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artscapeレビュー

館蔵品展 絵画は告発する/特別展示 板橋の日本画

2017年04月15日号

会期:2017/04/08~2017/06/18

板橋区立美術館[東京都]

同館が所蔵する作品のうち政治的社会的な主題を描いた絵画を見せる展覧会。芥川沙織や池田龍雄、桂川寛、国吉康雄、古沢岩美、山下菊二らによる作品を時系列に沿って展示することで、戦前のプロレタリア美術から戦後のルポルタージュ絵画までの絵画史を振り返る構成だ。図録が発行されていないばかりか、出品目録も用意されていないなど、現在の公立美術館の貧窮を物語るような展覧会だが、それでも質実な絵画はどれも見応えがある。
展示をとおして浮き彫りになっていたのは、日本近現代の絵画史における政治性および社会性の歴史的系譜である。労働運動に触発されたプロレタリア美術に始まり、官憲の標的とされたシュルレアリスム、敗戦後の再出発の起点とされた肉体(本展では採用されていなかったが、菊畑茂久馬にならえば、これは「肉体絵画」と呼ぶべきである)、そしてレアリスム論争の先に生まれたルポルタージュ絵画──。本展には、同時代の政治的社会的な事象に触発され、あるいは逆に干渉されながら、それらを平面のなかに描写してきた画家たちの苦闘の足取りが刻まれていた。
ところが現在の美術は、そのような歴史的系譜とは対照的に、非政治的な態度をよしとする風潮が根強い。生々しい政治社会の動向とは無縁な位置で美の神話を信奉しながら造形の質を高めるというわけだ。むろん、その要因の一端は、かつて政治社会に接近したがゆえに戦争画に加担してしまったという原罪意識に求められるのかもしれない。しかし、そのようにして政治社会に背を向ける構えが、同時代性を追究するはずの現代美術から今日的なリアリティーを喪失させている一因であることも否定できない(たとえば、VOCA展に見られるように、依然として現代絵画の中核に蔓延っているモダニズム絵画論は、60年代のラディカリズムが極限化して自己解体した後の空虚を充填するかたちで70年代以降に普及したと考えられるが、芸術と政治のあいだで急進化したそのラディカリズムは、本展が焦点を当てた政治的社会的な絵画の系譜の延長線上に生まれたと言えよう)。ましてや優れた想像力によって虚構の世界を構築する現代美術を差し置いて、現実の政治社会がますます虚構性を増強させている昨今、非政治的な美の殿堂に自閉しているだけでは、現代美術の存在意義は大いに疑わしくなると言わざるをえない。
しかし本展が暗示していたのは、現代絵画の政治性社会性とは必ずしも絵画の主題に限定されるわけではないという点である。それは、むしろ絵画という表現形式自体に内蔵されているのではなかったか。
例えば中村宏の《富士二合》(1955)。これは北富士演習場におけるアメリカ軍の射撃訓練に着想を得た作品だ。深い森が広がる富士山の麓から頂上を見上げた極端な構図で、ドラマチックな効果が高い。けれども、ルポルタージュ絵画の傑作として評価されている《砂川五番》(1955)とは対照的に、ここでは米軍の兵士や銃器が直接的に描かれているわけではない。絵のなかにあるのは、林立する針葉樹の前で転がる倒木や、それを苗床にした菌類や草花。暗い色調と鋭角的な線によって強調された不穏な雰囲気が米軍の暴力性を想像させることはあっても、それを明示しているわけではないのである。
また少し時代を遡って、戦前、井上長三郎は旧日本兵らが南太平洋を漂流した事件を主題にして《漂流》(1943)を描いた。同年の国民総力決戦美術展に出品したものの、「厭戦的」との理由で当局から撤去されたという逸話が残されている。事実、画面中央に描かれた小舟は、一本の櫂で辛うじて航行しているようだが、茫々たる水平線が広がる暗い海に頼りなく浮かんでいるようにしか見えないし、船上に力なく横たわる兵士の肉体も疲労感と絶望感に満ちている。戦争画に期待されたような戦意高揚とは裏腹に、どちらかと言えば敗走の意味合いが強い。
ところが、井上はこの絵で必ずしも反戦を訴えていたわけではなかろう。むろん井上と言えば、戦時中の翼賛体制から一定の距離を保ちながら絵を描き続けた新人画会の活動が、今日ではよく知られている。だが、それにしても絵画のなかで社会的な不正を「告発」するような「正義」を体現していたわけではあるまい。《漂流》にかぎらず、井上の代表作には、そのような強いメッセージ性を読み取ることは難しいからだ。
画家は、社会的な現実のなかで、それらを参照しながら絵を描く。それがいかなる政治的イデオロギーに奉仕するかは、基本的には、副次的な問題にすぎない。だが、このことは画家が政治社会の世俗性から切り離された純粋無垢な存在であることを意味しない。彼らが描いた絵を鑑賞者が見るとき、それは鑑賞者の眼と想像力によって政治社会の文脈のなかに必然的に投入されることになるからだ。つまり、絵を「描く」局面においては政治社会と隔絶されていたとしても、それらを「見る」局面においては政治社会と接続するのである。
本展の重心は、「告発」という言葉を採用しているように、主題としての政治性や社会性に置かれているが、井上長三郎や中村宏の優れた作品が暗示しているように、それらは絵画という表現形式のなかに内蔵された属性でもある。私たち鑑賞者の務めは、視線と想像力によって、それらを外部に解き放つことにある。

2017/04/09(日)(福住廉)

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