artscapeレビュー

2012年11月01日号のレビュー/プレビュー

第七回田辺銀冶根付会 爆裂お玉

会期:2012/10/13

お江戸日本橋亭[東京都]

講談師、田辺銀冶の独演会。師匠の故田辺一鶴とレディー・ガガをモチーフにした創作講談、そして「爆裂お玉」の最終回を披露したほか、伝説の紙芝居師、梅田佳声による紙芝居もあわせて上演された。
銀冶の魅力はなんといっても声である。おきゃんなキャラクターを体現する爆発的な笑い声もさることながら、声の高低によって作中の登場人物を演じ分ける振り幅の大きさがすばらしい。今回は「爆裂お玉」という痛快な悪女がおそらく性根に合っていたのだろう、これまでにないほど高い声ののびやかな広がりと、低い声の猛々しい艶っぽさが引き立っていたように見えた。
敬愛してやまないレディー・ガガを模した緑色の鬘は当人いわく「大阪のおばちゃん」のようだったが、それはともかく、このような銀冶の声の質は、まさしくガガのそれと明らかに通底していた。講談の伝統が刷新されるとすれば、それは当世風のモチーフを取り入れるだけでなく、同時に、講談そのものよって声の生々しさや美しさを私たちの文化に取り戻すことが不可欠だろう。

2012/10/13(土)(福住廉)

山下残『ヘッドホンと耳の間の距離』

会期:2012/10/10~2012/10/14

STスポット[神奈川県]

『北斗の拳』や『ジョジョの奇妙な冒険』を彷彿とさせるおかしな表情やポーズを取りながら、若い男二人が声を漏らしたり床を踏みしめて音を立てたりするのを、マイクロフォンが拾って、アンプから増幅した音を出す。50分の舞台で起きるのは基本的にこれで、仕組みとしてはさほど目新しくないとも言えるのだが、視覚も聴覚も刺激するしっかり充実した上演であった。どんな動きでも体は勝手に音を出しているもの。ダンスだからと言って視覚的な動きにだけ注目するのではなく動く際の勝手に出た音にも注目し、それを採集して、アクションペインティングならぬアクションプレイング(演奏)にしたのが面白い。それは確かにそう、しかし、ただ採集したのではなく、大事なのは、瞬時にディレイやリバーブで加工することで、音は動作から離れ一人歩きを始め、そのうえでなおも音の源である体の近くに居座っていることで、その効果が面白さを倍加させていた。四つん這いになって倒れ込むと両膝と両腕で床を叩くことになるが、その音が過剰にヴォリュームを上げられ、リバーブもかけられなどされると、まるで漫画の効果線みたいな効果を与える。四つん這いの姿を置いていけぼりにして、音が勝手に過激化する。視覚像と音像のギャップがおかしくて、身体の見え方が変わってしまう。そんな仕掛けがじつに巧みだ。それよりなにより、このポーズ(動き)を取らせるか!と山下残のセンスがずるい。それは山下が既存のダンスにとらわれずにダンスをつくっているからこそのものだろう。そう、ダンス作品を面白くするのもつまらなくするのも、作り手が「ダンス」なるものにどう囚われているのかを自覚し、その囚われからどう自分を解放しようとするのかにかかっている。

2012/10/14(日)(木村覚)

現代郷土作家展 吉本直子・久保健史・浅田暢夫

会期:2012/09/13~2012/10/21

姫路市立美術館[兵庫県]

姫路を中心とした播磨エリア出身の作家に出品を依頼し、美術館と作家が相互協力してつくり上げるのが特徴の本展。近年は隔年で開催されており、今年は、シャツを用いた立体やインスタレーションを制作する吉本直子、大理石の彫刻によるインスタレーションで知られる久保健史、水面ぎりぎりから撮影した海の写真などで知られる浅田暢夫の3名が選ばれた。展示はそれぞれ対照的で、浅田は同一サイズのプリントを一直線に並べ、吉本は立体とインスタレーションと原発事故の作業員が着用する防護服(同一の物かは不明)に刺繍をほどこした作品を出品、久保は展示室内にアトリエを移設し、彫刻と私物が混在するインスタレーションで自分自身の美意識を造形化した。三者三様の美学が見て取れる質の高い展示に満足するのと同時に、関西の他の美術館でも地元作家が活躍できる場を増やすべきだと痛感した。

2012/10/14(日)(小吹隆文)

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3.11とアーティスト:進行形の記録

会期:2012/10/13~2012/12/09

水戸芸術館現代美術ギャラリー[茨城県]

アーティストは東日本大震災にどのように反応して行動したのか。本展は、23組のアーティストが現地で繰り広げた、あるいは現在も進行している諸活動を、あの日から現在までの時間軸に沿って紹介したもの。
加藤翼のインスタレーションがあまりにも粗雑であり、開発好明の《デイリリーアートサーカス》を招聘した反面、ラディカルな《政治家の家》を展示に含めないなど、難点がないわけではない。とはいえ全体的には見応えのある展示で、一つひとつの「活動」をていねいに見ていきたくなる。
ひとくちに「活動」と言っても、そのかたちはじつにさまざま。作品として結実させたものもあれば、それ以前の段階をそのまま見せたものもある。悲劇に寄り添う作品もあれば、復興のエンパワーメントを志す作品もある。それらのなかに「正解」があるわけがないのは明らかだが、ひときわ注目したのはタノタイガである。
被災地で瓦礫撤去のボランティアに参加するプロジェクト「タノンテイア」を組織している。会場には、その記録映像のほか、使用した作業着、道具、そして瓦礫のなかから拾い集めた数々のモノが展示された。作業着やワニなどの置物などに残された泥が津波の衝撃や過酷な作業を物語っているが、これらをボランティアの活動報告として受け取ることはできるにしても、アートとして見ることはなかなか難しい。
むろんかき集めた泥を詰めた土嚢を美しく積み上げた「タノミッド」にアーティストならではの才覚を見出すことはできなくはない。けれども、タノタイガはアートから意識的に距離を取ることをあえて選択していたようだ。会場で発表されたのは、「アーティストが今できること。それはアーティストであることを捨てること。無名になって、誰かの生のために汗を流すこと。涙ではなく汗を」という決意の表われにほかならなかった。
それが「記録」なのか「作品」なのかはさほど重要ではない。問題なのは、あの震災がアーティストという強力なアイデンティティを無名性に還元したという事実である。そして、そのある種のタブラ・ラーサから、再び表現を組み立て直そうともがいているアーティストがいるという事実である。だからタノタイガが実践しているのは、被災地の復興への尽力であると同時に、アートそのものの復興でもあるのではないか。この危機をくぐり抜けたアーティストが今後どんなアートを立ち上げるのか、注目したい。
311と815は私たちの暮らしや文化に決定的な打撃を与えた歴史的な事件である。だが、その出来事をひとつの問題として共有する経験は、放射能汚染に対する危機感が東日本と西日本のあいだではっきりと分断されているように、もしかしたら311は815より乏しいのかもしれない。その経験に厚みを持たせる機会として、本展を活用してほしい。

2012/10/14(日)(福住廉)

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トヨクラタケル こどもさいぼう

会期:2012/10/15~2012/10/22

乙画廊[大阪府]

紙、フェルト、糸を素材に、子どもたちを主人公にした温かみのある情景を描き出すトヨクラタケル。しかし作品を見直すと、無垢なはずの子どもたちが結構残酷なことをしていて、実はブラックな世界を併せ持つことに驚かされる。本展では新たな試みとして、切り刻んだ子どもたちのパーツを貼り付けた抽象画や、子どもたちを張り合わせてつくったジャケットなども展覧。表現の可能性を大きく広げることに成功した。

2012/10/15(月)(小吹隆文)

2012年11月01日号の
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