artscapeレビュー
2011年06月15日号のレビュー/プレビュー
五十嵐淳 展 状態の構築
会期:2011/05/13~2011/07/09
ギャラリー・間[東京都]
五十嵐淳展は、どスレートな「建築」模型で勝負する。それゆえ、のぞき込むと、室内の空間や光の状態も感じさせる1/10のスケールだ。模型は建築部分だけを制作しており、まわりの敷地を一切表現していなかったが、ヴォリュームの独特のプロポーションからは東京とは違う、周囲の「敷地」を想像することができて興味深い。
2011/05/26(木)(五十嵐太郎)
「ヨコハマトリエンナーレ2011」記者会見
会期:2011/05/26
スパイラルホール[東京都]
3.11の地震による中止から2カ月半を経てようやく開かれた記者会見。壇上には横浜市長でトリエンナーレの組織委員会会長を務める林文子、総合ディレクター逢坂恵理子、アーティスティック・ディレクター三木あき子が並び、司会の帆足亜紀を含めてすべて女性。これまでのマッチョ主義を排して「小さな物語」を紡いでいくのかと思ったら、そうでもなさそう。今回から国際交流基金が表向き抜け、横浜市が前面に出て市長まで出席しているというのに、市内の同時多発イベントや市民参加プログラムに関してはあまり触れられなかった。
2011/05/26(木)(村田真)
川田喜久治「日光─寓話」
会期:2011/05/10~2011/06/25
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
1959年、6人の写真家たちによって「VIVO」(エスペラント語で生命の意味)と名づけられたグループが結成された。東松照明、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章の6人は、1925年生まれの丹野章を除いては、いずれも1930~33年生まれの写真家たちである。「VIVO」は1961年までの3年間という短い活動期間だったが、同時代及びそれ以降の写真家たちに決定的ともいえるような影響を及ぼした。日本の戦後写真史において、明確に個人の想像力の発現といえるような表現が成立するのは、彼らの登場が呼び水になったといえるだろう。
その「VIVO」の写真家たちも70歳代後半から80歳代になった。佐藤明は既に亡くなり、奈良原一高も長い闘病生活で制作活動ができない状態になっている。だが東松、川田、細江、丹野はまだまだ元気で、現役の写真家として写真展の開催や著書の刊行などの活動を展開している。特に川田はこのところ毎年のように新作展を開催しており、2010年度の日本写真協会年度賞を受賞するなど、その精力的な仕事ぶりには脱帽するしかない。1950~60年代にデビューした川田たちの世代の息の長さと肺活量の大きさは、その下の世代と比較してもやや異常なほどだ。
今回の川田の展示は、日本文化のバロック的な美意識の典型というべき日光をテーマにした新作である。ただ、メインとなる日光東照宮や華厳の滝の画像は1980年代に『藝術新潮』の取材で撮影したもので、それらをデジタル的に加工しつつ、新たに撮影したイメージと合成している。2000年代になって本格的にデジタル表現にチャレンジし始めてから、彼の作品はよりカオス的な流動性が強まっているように感じるが、今回のシリーズはその極致といえそうだ。特に画像の細部からわらわらと湧き出るように出現してくる龍、鳳凰、象、猿、猫などの幻獣たちが、見る者を過剰なエネルギーが渦巻く魔術的世界に引き込んでいく。川田はまた展覧会のテキストとして「日光─寓話」と題する文章を寄せているのだが、これもまた充分に一個の掌篇小説として読むことができるものだ。中井英夫や澁澤龍彦の系譜に連なる幻想譚を書き継いでいくのも面白いのではないだろうか。
2011/05/27(金)(飯沢耕太郎)
【帰心の会】東北みらいプロジェクト特別セミナー「復興のデザインを考える」
会期:2011/05/27
伊東塾で開催された帰心の会の第二弾。序盤のトークは東京とほとんど同じだったが、その後の議論では、釜石のワークショップを経た伊東が、われわれは美しいものをつくることで人々の心をなごます、山本が既存のシステムをすぐに変えられなくても、異なる価値の空間を足すことができるのではないか、といったことが新しく語られた。もっとも違っていたのは聴衆である。せんだいメディアテークでは、建築の関係者以外に多くの一般人が参加していた。おそらく、そうした市民は、有名建築家が訪れるから、普通の高台移転案とは異なる、斬新な街のヴィジョンが発表されると期待していたのではないかと思うが、帰心の会の考えをどう受け止めたのかが興味深い。
2011/05/27(金)(五十嵐太郎)
山本伸樹 展「失くなったもの 残ったもの」
会期:2011/05/20~2011/06/12
HIGURE 17-15 cas[東京都]
1階には、軽トラックやドラム缶を新聞紙で型どった立体が無造作に積まれ、2階にはやはり新聞紙で固めた子ブタが数十匹ぶら下がっている。これだけではなんのことだかさっぱりだが、作者が福島県在住で、しかも使用した新聞紙が震災報道で埋められていることに気づけば、これが震災後、そして原発事故後の荒涼たる姿を表わしていることは明らかだ。もちろん被災地の光景はこんなものではないだろうけど、そんな希有な災害に直面した表現者のやむにやまれぬ思いは痛いほど伝わってくる。
2011/05/27(金)(村田真)