artscapeレビュー
2012年11月01日号のレビュー/プレビュー
Design Futurology
会期:2012/09/27~2012/11/25
ソウル大学校美術館[ソウル(韓国)]
デザインの条件を考える際によく取り上げられるのが「造形性・独創性・実用性・経済性」だ。国や地域によってその時期は異なるが、おおむね1930年代以後に現われた、大衆消費社会はデザインの造形性や経済性の向上をうながし、逆に優れたデザインは消費をうながすといった、いわゆる生産と消費の好循環システムが確立することになる。そんななか、限りある資源や環境問題への関心が高まり、1970年代以後はデザインの役割を見直そうとする動きが広まった。グリーンデザインやエコデザインに対する議論が本格的になり、持続可能なデザインが求められるようになったのである。本展は、人間とその未来をつなぐ持続可能なデザインのあり方を考える試み。例えば、デヴィッド・トルブリッジ(David Trubridge)の竹素材の照明器具は折りたたむことが可能で、包装や運送費用の節約ができるといった具合だ。また、京都造形芸術大学の竹村真一教授の地球温暖化を考える「Tangible Earth」プログラムや、ある韓国企業の住宅再開発を見直す「Junkyard Project」など、さまざまな試みが紹介されていた。たしかタイムリーな話題だが、展示(内容)の新しさは足りないように感じた。[金相美]
2012/10/07(日)(SYNK)
re-pair展
会期:2012/10/06~2012/12/02
旧元町公民館[大分県]
別府市内は、「混浴温泉世界」の開催にあわせて「ベップ・アート・マンス2012」という名の市民によるさまざまな文化的なイベントが催されている。本展もそのフレームを活用して開催された美術展。ランドスケープデザインスタジオのEARTHSCAPEとアーティストの竹下洋子が、商店街の一角に立つ古い雑居ビルの屋上に設えられた公民館に手を加えた作品を発表した。
狭い階段を登っていくと、壁のいたるところにカラフルな線が走っていることに気づく。よく見ると、それらは壁のヒビに糸を押し込んだ作品だった。公民館の内部は、縦に置き直された日の丸を中心に帳簿や時計、魔法瓶、湯呑み、小皿などが陳列され、それらが往時の活動を偲ばせていた。
公民館の内外で繰り広げられていたアート作品に通底していたのは、古びたモノを美しさに反転させる発想。そのことによって建物や共同体の「再生」を謳うアートプロジェクトは数多いが、この作品がすばらしいのは、そのような美辞麗句を軽々しく喧伝することなく、むしろ歴史を「想像」するように仕向けるひそやかな品性が一貫しているからだ。
アートにできることは限られている。だが、それは無力であることを意味するわけではない。私たちの想像力に大いに働きかけることができる、その意味はとてつもなく大きい。
2012/10/07(日)(福住廉)
加瀬才子
会期:2012/09/29~2012/10/21
platform02[大分県]
「BEPPU ART AWARD 2012」でグランプリを受賞した加瀬才子の個展。生死をテーマにした《Life-time Project》を発表した。
これは、毎年末にみずからの頭髪を剃り落とし、それらを身体の一部に貼り付けて写真に撮影することを繰り返し、最終的にはアーティスト自身の死後、彼女の遺骨を加えて催される展覧会によって完結するという壮大なプロジェクト。今回の個展では、これまでに撮影してきた写真や、このプロジェクトをはじめる契約を親族や弁護士をまじえて結ぶ様子を映した映像などが展示された。
生死をテーマとする作品は少なくないが、これほど長大なスケールで表現しようとした作品は珍しい。「ライフワーク」にはちがいないが、厳密に言えば、この言葉ではとてもとらえきれないほどの絶対的な時間性を実感させるところに、このプロジェクトの核心があるのではないか。
「わたし」のなかに流れつつも、「わたし」を超えて流れていく時間。それを宇宙や自然といった外部に仮託して表現するのではなく、あくまでも「わたし」に拘泥しながら表現すること。とりわけ原発事故以後、私たちは人類の歴史を100年、いや万年単位で想像することを余儀なくされているが、加瀬のプロジェクトはその果てしない時間感覚を、再度個人に繰り込むことで、人間であることの責任を果たそうとしているように思えてならない。
2012/10/07(日)(福住廉)
プレビュー:駄作の中にだけ俺がいる
会期:2012/11/10
ユーロスペース[東京都]
いつの頃だったか、小説家の遠藤周作が自宅の食卓を紹介する雑誌記事で、夫人とともに白米と味噌汁とめざしという絵に描いたような清貧の食卓を撮影させていたことがあった。あれは、どう考えても雑誌のための意図的な演出だったのではないかといまでも訝っているが、この話を思い出したのは、会田誠のドキュメンタリー映画があまりにも中庸な家族を映し出していたからだ。
アーティストという職業が特殊であることは疑いないとはいえ、子どもの教育問題に思い悩む妻や、それを横目に仕事に打ち込む夫という家族風景は、凡庸といえば凡庸である。映画では息子の問題児ぶりが強調されていたが、問題の程度で言えば、まだまだ生易しいし、もっと激烈で非道な幼少期を過ごした大人はいくらでもいる。
そうすると、もしかしたらこの映画のなかの会田家は、かつての遠藤周作のように作為をもってつくられた家族像なのではないかと裏を読みたくもなる。つまり会田誠は平凡な家族像ですら身を持って絵に描くことで、とんでもなく恐ろしく、恥ずかしい、身も蓋もない裏側の世界を隠しているのではないか。
だが、よくよく考えてみたら、そのようにして意味を過剰に読み取らせることをもっとも得意としてきたのが、会田誠その人だった。バカなふりして油断させて批評的な一撃を加えたり、そうかと思って警戒すると、ほんとうにバカなだけだったり。このような両面性が会田誠の魅力だとすれば、このドキュメンタリー映画は、良くも悪くも、会田誠の一面を見せることには成功していると言えるだろう。
2012/10/10(水)(福住廉)
人造乙女博覧会III
会期:2012/10/08~2012/10/20
ヴァニラ画廊[東京都]
人造乙女、すなわちラブドールの展覧会。老舗のオリエント工業による3回目の博覧会である。
展示されたラブドールは6体。肢体はもちろん、肌や唇の質感、眼の表情など、きわめて高度な再現性に文字どおり度肝を抜かれた。顔の造作がやや一面的すぎるきらいがあり、アニメやマンガの強い影響力が伺えたが、それを差し引いたとしても、この造形力はずば抜けている。見ているだけで人肌のぬくもりが伝わってくるかのようで、その生々しい感覚に思わず戦慄を覚えるほどだ。これに声や人工知能がインストールされるとしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。
しかも、今回の展示の中心は、ラブドールと家具を一体化させた「愛玩人形家具」。腰にテーブルを装着したバニーガールの乳首から赤ワインや牛乳が飛び出たり、重厚な本棚の中に棚板を突き破るかたちでラブドールが屹立していたり、実用的なのか冗談なのかわからない造形物で、ますます混乱させられる。
展示されたラブドールは基本的に触ることはできないが、会場の一番奥に展示された一体のラブドールだけは例外で、係員の女性に両手を消毒スプレーで除菌することを促されたあと、直接手を伸ばすことが許された。何より驚かされたのは、肌の質感よりも、その温度。限りなく肉体に近い造形性を散々眼にしてきたせいか、脳内にはそのぬくもりが自動的に再生されていたが、じつのところラブドールの肌は思っていたほど暖かくはなかったからだ。とくに冷たいわけではないが、温かいわけでもない。期待はずれというか、一安心というか、とにもかくにも目を疑うどころか、自分の知覚を根底から激しく揺さぶられる経験だった。これはもはや立派なアート作品である。
いま振り返ってみれば、あの人肌のギャップは、人間とラブドールを限りなく近接させながらも、ラブドールがラブドールであることを人間に辛うじて知覚させる、最後の一線だったのかもしれない。だが、そのことを理解しつつも、いずれ超えてしまうのが人間の業なのだろう。
2012/10/11(木)(福住廉)