artscapeレビュー

田村彰英「AFTERNOON 午後」

2010年10月15日号

会期:2010/09/03~2010/10/30

gallery bauhaus[東京都]

上野修が本展に寄せたメッセージに次のように書いている。「かつて、日本現代写真における天才といえば、たったひとりの写真家を指したものだった。その写真家とは田村彰英である。写真でしかできない表現、写真としての写真が模索された1970年代、情念的にではなく、観念的にでもなく、まったく違ったアプローチで、いきなり直感的にそれを浮かび上がらせたのが田村だった」。
この上野の田村評には全面的に共感する。だが、1990年代以降に写真にかかわりはじめた若い観客にはぴんとこないところがあるのではないだろうか。今回の「AFTERNOON 午後」展には、彼が70年代初頭に『美術手帖』の扉ページに掲載した、6×6判カメラによるモノクローム作品が多数含まれている。これらの作品を同時代的に最初に目にした時の衝撃の大きさを伝えるのは、かなり難しいだろう。つまり彼が提示した、日本的な情感やドキュメンタリ─・フォトの臭みからは完全に一線を画した、光と影とが織り成す無国籍かつ断片的な情景は、その後の日本の写真家たちの作品の定石になってしまったからだ。やや無理な比較をしてしまえば、田村の登場は90年代後半に『生きている』(1997年)でデビューした佐内正史と似ている。佐内もまた「天才」としかいいようのない嗅覚で、バブル崩壊以後の日本社会の希薄な気分を掬いとっていったのだが、田村の写真に写り込んでいるものこそ、70~80年代の空気感そのものなのだ。
それから30年以上が過ぎて、あらためて見ることができた「AFTERNOON 午後」の写真群は、やはり僕にとって充分に魅力的だった。当時よりもさらに生々しさが削ぎ落とされ、まさに「写真でしかできない」世界の眺めが定着されている。それとともに、現像ムラ、画面の端の黒枠、引伸しの時に入り込んできたゴミなどがかなり無頓着に扱われているのが、妙に格好よく決まっている。ロック世代の、汚れたジーンスを颯爽とはきこなすような感覚が、写真にもあらわれている気がするのだ。

2010/09/16(木)(飯沢耕太郎)

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