茨城県]

建築史家にして建築家の藤森照信の個展。藤森と言えば、その土地の風土に沿いながらその土地の自然を素材とするヴァナキュラー建築の旗手として知られているが、本展はアンビルドの建築計画も含めて、その代表作を模型や写真で振り返ったもの。加えて、赤瀬川原平らと結成した路上観察学会の記録写真も展示された。
しかし、その内容はいかにも教科書的な展観で、藤森建築の魅力が十分に伝えられているとは到底思えない。木の塊から一木造りで建築模型を掘り出した作品などは確かに見応えはあったが、全体的にはおおむね中庸と言うほかなく、これといった特徴があるわけでもない。突如として志村ふくみの着物が展示されていたのも、理解に苦しむ。藤森の回顧展は、すでに2010年、茅野市美術館で「藤森照信展 諏訪の記憶とフジモリ建築」が催されているが、「諏訪」に焦点を絞っていたせいか、展示構成の面では確実に諏訪の展覧会に軍配があがると言わざるをえない。事実、諏訪の展覧会では美術館の屋外に空中に浮かぶ茶室《空飛ぶ泥舟》が大々的に展示されていたが、水戸の展覧会では辛うじて屋内に新作の茶室《せん茶》が展示されていたにすぎない。
とりわけ鑑賞者の欲求不満に火をつけたのが、展示の冒頭に掲示された磯崎新のテキストである。言わずと知れたポストモダン建築の第一人者で、なおかつ同館を設計した現代建築界の巨匠は、藤森の土着性ないしは縄文性と著しく好対照の関係にある。そこで磯崎は、まるでヨットから泥舟に向けてロープをひょいと投げ入れるように、藤森建築の真髄をじつに的確に指摘しているのだ。「藤森照信のつくる建物は伽の国の魔女の栖のように見えるけれど、これはまっとうな建築史家が、ある日突然、気が狂ったようにつくり始めたモノだ、ということに注意してください」。そう、藤森建築とは「意識の上層で歴史学者をやり、下層でアートをやる。二重思考をひとつの人格」とするような「異常行動」によって生まれたのだ。だが、本展の展示から、そのような「狂気」や「異常行動」を見出すことはきわめて難しい。あくまでも正常で中庸な展示に終始しているからだ。どうやら企画者には、ポストモダン建築のなかでヴァナキュラー建築の展覧会を催すことへの批評的な問題意識は欠落していたようだ。
さらに磯崎は言う。「この国ではまち、にわ、堂、祠、居、おきものすべて『つくりもの』と考えられていたのです。つまり、謎の記号としての妙な物体が『なまもの』(植物、生きもの)までを取り込んだ『つくりもの』として出現したのです」。ここで言う「謎の記号としての妙な物体」とは、言うまでもなく路上観察学会が観察の対象とした物件を指しているが、磯崎は最近の藤森建築が路上観察学会的な「異常行動」を含めた、より高次の「アーキテクチャー」として統合されつつあることを指摘しているのである。残念ながら、本展のなかでその「つくりもの」に由来する「アーキテクチャー」を体感することはかなわなかったが、そのヒントはもしかしたら私たち自身が街を観察する技術を磨き上げることにあるのかもしれない。磯崎の言うように、この国にはすべてを「つくりもの」として考える風土が根づいているとすれば、その位相を正確に把握するには、建築と非建築、美術と非美術、あるいは正常と異常を峻別する境界線を越えて、あらゆるものを徹底的に観察する視線が要請されるからだ。
美術館の周辺では、水戸路上観察学会の成果物が展示されていた。これは本展の関連企画として催された市民を対象としたワークショップで、参加者が市内を歩きながら物件を撮影したものである。しかし、それらの大半は「路上観察学会」のエピゴーネンにとどまっている。そこから大胆に──まさしく泥にまみれながら──逸脱することが第一歩となるのではないか。

2017/03/30(木)(福住廉)

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